遊真くんは男の子だ。お姫様抱っこされたことも記憶に新しい、力持ちの男の子。第一印象は、目立つ白髪から非行少年だったのだけど。夜歩きすることは誉められたことではなくとも、勉強の息抜きだからと少しだけ大目に見るようになって。教えてくれと頼まれて一緒に勉強をするようになった今では、どちらかと言うと努力家の、いい子なんだなぁとは思っている。
けれど、まさかそんな遊真くんとの関係が、今の友達とも、先輩後輩とも、ましてや先生と教え子とも言えない違うものになるなんて思ってもいなかった。そして、そのきっかけが何気ない夜の散歩中に訪れる、とも。
「おいおい、こんな時間にデートか?」
「いやまさか。姉弟かなんかだろ」
「ようボク、ちょーっとおねえさんと大人のオトモダチになりたいから先にお家帰っててくれる?」
今日の散歩ルートは川原沿い。川の向こうの景色を眺めながら、明かりの少ない細い土手道を二人でゆったりと歩いていた。だから、通り過ぎた橋の陰に人がいたことに気づかず、ましてやそれがこんな見るからに不良ですって感じの人だなんて予想もできなかったのだ。
これ、ヤバイかも。この前も遊真くんの同級生に絡まれたけど、この人たちは見るからに悪いことに慣れてますって貫禄がある。相手にするより逃げようと遊真くんの手を引くも、目的を察したのか反対側の手首をがしりと掴まれてしまって。
「おねーさんシカト?」
「夜は大人の時間だろぉ? そこのボクなんかより俺たちとの方が楽しめると思うぜ?」
……さて、どうしたものか。せめて遊真くんを逃がしてあげられないだろうか。なんて、察されてしまったら遊真くんも逃がしてくれなくなるだろう。でも私を掴んでいる今なら、隙をついて逃げられるかもしれない。うまく逃げてくれないだろうか。
そう思って、少しでもチャンスがあればと遊真くんの手を引いて背中に隠そうと――したのだけど。ぐ、と抵抗された感覚が手に伝わって、どうしてかと遊真くんを見やる前になぁ、と凛とした声が響く。
「手、放しなよ」
「ボク〜心意気は立派でちゅね〜」
「……おれの話聞いてるか?」
ど、どうしよう。下手に絡んだらまずいでしょ。そう慌てて遊真くんを引き止めようとしても何のその。遊真くんは私の手を掴む男の前に立ち、これ、と男の手を指さす。
「この手、放してくれる?」
「だからぁ、ガキが生意気言ってんじゃ――」
声を荒げると同時に振り上げられた男の手。瞬間的にこれから起こることを察してしまった。まずい。そうわかっているのに身体は動かない。真っ白な頭では目の前の光景を呆然と眺めるしかできなくて、男の手が迷いなく目の前の――遊真くんに振り下ろされる。
当たる、瞬間、思わず目を閉じてしまった。暗闇の向こうからどぐ、と肉の弾むような気持ちの悪い音が響いて耳の奥にこだまする。どうしよう、どうしよう、どうしよう。警察? 救急車? 怖い、怖いけどでもいつまでもこのままでいるわけにもいかない。と、覚悟を決めてやっとの思いで恐々目を開けると――私の手首を握っていた男の手からゆるりと力が抜ける。どさり、と草むらに膝をついた男。それから、変わらず目の前にある背中。
「放してくれて、ありがとう」
遊真くんの勝気な声が、確かに聞こえた。今のは遊真くんが殴られた音じゃなくて、逆に遊真くんが男の一人を……殴った、音? 私だけでなく周りの男たちも呆けている間に、いよいよ膝をついていた男がどさりと倒れこんだ。我に返った私は遊真くんの手を引いて弾けるようにその場から駆け出す。
「……、お、おい! 待て!」
「大丈夫か!? どうする!?」
「くそ、なんだ今の!」
男たちの喧騒に耳を貸す暇なんてない。ひたすらに走って、走って、土手道から下りて住宅街へ。後ろを顧みる余裕はなかったけど、さすがに追ってきてない、かな。でも怖くて足は止められず、走って、もつれた足が絡んで――盛大に転ぶ。刹那、ぐっと遊真くんに腕を引っ張られたおかげでどうにか顔面ダイブは免れた。もつれたまま勢いよく突いた膝と、反射で突っ張った手。じん、と響いた熱が私をじわじわと現実へと引き戻していく。
