土曜日の夜、一人の家。ゆったりお風呂に入ったあとの寝間着姿で、しゅんしゅんと湯気が湧きでているやかんを火から下ろす。これでお茶の準備もすぐできるからと、私はいよいよ冷蔵庫からケーキを取り出した。
なんだか忙しくてそれどころじゃなかったけど、一応、私は無事に転職成功して幸先のいい再スタートを切ったわけだ。だから転職祝ということで、自分にご褒美をあげてもいいんじゃないかな、と。
買ってきたケーキは三つ。一つは自分の、一つは帰ってくるかわからないけどユーマの、そして、もう一つは――。
「一応、ね。ちょっとはお詫びも兼ねてるから」
仏壇に向かってそう零しても、遺影の表情は変わらぬままだ。穏やかな笑顔。釣られて笑みながらも、私はいつものように線香を立て、りんを鳴らして手を合わせる。
我が家に住む近界民を、家族はどう思うのだろうか。正直、自分でも予想だにしていなかった出来事なのだ。想像しようと思っても難しくてまったく考えつかない。怒るか、呆れるか、それとも……仕方ないと笑うのか。
だって、私一人にこの家は、あまりに広すぎて持て余すじゃないか。
「――ただいま」
玄関から、ユーマの帰宅を告げる声が聞こえてきた。よかった、買ったケーキを余らせずに済みそう。
私は「おかえり」と声をかけながら玄関を覗く。「おう」と笑ったユーマの手には――どうやらまた、残り物を頂いてきたようだ。
「今日はごちそうだって言って、作りすぎたってさ」
「ご馳走? なにかあったの?」
「無事に勝ったっていう、おいわいだ」
あぁそうか、今日は土曜日でランク戦の日だった。そういうことならと「おめでとう」と言えば、ユーマは「どうも」と得意げに笑う。
「じゃあ、ちょうど良かった。ケーキあるよ、今食べる?」
「ほう? じゃあ食べる」
ユーマは持っていた残り物を私に渡す。それから肩にかけていたカバンを下ろしつつ、「荷物をかたづけてくる」と。
私はとりあえず残り物を冷蔵庫にしまった。それからユーマが下りてくるまでに準備をと、マグカップとお皿を追加で用意。ケーキを乗せてフォークを取りだして、マグカップにそれぞれお茶を淹れて並べれば準備は万端だ。
たんたんたん、と階段を下りる音を響かせて、ユーマはすぐに戻ってきた。二人で食卓を囲みつつ、目の前のケーキに手を合わせて「いただきます」の挨拶。フォークを手に、さっそくケーキを小さく切って一口頬張る。
「ん〜、夜にケーキなんてぜいたくだなぁ〜」
「うむ、うまい」
ユーマには多分、私の意図なんて通じていないんだろう。それはそれとして、美味しそうにケーキを食べるユーマの顔に笑ってしまう。
――こんな顔を見たら、ユーマが近界民なんて思わないだろうな、みんな。
「……あ」
「ん?」
思わず声が漏れて、ユーマは不思議そうに私を伺う。もぐもぐ、ごっくん。そうしてきょとりと私を見上げる顔は本当に平和なものだ。
さておき、私は大切なことを思い出した。ユーマは宣言していたとおり、水曜日から今日まで玉狛に詰めていた。当然会うことも話すこともなかったわけで、つまり私には報告することがあるのだ。
「このまえ、保護者面談行ってきたよ」
「おぉ、ありがとう。どうだったんだ?」
「普通の面談だった。一応担任の先生には、ボーダーと同じで私がユーマの父親と遠い親戚だって言っておいたよ」
「そうか」
ユーマはそれほど面談の内容に興味があるわけではないようだ。けれど一応は、ユーマの進退に関わる話くらいまでは確認しておきたくて、続けて訊ねる。
「ねぇ、論功行賞ってなに?」
「うん? この前の大規模侵攻でがんばったヤツがもらえる、って聞いたけど」
「……つまり、それくらいに活躍したって話だね?」
「うん」
「へぇ……まぁそれもあって、推薦も大丈夫そうだって」
ユーマは「そうか」と相槌を打ちつつ、もう一口ケーキを頬張る。そんな姿からは想像できないが、やはり論功行賞とはボーダー推薦に影響し、さらにはあの水沼先生に安心だと言わしめるほどの成果ではあるようだ。
とりあえず、報告すべきはそれくらいだ。あとはおそらく、報告が必要なものではないだろう。水沼先生が今の私の上司の娘さんだったとか。あとは同級生でボーダー隊員の三雲くんの話だとか、それとか……。
「ん? なんかあるのか?」
気づけばユーマの前にあるケーキは残り二口程度だ。まぁ、今日までずっと玉狛に詰めていたのだし、ランク戦まであって帰ってきたとなっては疲れているだろう。「ううん、大丈夫」と答えて、私はさっきから手付かずだったケーキにフォークを差し入れる。
「……なんかあったのか」
続けて響いた、ユーマの少し低い声。それはさっきの尋ねるようなものではなく、確信を持った響きだった。
「え、な、なに?」
「なんか変なこと言われたか? それか、なんかバレたとか」
どうやらユーマの中では『何かあった』ことが前提条件になってしまっているようだ。とはいえ、そんな深刻そうな反応をされるようなことはない。私はあたふたと首を横に振る。
「いやいや、全然そういうのじゃないって。大丈夫だよ」
「……だったら別にいいだろ。他になんか話したのか」
