「ちょ、遊真、ちょっと待って、落ち着いて」
「違うのか」
「違わないけど、違わないからダメなんでしょ!」
無理矢理は当然ダメなこと。それは法律とか関係なく人付き合いの基本だろう。相手の意思を尊重し、自分の意思も同じように尊重してもらう。そうお互いに思い遣ることで人間関係を構築していくのだから。
「ほんと、お願いだから待って……」
どうしたらいいんだろう。段々わけがわからなくなってきた。結局私たちの関係って何がダメなの、何が悪いの。そして遊真はどうしてこんな思い切ったことしようとしたの。もう何もかもがぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのかわからない。
「桐香が言ったんだぞ。ウソつきは泥棒のはじまりだって」
遊真は、私の懇願も虚しく話を続けるつもりらしい。もう頭がこんがらがっていて遊真が何を言いたいのかもわからない。そう呆然と見上げていれば、遊真はやはり表情一つ変えないままポツリと呟くのだ。
「なんで『おれが二十歳になるまでキスしちゃいけない』ルールにしたんだ?」
「……え?」
「そんなウソでおれを納得させて、別れたかったからか?」
これまで、遊真は怒っているんだと思っていた。いや、少なからず怒っている部分もあると思う。けれどなんだか、いつもより弱気な声色に感じるのは気のせいだろうか。
話している内容もなんだかよくわからない。二十歳になるまでキスしちゃいけないルールと、ウソつきは泥棒の始まりと言ったことがどう繋がるんだろう。だって嘘つきは泥棒の始まりっていうのは――悪意なく嘘をつくから、で。
「……遊真は、私が遊真と別れるために、嘘のルールを教えたって思ってるの?」
「だってそれ、ウソだろ」
「え? う、嘘じゃ……」
……ない、と言い切れるのか。だって、少なくとも私が知っているのは成人と未成年との“性行為”は犯罪になり得るということだけ。キスに関してのみなら、そこまで強く言い切った話は見当たらなかった。
そもそも成人と未成年であっても恋愛してはいけないというわけじゃない。恋愛を制限するなんて現実的に難しいということもあるのかもしれないし、人権だとか自由だとかそういうものに反するからなのかもしれない。どちらにせよ相手が未成年であっても、真剣なお付き合いなら問題ないというのが基本だ。ただ、どんなに純愛でお互いの合意があっても“性行為”は罰せられるというか、咎められるという話で。
「黙るってことは、心当たりがあるってことじゃん」
沈黙は肯定。そうわかっていても、遊真に言い返せることなんてなかった。それを見透かしているように遊真は言葉を続ける。
「――別れたいならそう言えばいいだろ」
すぅと全身が冷え切って、まるで凍り付いてしまったかのようだ。同時に混乱していた頭が一気に冷えて、私は少しずつ思考を取り戻していく。
きっと私が今『別れたい』と言えば本当におしまいになるんだろう。そもそも私はそのために遊真を自宅に招いた。だって『五年は待てない』と遊真が言ったのだ。だから別れて、改めて対等な――友達だとかそういう――関係になれば、丸く収まるんだと期待して。
それなのに、私はその通りの返事ができないまま。口はおろか手も、足も、何もかもが動かせない。まるで石になってしまったかのように身体中が固まって、最後のその一線が踏み越えられない。
「桐香」
遊真の真っ直ぐな瞳は私の答えを待っている。だから、覚悟を決めなきゃいけない。
「……別れたいわけじゃ、ないよ」
けれど私が出せた答えは、ただ正直な気持ちを吐露しただけだった。嘘でも別れたいと言えば終わっていたのに。けれど、そうしたら絶対に後悔するって思った。無理矢理自分の気持ちを押し込めて別れたって、後でどうにもならなくなるなんて目に見えてる。
けれど今のまま付き合っていたって、問題が解決するわけでもなくなるわけでもない。私は慌てて、でも、と付け足す。
