「……す、すごいね……」
「ふむ、そうか?」
前回出した宿題を確認すべく、見せてもらったノートに面食らう。たくさんの数式と、間違う度に入る赤ペンのチェック。可愛らしい花丸があったり、教師顔負けの雄々しいチェックや文字が書いてあったり、とても賑やかだ。
「これ、誰かと一緒にやったの?」
「うん。前からたまに見てもらってたし」
「……私が教える必要ある……?」
「他のことに忙しかったり、説明するのが苦手だったり、説明が難しかったり色々だ」
そんなもんかなぁ、と聞きながらノートを眺める。女の子らしい文字で、ここはこうよ! と指示があったり、大人っぽい文字で解答集顔負けの解説がされていたり。色んな友達がいるんだなぁと微笑ましくなりながらも読んでいると、それを遮るようにどうだ? と何かを訊ねられて。
「えっと? すごいね?」
「じゃあ、今日は早く終わりか?」
なるほど、頑張ってあったのはこの前の約束を覚えていたからなのか。もし宿題で間違えたところが多ければ、改めて説明しつつ練習する時間を取らなければと思っていた。けれど、これを見るに間違えたところはきちんと説明してもらったみたいだし、遊真くん自身もやり直している様子。前回の所をここまできちんと復習しているとあっては、私としても文句はつけられない。
「いいよ。じゃあ今日は三十分くらいで切り上げよう」
「うむ」
満足気な笑顔。遊真くんにとっては勉強も大事だけど、夜の散歩も大事なのかな。それも受験勉強の気晴らしになるなら大人しく付き合おうと考えていると、今日遊真くんが取り出したのは国語の問題集だった。ぱらぱらと捲って開かれたページへと、遊真くんと揃って視線を落とす。
「ニホンゴは難しいな」
「そうだねぇ」
国語は基本的に漢字の読み書き、それから小説や論文、エッセイなど様々な文学の読解を行う学問……だと、思っている。
けれど遊真くんが苦手だと言って開いたのはいわゆる“ことわざ”や“慣用句”、“故事成句”だった。正直こういうのは勉強するというより、実際に使われるところを読んだり聞いたりして慣れていくような部分があるんだよなぁ。改めて説明を求められると難しいかも。そう不安になりながらも持ってきていた電子辞書を取り出して調べつつ、解説とを読み比べながら説明をはじめる。
「まず矛盾、ね。これは矛と盾って意味なの」
「ほこ」
「……剣? いや、槍かなぁ」
「ふーん。それで?」
私は有名な故事をそのままそらんじる。昔あるところにいた商人が、自らの商品を売るべく声高に言ったことだ。この鋭い矛に貫けぬものはない。この硬い盾を貫けるものはない。ならば、その矛で盾を突けば、どうなるか。
「なるほど。ウソってことか」
「ちょっと違うかな。どっちも本当にならない。どっちも嘘にならない。そういう辻褄が合わないことを矛盾っていうの」
私の説明に首を傾げたところをみると、イマイチしっくりとはきていない様子の遊真くん。だから、私はついでだからとことわざの欄を指しながら説明を続ける。
「たとえばこれね、二度あることは三度ある、ってことわざ」
「ふむ?」
「厳密には違うけど、これは言葉通りの意味だよ。一度、二度、そうやって頻繁に起こることは三度目もあり得るって話」
「ふーん」
「でもね、三度目の正直って言葉もあるの」
ちょうどよく載っていたテキストを指さしながら、さらに説明。
「一度、二度って失敗しちゃったから、今度こそ、って三度目は成功させた、みたいな話」
「……ほぅ、それがムジュンか」
適度に説明を省略したおかげで、遊真くんは矛盾という言葉の意味をうまく飲み込めたらしい。
本来なら『二度あることは三度ある』っていうのはどちらかと言うと警告に使うことが多いらしい。失敗や悪いことが立て続けに起こった場合は、それを防ぐべく気を付けるべきだ。そういう訓告として用いるための言葉だとか。
逆に『三度目の正直』とは、一度目、二度目のことはあてにならないということらしい。失敗は成功の元と言うように、あくまで一度目二度目は参考でしかない。三度目には成功できる、と失敗を恐れるより行動しようと奨励する言葉のようだ。