ふっと緊張を緩めたユーマは、最後のケーキを頬張った。……や否や、今度は私に「もってきた残り物は?」と尋ねる。「まだ食べるの」と驚いてしまうけど、「うん」と肯定されたので、私は渋々と席を立って冷蔵庫へと向かう。
タッパーを取り出して、少しだけ崩れた中身を整えつつお皿に出す。今日のはどれも温めた方が美味しそうなものだったので、ラップをかけてそのまま電子レンジの中へ。だいたい一分……いや、一分半くらいでいいかな。私はそのまま、あたためボタンを押す。
ぶぅんと響きはじめたモーター音。さて、こうなるとあとはユーマの質問に答えなければならないだろう。私はとりあえず、無難なところからおそるおそる話を続ける。
「……水沼先生さ、私の上司の娘さんなんだって」
「んん?」
「私が配属された人事部の部長、水沼部長って言ってね。水沼先生のお父さんなんだって」
「へぇ、そうだったのか」
案の定、ユーマはたいした反応を見せない。それ見たことか、大袈裟な話じゃなかったろうにと内心で思いつつ、レンジが温まるまであと一分くらい。
あたためが終わったらユーマはそのままここでご飯を食べるのだろう。私もまだケーキが残っているし、しばらくこの時間は続く。だからたぶん、このまま話も続けるしかないだろう。
「……クラスでの話も聞いたよ。先生、ユーマは人当たりが良くて、色んな人と話してるって」
「ふぅん?」
「特に、同じボーダー隊員の三雲くんと仲良いとも聞いたかな」
「オサムか。そうだな、同じチームだからな」
「三雲、オサムくん?」
「うん」
「同じチームって、じゃあオサムくんも玉狛にいるの?」
「そうだよ」
電子レンジはまだ動き続けている。時間も残り三十秒ほど。ちょっとした話に相槌を返される程度ではなかなか時間が進まないものだ。
「あとは、学校の成績が……問題あるとか」
「うむ、それは先輩たちにも言われる」
「勉強してるの?」
「まぁ、それなりに」
あとは……と、次の話題を探している内に、レンジがやかましく音を立てた。すぐに止め、さっさとレンジから出して、ラップは外してごみ箱へ。お箸も取り出してユーマに渡せば、ユーマはまた「いただきます」と言って残り物に箸を伸ばす。
「……あとはね……」
言いかけて、深呼吸。ユーマは聞きながらも一口、あたためたばかりのおかずをぱくりと頬張った。
家族に何か言いたいこと、聞きたいことがあった時はよくタイミングを伺ったものだ。今切り出してもいいだろうか。聞いても大丈夫なことだろうか。不安で少しだけ緊張して、居心地が悪くなってしまう感覚が懐かしい。
それでも勇気を振り絞るのはやっぱり、言いたいから、聞きたいからだった。それはたぶん、今も。
「……ユーマのお父さんが亡くなってる、とか」
ユーマが二口目を頬張ったのと、私の問いかけに驚いたように目を丸くしたのはほぼ同時だった。
間が悪い時に聞いてしまったな。そうばつの悪い気持ちになるが、ユーマはしばらくもぐもぐと口を動かして、ごくりと飲み込むまで平然としたままだった。あげく、そうして一息ついたユーマの答えは「うん」、と一言だけ。
「っていうかカエデ、知らなかったのか?」
「知らないよ……なんで知ってると思ったの」
「ボーダーに知ってるヤツが多いからかな。カエデも知ってるものだと思ってた」
どうやらそれはユーマにとって動揺するようなことではなかったらしい。ユーマが肯定したことで、色々納得できることも増える。
だってユーマが『普通の人間の子供』なのだとしたら。単身、別の世界に乗り込むだなんてことがあるんだろうか。何よりここは『父親の故郷』なのだ。一緒に来ない理由が……来られないからだとしたら、それ以上の理由はないだろう。
「なんだ、それを隠そうとしてたのか」
「いや、隠すっていうか……わざわざ聞いていいものかと思って」
「別にいいよ、隠される方が気になるだろ」
「まぁ、そうかもね」
ほう、と一息。緊張も解けて、聞きたいことも聞けて安心してしまった。
ユーマはまた順調に残り物を平らげていく。っていうかそれ、私もちょっと食べたいんだけど。「私もひとつ食べていい?」と聞けば「もちろん」というので、私はケーキを一度横にやり、箸を取ってきてユーマの前のお皿からおかずを摘まんでいく。
とりあえずは、目に付いたコロッケから。いやまぁ、夜だけど今日は特別だから。一口かじればカレー味。どうやらカレーコロッケだったらしい。
「ん、おいしい」
「こなみ先輩とレイジさんの合作だ」
「……なにそれ、どういう分担?」
「カレーがこなみ先輩。それをコロッケにしたのがレイジさん」
本当に、玉狛の先輩たちは料理上手が多いこと。おこぼれに預かってる身としてはありがたい限りだ。
「やっぱり玉狛に差し入れしたいなぁ。お菓子とかでいいかな?」
「いいんじゃないか?」
「いつだったら行ってもいい?」
「ん〜、皆いたりいなかったりだから、なんとも」
「じゃあユーマと、オサムくんがいる時にしてよ。ユーマの同級生会ってみたいし」
「ふぅん? それなら大体いつでもいるけど……まぁ、聞いとく」
トントン拍子に話は進み、とりあえずはユーマに交渉を任せることにする。ちゃんとお礼できるといいなと思いつつ、そのまま、ユーマと共に夜食を摘まんで過ごすのだった。