「キスは、したくない」
――だって。
「…………だから、なんでそんなウソつくんだ」
遊真はあっさりウソだと言ってのける。告白された時と同じ、追い詰められたような感覚に背筋が冷えて。けれどあの時と違うのは、遊真はなんでそんなウソつくかわからない、とでも言いたげに呆れた顔をしているってこと。
「嫌ならいいし、だから待てって言うなら待つけど。したいのに、したくないってウソついて待たされるのは……仕方ないが、少し困る」
嫌じゃない、のか。むしろ私――キスしたいのか。改めて遊真にそう気づかされると同時に、目を逸らしたかった自分の本音がちらついてしまう。ダメだ、ダメ。そんなこと言えない。知られたくない。けれど遊真は私から視線を逸らさない。ともすれば悲しそうにすら見えてしまいそうになるのは、私がそうであってほしいと期待してるから見えてる幻覚だ。そう言い聞かせて踏みとどまりたい一方で、私は何かに背中を押されるように息を吐く。
「……だって、私は“大人”だから。ダメなことはダメってちゃんと言えないと、ダメなの」
言い終えて、結局私は『キスが嫌だ』とは言えないんだな、なんてぼんやりと考える。たぶん自分でも、嘘だってわかってるからだろう。わかっていて遊真に嘘じゃないと強がり続けるなんてできなかった。
そうして自分の中の本当と嘘が見えてきた私は、自分が拘っていたことが何なのかもわかってきた。成人と未成年の恋愛っていうのはあまりいい顔をされない。二人が弁えた関係なんだと思ってもらえるかはわからない。そういう罪悪感はもちろんあって、けれどその奥にはもっと自分勝手な気持ちがある。
私と遊真の関係ではきっと、私の方が悪く見られるだろう。成人している私が、未成年である遊真を誑かしたとかなんとか。そうだと――遊真に、思われてしまうのが。そう分別がない大人なんだと、いつか、思われてしまう日がくるのかもしれない。それが嫌だった。怖かった。だって、私は。
「……遊真が……」
寸でのところで踏みとどまって、息を吐いて言葉を散らす。
遊真が好き。好きだから、一緒にいたい。デートは楽しいし、一緒にいられるなら勉強会だっていい。話していたい。会えない間は寂しいし、だから会える時間があると嬉しい。手を繋いだり恋人らしいことは少し恥ずかしいけど、好きだから、やっぱり嬉しくて。だから――キスだってしたい。してほしい。
でもそんなことを遊真に思ってしまう私はダメな大人なんだと思う。だって成人男性が未成年の女の子にそういう期待をしているのって、傍からみたらどうなのかってニュースで散々見てきた。――気持ち悪い、んでしょ。じゃあ私だって気持ち悪いんだ。真剣交際ならいいとかいうけど、人の気持ちなんて誰にもわからない。私が真剣かどうかなんてわからなくて、だからいつかきっと、遊真にだって――。
「……大人だからって、我慢するのも大変なんだな」
呟いて、遊真はようやく身体を起こした。視界が開けると同時に部屋の明かりを直視してしまって、あまりの眩しさに目を細める。けれど遊真が緩く手を引いてくれるので、促されるまま身体を起こして一息。思いつめていた気持ちが少しだけ穏やかになって、ベッドの上で互いに座り込んだまま遊真がまた口を開く。
「なんでそんなに我慢するんだ? 別に、キスはダメじゃないって聞いたぞ」
「……聞いたって、誰に?」
「迅さんに」
……なんかもう、迅さんには全部筒抜けなんじゃないかな、って気がしないでもない。それはそれとして。
「……わざわざ聞いたの?」
「日本の法律はよくわからんからな」
忘れていた。そういえば、遊真はなんだかんだ勉強家な一面があったんだった。まさか、私が成人と未成年――つまるところ私と遊真――のお付き合いに法律を持ち出したせいで、遊真なりにも考えていたなんて、思いもしなかった。――だって?