「……った……」
痛い、というよりもただ熱い。大丈夫か? と遊真くんがしゃがみこんで私を覗き込むけれど、肩で息をしている私は頷くのがやっとだ。
ちらりと後ろを見ても、男たちが追ってきている様子はなかった。遊真くんも平然としているし、無事に逃げられたのだろうか。そう思うと張り詰めていた緊張が解けてきて、手と膝の熱がじんじんと痛みに変わっていく。あげく、なりふり構わず全力疾走したからまだ息は整わない。それでもと私は気力を振り絞って遊真くんを伺う。
「遊真、くんは、ケガ、してない?」
「……うん」
はぁああ、と思いっきり息を吐きだした。まだ心臓はどくどく言ってるし、っていうか色々怖かったし、なんかもうわけもわからなかったしで、今更震えてきた。それでも。
「……何事も、なくて、よかった……」
一気に気が抜けて、そのまま地面にへたり込んでしまった。立ち上がる気力は湧かない。むしろ、もう一回道路に寝そべってしまいたい。
「……ちょっと、待ってね。も、動けない……」
「いいよ、動かないで」
片膝をついた遊真くんが遠慮なく身体を寄せてくる。急に近づいた距離にどぎまぎしていれば、遊真くんが促すままにあれよあれよと体勢を整えさせられて、ぐらりと浮遊感。あれ、またこれ、お姫様抱っこされてる。下ろしてと言う元気もなく呆然としていれば、捕まって、と私を伺う遊真くん。言われるがままに肩に掴まれば、遊真くんはすっくと立ちあがった。ほんと、力持ちだなぁ。
呆けている間に、遊真くんはすたすたと歩きだした。時間も時間だし、住宅街の中を歩く人はいない。だから私たちは、誰ともすれ違うことのないまま住宅街を突き進んでいく。そうすれば見えてきたのは小さな公園だ。遊真くん、と声をかければ意図を汲んでくれたのか、私を抱えたまま遊真くんは公園へ入っていく。そうしてすぐ脇にあったベンチにゆったりと下ろされる頃には、私もさすがに呼吸が整ってきた。
「……ごめんね、重かったでしょ」
「平気だって」
遊真くんは平然とした顔のままだ。重かったとかの不満を一言も漏らさず、さらには座る様子も見せないまま私の目の前に立っている。あれだけ走って逃げてきて、さらにはここまで私を抱えて歩いてきたというのに疲れた様子一つ見せない。どんだけ鍛えたらそうなるんだろう。すごいな、とぼんやり眺めていると、湊川さんは、と声が落ちる。
「最初、おれのことを逃がそうとしてただろ」
「え? う、うん」
「なんで?」
――また、この瞳だ。真っ直ぐで、どこか冷たい、背筋が冷えるような眼差し。
「……あいつらは私の方に絡んでた、わけだし」
「男三人に捕まったら何されるかもわからないのに?」
真っ直ぐに私を見据える目が、少し怖い。確かに遊真くんの言うとおり、仮にあの時遊真くんをうまく逃がせたとして、その後自分がどうなっていたかなんて想像に難くない。考えただけでぞっと身震いしてしまうけど、間違っていたとは思えないから、私も恐る恐る遊真くんを見つめ返す。
「……優先すべきは、遊真くんでしょ」
「なんで」
「私は一応年上なわけだし、高校入学を控えてる遊真くんに何かあったら困る」
私の返答を聞いて、遊真くんの眉間に深い皺が刻まれる。不機嫌だと言わんばかりの表情で睨まれて気後れするけど、こちらも引くわけにいかない。
私はまだ学生だし完全な大人ではないけれど、それでも中学生の遊真くんを守らなければいけない立場だろう。それは、夜歩きを許している身としても。こうなることは予想できたはずだし、それでも遊真くんの夜歩きを許して付き合っていたのだから、いざという時は私がしっかりしなければ。
そうしばらく見つめ合っていたら――ふと、遊真くんの眼差しが緩む。
「……そんな必要ないのに」
小さく呟いた遊真くんは、ふぅとため息をつくと視線を落とした。釣られて私も肩の力を抜くと、遊真くんは何とはなく私の隣へと腰を下ろす。
「おれは確かに半人前だけど、あの場で湊川さんに守られないといけないほど子供でもないよ」
「……う、ん」
「湊川さんが思ってるよりケンカにも慣れてるし、あの程度の奴らに負けない」
