「さて、じゃあまずは……と、言いたいところだが……」
取引が成立するや否や、近界民は何やら考え込む様子を見せる。私としては、近界民が今後どうするつもりなのかわからない以上提案もなにもできないし、頭を抱える様を見守るばかり。
「……すまないが、やっぱり風呂借りていいか?」
「え?」
「さっきの川、あんまりキレイな水じゃないだろ。なんか変な匂いがする」
くんくんと自らの腕やら匂いを嗅いで、そんなことを言う近界民。住宅街を流れる小川が綺麗かどうかなんてたかが知れているし、近界民がそんな水に飛び込む羽目になったのは私が原因だ。断る理由もないし「構いませんよ」と了承する。
「勝手に使って大丈夫か?」
「……使えますか?」
「わからん」
「…………案内します」
さすがに自宅の物を壊されては敵わないので、先導して風呂場へと近界民を案内する。どうすればお湯が出て、水が出るのか。温度の調整の仕方。それから、どれが髪を洗うもので身体を洗うものはどれか、と順番に説明していく。近界民の入浴がどんなものかは知らないが、一回の説明で近界民は簡単に「わかった」と頷いたので、それほど苦労するものでもなかったらしい。
「他には何かありますか?」
「いや、風呂に関しては大丈夫だ」
「なら――」
「だが、一応言っておくな」
お風呂に関してでなければ何を、と呆けていると、近界民は少しだけ鋭い視線で私を射抜く。
「おまえには監視を付けるから、おれの隙を狙って変なことしようとするなよ」
淡々と、感情もなく告げる近界民の声はやはり怖い。私は少しだけ怯みながらも、どうにか頷いて了承の意を示す。すると近界民はまた雰囲気を緩め、「それじゃあお借りします」といって私を廊下へ追いやり、脱衣所の扉を閉めた。
監視、という言葉にじわじわと湧き上がる恐怖。とは言え、もう後の祭りだ。私は近界民と取引をしてしまったし、今更反故にするなんてリスクが高すぎる。今はただ、一般人を必要以上に巻き込むようなことはしないと言った近界民の言葉にすがるしかない。
私は現実逃避も兼ねて片付けを始めることにした。まずはウォーミングアップ。ずぶ濡れで帰ってきてそのまま家に上がったから、玄関から廊下、階段を通って自室まで、点々と汚い足跡がついてしまっている。私は台所から適当なぞうきんを見繕って、玄関から順番に足跡を拭きはじめる。
軽く拭き終えた後は再び玄関へと戻った。濡れた服は脱いでそのまま脱衣所に放置していたから、近界民が風呂に入っている間は片付けができない。なので、先に靴をどうにかしようと玄関に来たのだが――予想以上に汚れた靴にため息が出る。川底の泥をひっかぶってぐっしょりと濡れたそれは、果たして綺麗になるのだろうか。私のは諦めて捨ててしまってもいいけど、さすがに近界民の靴はそうもいかないだろうか。
「それ、洗うつもりか?」
「ひ、はい!?」
突然後ろから声がしたので、驚いて悲鳴を上げてしまった。いつの間に背後にいたのか。でなくても、自宅で誰かに声をかけられることが無いと言うのに。そう二重で驚くあまり動揺してしまったが、近界民は騒ぐなだとか怒ることもなく淡々と話す。
「別に、無理しなくていいぞ。一応替えはあるし」
「……そう、なんですか?」
近界民が持っていたリュックサックはそれほど大きなものではなかったと思うが、そこまで備えてあるのか。疑問はあったが、近界民は「うん」と頷くだけ。そうだった、詮索してはいけないのだと訊ねようとした言葉を飲み込んで、悩みながらも私は結局靴を手に取る。
「一応洗うだけ洗ってみます。ダメだったらすみません」
「うん。じゃあ任せた」
近界民は興味を失ったのか、さてと言って踝を返す。
「荷物を整理したいんだ。悪いが、部屋を一つ借りられないか?」
「……二階の、私の部屋以外ならどれでも構いませんよ」
「そうか。じゃあちょっと見てくる」
頷けば、近界民はたんたんと二階へと登っていった。背中を見送った後、私は汚れた靴を持って脱衣所兼洗面所へ。近界民もいないことだし服も洗わなければと、私は腕まくりをして気合を入れる。
それからどれくらい経っただろうか。まずは、服を泥が出なくなるまで何度もすすぎ、汚れた服だけ先行して短縮モードで洗濯機を回す。回している間に今度は汚れた靴。これも同様にとりあえずは濯ぎ、黙々と汚れをブラシで擦って落としていく。回し終えた洗濯機がアラームを鳴らす頃には二足ともだいぶ綺麗になっていたので、洗った服を取り出した洗濯機に今度は靴を入れて、脱水だけ。洗濯した服は二階のベランダへと干しに行き、脱水の終えた靴は玄関ポーチの隅に干す。片付け終えた時には、時刻はそろそろ昼前を示していた。
「……お昼、どうするんだろう」
黙々と汚れ落としに集中した反動か、私は妙に落ち着きを取り戻していた。少なくとも、近界民の昼食を心配するくらいには。衣食住の確保を手伝う約束だし、私自身もお腹が空いている。とは言え連日仕事の疲れでほとんど自炊なんてしておらず、つまり、今現在冷蔵庫の中には碌なものが入っていない。
片付けが一段落した私は近界民を探しに二階へと上がった。部屋数はそんなに多くないし、微かな物音や気配がするのは一部屋だけ。私はその部屋の前に立ち、数度ノックをして在室を確かめてみる。少しの間の後、躊躇いもなく部屋の扉が開け放たれた。
「どうした?」
「そろそろお昼ですけど、どうしますか?」
「あぁ、うん。何か食いたいが……」