「二度あることは三度ある、か三度目の正直、はどっちかがウソになるんだな」
「まぁそれぞれ使いどころは違うし、つまりは嘘も方便って奴だよ」
うそもほうべん。とオウム返しする遊真くんの視線を受けて、私はまたテキストを指さす。
「目的を達成するために時には嘘も必要ですよ、っていう話」
「うむ。それはわかる」
「だから、誰かを応援するために、誰かに警告するために、嘘で勇気づけたり脅したりするんじゃないかな」
遊真くんは、途端にきょとりと目を丸くして私を見つめる。私、何か変なこと言っただろうか? 思わず冷や汗をかいていると湊川さんは、と小さく呟く。
「ウソはよくない、とは言わないんだな」
それは随分と唐突な質問だった。いや、遊真くんに勉強を教えている最中の質問はたまに予想の斜め上をいくけれど。それにしても、わからないことを訊ねるような質問だったはず。つまるところ、こんな感想を求められるような質問は珍しいと思ったのだ。
「まぁ、私も嘘つかないわけじゃないしねぇ」
「そうだな」
「え?」
「いや、こっちの話」
……そんなにわかりやすく嘘ついたことあったかな。まぁ、それでも黙っていてくれたのならありがたいと思っていよう。それで? と遊真くんが促すので、改めて嘘について考える。
「人を傷つけたり、何かを誤魔化す嘘って最後に困るのは自分だから、誰かがダメって言えるものでもないんじゃない?」
だいぶ間をおいてから、それでもほう? と中途半端に頷いてみせる遊真くん。あれ、この感覚ってそんなにしっくりこないものかな? 私はもう一度テキストに視線を落として目的のことわざがないか探す。
「ほらこれ。天に向かって唾を吐く」
「なんだそれ」
「人に悪いことをしようとすると、自分の所に返ってくるんですよって話」
ふぅん、と遊真くんは文字列を眺めながら相槌を打つ。ことわざや故事成句は身近な体験を元にしたものも多くあれど、教訓的なものも多い。だからだろうか、嘘を題材にしたものも多くあるような気がする。それほど、嘘というのは昔から人々の身近にあったものなのだろう。それだけでなく、勧善懲悪といった童話の一つにも有名な嘘の物語がある。
昔あるところに、羊飼いの少年がいました。少年は退屈だったので、村の人々に「オオカミが来たぞ!」と嘘をついては、驚き慌てふためく村人たちを見て笑っていました。ところがある日、少年の元に本当にオオカミが現れたのです。慌てて村の人々に助けを請うも、「どうせまた嘘だろう」と言って聞く耳を持ってくれません。少年の羊はすべて、オオカミに食べられてしまいましたとさ。
「……それで?」
「嘘をついてばっかりだと、いざっていう時に信用してもらえませんよっていう教訓?」
「それなのに、湊川さんはウソはよくないとは言わないの?」
遊真くんはやけに嘘に拘るなぁ。何か思う所でもあるんだろうか。それとも、夜遊びはよくないなんていう私が嘘に対しては咎めないことが、そんなに不思議なんだろうか。
「嘘つきは泥棒の始まりって言葉があるよ」
「うん?」
「嘘を平気でつけるようになると、悪いことも簡単にできるようになっちゃうよっていう話」
「へぇ」
「嘘をつくって多少なりとも罪悪感があるものじゃないかな。だから、罪悪感があっても嘘をつくなら、その人には嘘をつく意味があるんでしょ。それなら他人が口出しするものじゃないし、罪悪感のない人は咎めたって意味がないんじゃない?」
嘘ってどういう時につくものだろう。その場を誤魔化すためだとか、見栄を張るためだとか。相手にとって辛いだろう真実から一時でも目を逸らすためだとか、相手を信用させて自分が利を得ようとするためだとか、理由は様々だ。
ただ、少なくとも共通しているのは何か“目的”があるということ。嘘には意味がある。どんな些細でも、誰かにとっては何の意味もなくても、嘘をつく人には“何か”があるはず。たとえ嘘が、あまりよくない手段であったとしても。
「どうせなら嘘じゃなくなればいいのにね」
ついと遊真くんの瞳が再び私を射抜いた。真似事教師の延長になるよう、私はテキスト上のことわざを指さしながら話を続ける。
