日曜日の朝、寝ぼけ眼を擦りながらも階下におりる。さて、今日もユーマは既にボーダーに行っただろうか。
しかし洗面所に近づくにつれ不思議な匂いがしてきた。これは……お風呂の匂いだ。お湯を使ったあとの湿気が籠ったような、それでいて流した洗剤の残り香がまざったもの。
私、昨日お湯抜き忘れたんだっけ? どうしたんだか思い出せなくて、私はそのまま脱衣所の扉に手をかける。開けば、そこにはユーマが裸で――
「お?」
「――ひゃぁ!?!?」
悲鳴と、同時にバタンと脱衣所の扉を勢いよく閉めた音。それから、思わず後ずさってしまって廊下の壁に思いっきり頭と背中を打ち付けた音が廊下に響いた。私は混乱したまま、その場にうずくまる。
「カエデ、大丈夫か?」
「……だ、大丈夫……」
脱衣所の扉越しにユーマの困惑した声が聞こえる。とりあえず返事はするものの、衝撃につぐ衝撃でいまだ立ち上がる気力は湧かない。
ぼんやりと、迅さんに「ラブコメみたいだ」なんて言われたことを思い出した。まさか、自分がそんな体験するだなんて。いやでも立場が逆じゃない、こういうの。本来ならヒロインの風呂上りに男の子が遭遇しちゃうってもんでしょ。いやまぁ、私がヒロインというにはおこがましいかもしれないけれど。
とうとうと現実逃避している間にユーマは着替え終わったらしい。扉を開けて目の前に現れたユーマは、もうすっかり服を着ていつもの姿だ。違う事と言えば、少しだけほこほこと湯気が立っているくらい。
「すまん。昨日風呂に入る前にカエデが寝たから、朝に入ろうと思って」
「いや、うん、それは全然いいんだけど、えっと……」
頭がぐるぐると回るばかりで言葉が出てこない。そう混乱したままの私に、ユーマはこてりと首を傾げる。
「……そんなにおどろくことか」
「え、え?」
「いや、一緒に住んでて今さらだな、って思ったんだが」
「…………逆にユーマは恥ずかしくないわけ……?」
想像以上にユーマが平然としているから、いっそ動揺しているのが馬鹿らしくなってきた。本人がそこまで気にしていないのなら私も、と深呼吸。ちょっとだけ冷静さを取り戻してため息をつきつつ。
「ごめん。てっきりユーマはもう出かけたと思ってたから、なにも考えず開けちゃった」
「別にいいよ」
あっさりと許されたと思えば、ユーマは「さて」と言って立ちあがる。
「おれ、そろそろ行くけど」
「う、うん」
「早めに帰ってくるから、そうしたら夕飯の買い出しでいいか?」
「いいよ。玉狛出る前に連絡いれてくれると助かる」
「了解」
今日の予定を確認し合って、ユーマは一旦二階へと上がっていく。そうして荷物を持って下りてきて「行ってきます」と一言。玉狛に向かう背中を見送れば、もう一度ため息が漏れる。
「……ほんと、びっくりした」
別に、そこまで男の子の裸に耐性がないわけではない、と思いたい。体育でプールの授業はあったし、体育祭で賑やかな男子が暑さのあまり体操着を脱ぎ捨てたとかもあったし。
けれどさすがに男の子の全裸なんて普通は見ないよなぁ、って。びっくりしすぎてあんまり覚えてないけど、夢に見そうだとちょっと思った。いや、こんな恥ずかしいの夢であっても勘弁してほしい。
*
夕方、というより既にもう夕飯時。その頃になってようやく「いまからかえる」とメッセージがきた。
私は買い物に出られるように支度だけして待つ。今からとなると、しばらくかかるだろうか。そう思っていたが意外と早く、玄関から「ただいま」の声が聞こえてきた。すぐ買い物に出かけるのだし、私は財布やらを持って足早に玄関へ向かう。
「ユーマ、早かったね」
「おう。チカも家に帰るついでに、レイジさんに車で送ってもらった」
「え? まだそこにいる?」
「いや? もうチカを送りに行ったぞ」
残念。レイジさんも確か、ご飯の美味しい人じゃないか。残り物の恩恵に預かっている身としてご挨拶くらいしたかった。そう零せばユーマは「じゃあ、次は待っててもらうよ」と言ってくれる。
では名残は惜しいが気持ちを切り替えて。
「じゃあ、買い物行きますか」
「おう」
ユーマと一緒に買い物に行くのは、ユーマを家に匿うことになったあの日以来だろうか。しかも、あの時はまだユーマが怖くて碌な会話をしていなかったと思う。
けれど今はすっかりただの同居人だ。私はユーマと近所のスーパーまでの夜道をのんびりと歩く。
「わるいな、遅くなった」
「いいよ。いろいろ忙しそうだしね」
「うむ。オサムが新しいことをひらめいてな。その調整に夢中になってたら、すっかり」
ユーマは申し訳なさそうにしながらも、どことなく嬉しそうな表情だ。詳しくはわからないけれど、夢中になるくらいだから楽しかったのだろう。それに昨日は負けたと言っていたから、次のランク戦に向けて活路が見いだせたのなら夢中になるのも当然だ。