「ちょっと今、冷蔵庫にほとんど物がなくて……買い物に行きたいんですけど」
私の外出したいという申し出に、どんな返答が来るだろう。身構えていると、ふむ、と少しだけ考える仕草を見せてすぐ「おれも行く」とのたまった。
「え、だ、大丈夫なんですか?」
「なんだ、そんなに怪しく見えるか?」
「……そういうわけでは、ないですけど……」
私は、ゲートの向こうから現れる姿を見ているばかりに近界民だと知ってしまっているが、普通に通り過ぎるくらいなら人間と変わらない……だろうか。あまり自信はなくて言葉を濁してしまうが、「まぁ大丈夫だろ」と近界民の中で自己完結してしまったらしい。続けて「ちょっと待っててくれ」と言って一度扉が閉められる。
次に扉が開かれた時、近界民の手には我が家のものではない、おそらく近界民の持ち物であろう靴が現れていた。
「じゃあ、行くか」
「は、はい」
本当に替えの靴を持ってたんだ。なんて思ったものの、聞いてはいけないと心を強く持って疑問の声を飲み込む。たんたんと共に階段を下り、私も私で下駄箱から別の靴を取り出して、近界民と揃って外へと繰り出すことに。
そのまま門戸をくぐろうと思ったのだけど、背後で小さな声をあげて近界民が立ち止まった。何かあっただろうか。私も足を止めて振り返れば、近界民の視線は玄関ポーチに干されていた靴へと向けられている。
「靴、ほんとに洗ってくれたのか」
「一応……あとはきちんと乾いてくれれば、大丈夫だと思うんですけど」
「そうか、ありがとうな」
――間。咄嗟にどういたしまして、なんて言葉は出てこなくて、ただ「は、はい」とどもりながらも頷くだけで精一杯だった。
さっきの、軍人としてのマナーを説き私に頭を下げた時も驚いたけど、まさかお礼まで言われてしまうとは。近界民とは思ったより礼儀正しいのだろうか。いや、私の知る近界民というのはとてつもない巨体で家屋を無差別に破壊したり、人間を殺したり攫ったりする存在だ。だから逃げようと思ったのに……中にはこうして話が通じる近界民もいるということだろうか。
これ以上考えても混乱するだけなので、諸々はさておき私は近界民を連れて近所のスーパーへと足を運んだ。手料理に自信があるわけではないが、レトルトばかりというのもまずいだろうか。悩みつつ、何かを企んでいると思われても困るので、私は素直に近界民に訊ねることにする。
「あの、ご飯、作った方がいいですか?」
「ん? いや、その辺は任せるが……そうだな」
近界民も近界民で、私の質問に都度考える様子を見せるあたりは日本での生活も手探りなのだろう。そして近界民は私と交渉してくれるつもりはあるようで、近界民からも確認するように訊ねられる。
「おれの生活に合わせてもらうわけにもいかないから、一緒に食べられる時はまぁ任せるが、いつでも食べられるような食糧を用意してもらいたいな」
「いつでも食べられるような……ですか」
「なんでもいいぞ。腹が膨れればそれでいい」
ご馳走を用意しろだとか、そういった無理難題ではなくてほっとした。しかし、いつでも食べられる食品となると多少は選択肢も狭まるので、私は生鮮食品のコーナーを素通りして該当しそうなものをいくつか見繕う。お菓子、レトルト食品、カップ麺、日持ちしそうな加工食品をいくつかと、パンの類。
「とりあえず、色々買ってみますね。今日のお昼と夜で食べ方だけお教えします」
「うん、頼む」
近界民から快く了承も得たので、私はかごいっぱいに食料を詰めてレジへと並んだ。いつもならもうちょっと遠慮して買うのだけど、近界民から匿う費用をいただいてしまっている以上お金を出し渋る必要もないだろう。会計を済ませて袋に詰めて、さて帰ろうとすれば大袋がひょいと視界から消える。
「これで買い物は終わりか?」
「え? は、はい」
「じゃあ帰ろう。早く食べてみたい」
近界民はまるで当然の如く荷物を半分以上も持ってくれた。いいのだろうか。とは言えここで近界民の温情を拒否するのは、今後良好な関係を築く上でいかがなものか。
迷っている私の心情なんて露知らず、「行くぞ」と言った近界民はスタスタと歩きだしてしまう。
「道、もう覚えたんですか」
「方向はなんとなく。わかりやすい目印もあるしな」
そういう近界民の視線の先はボーダー本部だ。確かに、あれを目印にすれば少なくとも方角に関して間違えることはないだろう。実際に近界民は特別道に迷うこともなく、先導されたまま自宅へと戻れてしまったから驚きだ。
帰ってきた、と少し安心しかけた矢先のこと。玄関の扉を開けた近界民は唐突に立ち止まり、なにやら悩まし気な表情を浮かべて考え込む。
「……おじゃまします、は変か。いや、でもこの場合はなんて言うのが正解だ……?」
まさか、帰宅の挨拶に悩んでいるらしい。近界民としては他人の家だからお邪魔しますはある種正しいと思うが、そもそもが私と半ば強制的に取引をして間借りした以上、何となく違和感を覚える気持ちもわかる。けど、それほど悩むこともでないだろうに。
「……普通に、“ただいま”でいいんじゃないですか」
見かねて声をかければ、きょとりと目を丸くした近界民。何か変なことを言っただろうか。しかし近界民はスッキリしたように笑うと口を開く。
「うむ、ただいま」
近界民は満足したようで、「さて、」なんて呟きながらも靴を脱いで上がる。私も近界民に試食をしてもらうべく、近界民の後を追って台所へと向かうのだった。