たぶん、遊真くんのそれは強がりでもなんでもない事実なんだろう。瞬間的に目を瞑ってしまったから見てはいないけど、私の手を掴んでいた男を一撃でのしたのは事実のはず。人を殴る音ってあんな音なんだ、と思い出すだけで少し怖くなるけれど、慣れているという遊真くんはだから平然と私の前に立っていたんだろう。あの程度、と言える遊真くんは確かに、私なんかよりよほど喧嘩ができる人のようだ。
それじゃあ私は遊真くんが喧嘩するのを眺めていればよかったのか、と考えれば当然答えはノーだ。
「遊真くん、目立つでしょ。もし特定されて高校とかに通報されたら、入学取り消しされるかもしれない。高校に通えなくなっちゃうよ」
「別に困らないだろ」
「こ、困るでしょ?」
「全然」
けろりとしている遊真くんに理解が追いつかない。いや、せっかく高校受験に受かって春から高校生だっていうのに、入学取り消しなんて辛くない? っていうか、ここで一年浪人とかしちゃったら後々が困るでしょう。それに家の人だってなんていうか。
――と、私が何を言うよりも早く遊真くんは口を開く。
「自分のことは自分でどうにかするよ。湊川さんも自分のことを考えなよ」
あぁ、遊真くんはそうやって自己完結してしまうのか。
自分を自分で守ることは確かに大切なことだし、必要なことだろう。というより、それが自立の一歩だと思う。誰かに甘えることなく、自分自身でどうにかすること。だから遊真くんは、遊真くんのことより私自身のことを心配して、そのために行動しろと言っているんだろう。
でも、今回絡まれた一因である私が、遊真くんより自分のことばかり考えるのは自立と言えるんだろうか。
「……私はね、こうなるかもしれないって知ってたハズなんだよ。それでも私は遊真くんと一緒に夜の散歩に行くって決めたんだから、どういう結果になっても自己責任だよ」
今となって考えれば、遊真くん一人だったらどうにかなったのかもしれない。むしろ絡まれることだってなかったかも。私を理由に絡まれたんだから、遊真くんが巻き込まれる筋合いはないじゃないか。そう巻き込んだ身としては、遊真くんを庇おうとするのは当然じゃないか。――なんて、何を言っても後付けだけど。あの時はただ、私がしっかりしなきゃって、怖くてそれしか考えられなかったから。
「だから……反省する。ちょっと油断してたというか、まさかそんなこと起きないだろうって甘えてた部分もあったし」
「……そうか」
「今日はありがとね。遊真くんのおかげで一緒に逃げられたよ」
正直に言えば本当に助かった。予想外に遊真くんが喧嘩慣れしていたらしいお陰で、お互いに大きな被害もなく済んだのだから。
とは言えこうなってしまっては、これまで通りというわけにもいかないかな、やっぱり。遊真くんが、自分のことをどうにかできると言うからには、勉強会をして帰るだけならいいかもだけど。夜出歩く時に私がいたら、今回のように遊真くんの足手まといになってしまう可能性があるわけで。
「……でも……心配だけど、夜の散歩には私が付き合わない方がいいかもね」
そう自分の中で結論を出しつつあった頃。遊真くんはまるで、そんな私の思考を遮るようになぁ、と声をあげる。
「いいよ、別に。夜の散歩に付き合ってくれって言ったのはおれなんだし、おれが責任とる」
これまでだったら、そうは言っても相手は年下なんだしと頷けなかっただろう。けど、実際問題こうして守られて……ある意味で責任を取らせてしまった今となっては、遊真くんの言葉には説得力がある。実際にそうできてしまうとわかっているから。とはいえ甘えてしまうわけにもいかないとなれば、うまい返事ができなくて唸るばかり。
「さすがにねぇ……年下に責任を負わせるのも、なんというか」
「ふむ。じゃあ年齢差があっても対等になれればいいんだな」
遊真くんの出した結論に、どうやって? と疑問。年齢差があっても、対等になれる関係ってなんだろう。なんてぼんやりと考えながらも遊真くんの答えを待てば――紅い瞳が、瞬く。
「湊川さん。おれと付き合ってよ」
――そう、遊真くんは言い放ったのだ。