「その感じだと、次は勝てそう?」
「おう。だから水曜日はケーキでもいいぞ」
「ふふ、じゃあ買っておいてあげるね」
勝利のご馳走は玉狛で振舞われるのだろうし、家でケーキまで強請られるとは強欲なものだ。まぁ、それくらい自信があるのなら頼もしい限りか。
あっという間にスーパーについて、カゴを乗せたカートを押しつつ買い物開始。さすがに日曜の夜となると閑散としていて、さらには生鮮食品売り場は品切れしているものもポツポツとある。
とはいえ、鍋に必要なものはやはり時期だからかそれなりに入荷されていたのだろう。白菜、ねぎは欠かせないとカゴに入れて、野菜売り場のすぐ傍に用意された季節商品の特設売り場へ。
「さて、何味にしようか」
「いろいろあるな。これはなんだ?」
「ちゃんこ鍋はまぁ、しょうゆと同じかな? 寄せ鍋とかとなにが違うか、あんまわかんないや」
「迅さんのとは違うの?」
「あれは出汁で煮たのをポン酢で食べるやつだね。こっちのは、味がついてるスープで煮て食べるやつ、って感じ」
ユーマに言われて迅さんの鍋を思い出すと、あれはいいお鍋だったなぁとしみじみしてしまう。鍋が得意料理と自称するだけあって、手間がかかっているおいしいお鍋だった。
まぁ、しかし自分がそうできるかというと話は別だ。正直もうだいぶお腹は空いてるし、早く帰ってご飯を食べて、明日に備えてしまいたい。だから私は悩んでから、棚に並んだスープの内いくつかを指さす。
「ちゃんこ、塩、トマト。どれか選んで」
「カエデが好きなやつ?」
「うん。ちなみにそれぞれ締めは、うどん、ラーメン、ご飯だから」
鍋つゆが決まれば、自然と締めも決まる。やっぱりそれぞれにあった締めがあるもので、冬の醍醐味とも言えよう。もちろん他の組み合わせでもいいのだけど、今日は敢えて王道で提案。
私の言葉に、ユーマはきらりと目を光らせた。そうしてすっと指さしたのは塩。
「ラーメンが食べたい」
「……昨日も食べたけどいいの?」
「昨日のはしょうゆだったぞ」
正直、昨日のラーメンが美味しそうだったので、塩つゆからの締めラーメンが採用されたのはちょっと嬉しい。私は決まり、と言って塩味の鍋つゆをカゴに入れる。
「よし、じゃあ残りの具材も買いますか」
そうしてユーマとスーパーを練り歩き、追加で具材を購入。ついでにと買い置き用の食料も買い足しつつレジに着く頃には、二人分だというのにカゴ一杯になってしまっていた。
淡々とレジを通してくれる店員さんを眺めつつお会計。そうして袋詰めを済ませれば、やはりユーマはひょいと軽々レジ袋を持ってくれる。
「大丈夫? 重くない?」
「平気だよ」
昔なら気兼ねしただろう心配の言葉も、今なら当たり前に言える。ユーマも当然のように受け取ってくれて、そのまま私たちは帰路につく。
ちょっと遅くなってしまったけど、無事に買い物も終えたらあとはご飯を作るだけだ。ユーマがレジ袋を台所に置き、手分けして中身の整頓。さて、といざ調理にとりかかろうとしたところで――思わずあ、と声がもれた。
「なんだ?」
「土鍋、おろしておくの忘れてた」
日中やろうと思ってたのに、すっかり忘れてしまったらしい。流しの上の戸棚にしまってあったハズで、下ろすのがちょっと面倒だからと後回しにしていたからだろう。
私は仕方なく椅子を持ってきて上に乗る。「大丈夫か」と私を見守るユーマに、「平気」と答えつつ戸棚に手を伸ばす。がぱりと開けば見覚えのある箱。何年ぶりだろう、と私はその箱に手をかけて引っ張りだす。
――と、思ったより土鍋って重かった。落としてしまう、と慌てて引き寄せると今度、重心がずれたらしい。ぐらりと身体が浮く感覚がして、椅子が傾いて――
「……、っと。あぶないな」
床に転げ落ちるかと思ったけれど、衝撃はまったくなかった。どうやら下にいたユーマが私を受け止めてくれていたようだ。肩を抱き、膝を持ち上げ、土鍋は無事に私のお腹の上。……つまり、これって……。
「…………びっくりした……」
「それはこっちのセリフだ」
「ごめんごめん、ユーマは大丈夫だった?」
「おれは平気だけど、カエデこそ大丈夫か?」
ユーマに下ろされて、土鍋を抱え直して改めて立つ。足をくじいたとか、そういうこともなさそう。ちょっとぶつけたっぽくて痛みはあるけど、これくらいなら平気だろう。
「うん、大丈夫そう。ってことで、改めて作ろうか」
「おう」
気を取り直して、さっそく夕飯の支度だ。ユーマの返事もいつも通り。
――本日二度目のラブコメ要素は、なんかもう、今日は厄日なのかと言いたくなるくらいだ。
そのあと、ユーマは包丁で指を切ることもなく、私は特にやることもなく。簡単に作れた鍋とラーメンに二人で舌鼓を打って、日曜の夜は更けていった。