「ホゴシャが何も言わなきゃいいんだろ? 少なくとも、迅さんもボスもおれのことに口出しするつもりはないって言ってたぞ」
「そ、それはそれで大丈夫なの……?」
「そりゃ、夜中におれを連れ回したからってホゴシャに連絡させたり、自分のバイトの後におれの勉強にまで付き合うようなお人好しが、悪いことするなんて思わないだろ」
あっさりとそう言ってのける遊真にじん、と目の奥が熱くなって、慌てて奥歯を食いしばる。なんで泣きそうになってるんだ私。けれど素直に、そうと思ってもらえているのならよかったとも思う。遊真に散々とお人好しだと言われてきたけれど、その結果が遊真のお世話になっている人たちの信頼ならいいものじゃないか。
とは、いえ。
「……で、でもさ」
本当に好きなら、という言葉がまた脳裏に過ぎる。待つべき、なんじゃないだろうか。むしろ、遊真は待とうと思わないのだろうか。
けれど本当に私のことを好きか、なんていうのを聞くのってどうなんだろう。面倒くさい女って思われないかな。でなくても一応年上なのに、そんなことを求めてしまうのもどうなんだろう。だからと私は胸の内でひっそりと質問を変える。
「遊真は不安にならないの?」
「おれが? なんで?」
「本当に自分のことが好きなら、ルールを守るために待てるんじゃないか、っていうか」
「……ふむ? 好きと待つことがどう繋がるんだ?」
私たちの場合だと待てないと言ったのは遊真だから、少しだけちぐはぐな質問だ。それでも真剣に考えてくれている遊真に私は答えを求めて言葉を続ける。
「……好きだから、相手を大切にしたいんじゃない?」
言い切って、恐る恐る遊真の表情を伺う。紅い瞳がきょとんと丸まって――それから、ゆるりと細まった。
「だから、待てないって言ったんだぞ?」
今度は私が目を丸くする番だった。だから、という接続詞はこの場合適切なのだろうか。好きだから、待てないのか。相手を大切にしたいから、待てないのか。正直、何が“だから”なのかがわからない。
そう私が疑問に感じていることもお見通しなのだろうか。遊真は殊更に目を細め、まるで見惚れるかのように私を見つめて呟く。
「そこまで待たせてたら、待ってくれるくらいおれのことが好きなんだったら、たぶん、後悔させるからな」
目の前の遊真に見惚れて、二の句が継げなくなった。だって、こんな遊真は初めて見るのだ。告白の時だって、デートの時だってどこか平然としていた遊真。楽しそうに笑ってばかりで、勉強会の時はたまに拗ねたりして、そんな遊真が――こんな、甘く優しい顔を見せるなんて。
遊真の紅い瞳がちかちかと煌めいているのはどうしてだろう。目尻を下げて私を見つめるのは、その口角がゆるりと上がっているのはどうしてだろう。未だ耳に残る残響は柔らかく私の鼓膜を揺らし続けていて、穏やかに微笑む遊真。私、なんて馬鹿なんだろう。なんで私はこんな遊真に……一瞬でも、私のことそこまで好きじゃないんだろう、なんて疑ってしまったんだろう。
「だから、どうする?」
遊真はそう言って身体を寄せる。同時についた手でぎしりとベッドが鳴って、伝わってきた振動に心臓が跳ねた。わずかに細められた紅い瞳に色気を湛えた遊真は、確信を持った笑顔を浮かべている。
心の中の天秤は、呆気なくぐらりと傾くどころか、勢いのまま外れてしまったようで。
「……さ、最後の心の準備で十秒待って」
「十秒な」
私は恐々と目を瞑る。私、遊真とキスしちゃうの。本当にいいの、と不安が脳裏を過ぎったのは一瞬だけで、ひたりと頬を包まれる感触に頭が真っ白になる。遊真の温かい手。さらに身体を寄せているのか、ぎぎ、と緩く鳴ったベッドの音。ばくばくと脈打つ鼓動が時間間隔を狂わせていく。
十秒まで、あと――。