「嘘から出たまこと、って言ってね。嘘のつもりだったのに本当になった、なんてことがないわけじゃない」
「たしかに」
「それか、最後まで騙し切ってくれれば、それもきっと嘘じゃなくなるかな」
相槌もなく、じぃと見つめる視線。困ってしまうけど、それでも私は思うのだ。
「嘘って気づかないまま、本当だって信じたままでいられたなら。それは嘘じゃなかったことになるんじゃないかな。少なくとも、嘘をつかれた方にとっては」
「……ふーん」
なんだか呆れられてしまったようで、もう一度しみじみとため息をついた遊真くん。でも嘘なんて、言う方ならまだしも、言われた方は嘘か本当か判別がつかないんだからどうしようもないと思うけど。
そう言いかける前に、遊真くんはバックヤードの壁掛け時計を見上げてあ、と声を上げる。
「湊川さん、時間」
「……あ、もう二十五分」
遊真くんと話していると時間があっという間に過ぎてしまう。私はもう一度問題集を見てみるけれど、この単元はさすがにやり込むというよりは繰り返し読み直して身に付けた方がよさそうだ。
「じゃあちょっと早いけど、宿題を決めよっか」
そうして今日は国語の宿題に決定だ。国語は特に学年ごとの単元があるわけではないので、それほど悩むこともなく範囲を指定する。そうなると、時刻は十時三十二分。
「よし、おしまい」
「ありがとうございました」
私のおしまいの合図を聞いて、遊真くんはさっさと机の上を片付け始める。と言っても、問題集とノート、筆記用具を仕舞えばあっという間だ。帰り支度を済ませた遊真くんが今かと私を見つめて待っているので、私も支度を済ませる。
「それじゃあ、ちょっとだけ散歩ね」
「うむ。だがその前に」
バックヤードから一歩だけ出た遊真くんは、真っ直ぐにどこかを指さした。追って見ればおにぎりとかお弁当のある陳列棚。あぁ、夜食を買っていこうということか。遊真くんがさっさと棚の前へと歩いていくので、私もその後に続く。
ちょっと小腹が空いたんだけども、おにぎりはちょっと……夜にはマズイかな。でも一個くらいならいいかな、と一つ。それから飲み物くらいはとペットボトルを選べば、遊真くんも遊真くんで自分の分を選んだのか、手が商品棚へと伸びている。
買うものを決めた私は一足先に店長の待つレジへ。商品を置いてさて、と財布を取り出そうとすると――隣に割り入ってきた遊真くんも、同じく商品を置く。気が早いなぁ。そう思った、のに。
「テンチョーさん、これ、全部おれが払う」
え? と思わず聞き返す一方で、店長はそうかい、と言って淡々とバーコードを読み取りはじめた。もちろん、私が置いた商品の後に遊真くんの分も。え、なんで?
「ど、どういうこと?」
「前は買い物しなかったからな」
店長はさらりと合計金額を読み上げ、遊真くんも当然のようにお札を出してしまう。前は、って前回の勉強会の時? 確かに、終わったらもう十一時だったから、早く帰れって見送ったけども。それと、今奢られそうになってることに何の関係があるの? 店長はもうお会計ボタン押しちゃったみたいだし釣銭数えてるし。
「あの、遊真くん」
「そのくらいのお礼は必要だろ?」
店長から釣銭を受け取った遊真くんは、何事もなかったかのようにお金をしまった。一方の店長も、私が置いた分と遊真くんが置いた分をそれぞれ違うレジ袋に詰めて私たちに差し出してくれて。受け取ってしまっていいのだろうか。そんな躊躇いも見透かしているような店長は、穏やかな笑顔で私を見つめたまま、レジ袋を差し出して待っている。結局、渋々と受け取って、改めて。
「……ありがとう、遊真くん」
「いえいえ、どういたしまして」
受け取ってしまってよかったのかなぁ、と思わなくはない。だってなんか、年下にたかってるみたいでなんとなく居心地悪いし。けれどお礼と言われてしまえば受け取らないわけにもいかないだろう。
とりあえず、勉強会が終わったので店長にもありがとうございましたの挨拶。そのまま手に持つレジ袋になんとなく気恥ずかしさを感じながらも、遊真くんとの夜の散歩を満喫して帰宅した。次の勉強会も頑張らないとなぁ、なんて密かに気合を入れ直しながら。