きみのこころ、わたし知らず
 週の真ん中、水曜日というのは憂鬱なものだ。休みまであと二日だと感じるか、まだ二日もあると感じるか。
 今週に関して言えば両方だった。忙しさのあまりまだ二日もあるのかと感じる一方で、仕事が終わらなくてもう二日しかない、と不安になる。なぜなら、今週末にはいよいよ人事部に配属されてからの一大イベント――入隊式――が待ち構えているからだ。

「結川さん、金曜の飲み会参加できるんだっけ?」
「はい、もちろんです」
「よーし、じゃあそれまで頑張ろうね……!」
「……はい……!」

 先輩のやつれた笑顔に強く返事をする。繰り返すが、ボーダー人事部の忙しさは続いているのだ。
 しかも、上司から直々に『残業禁止令』が出たのも忙しさに拍車をかけている。上司の許可がないと残業できないのは確かだが、しばらくは他の部署の都合により残業はさせられないと宣告されている。この忙しい時期に。
 つまり定時で帰れることと引き換えに、業務時間中が地獄のような様相を呈しているわけだ。仕事の期限は近づいてくるばかりで本当に、忙しいと言う外ない。

「はい、定時だよ。各自切り上げて」

 さらには定時になると必ず水沼部長が釘を差しにくる。こうなると切り上げざるを得ないし、皆が「お疲れ様でした」の挨拶を交わして部署を後にするばかり。
 私だって定時で上がれるのは嬉しい。けれど仕事が終わらない焦りと、日中ハイペースに仕事をしているせいでクールダウンもままならない。どうにも落ち着かない日々が続いていてげんなりだ。

「……そうだ、映画に行こう」

 なにかのキャッチコピーよろしく呟いて気持ちを切り替える。気になってた映画も公開されたばかりだし、気分転換にはもってこいじゃないか。どうせ家に帰っても時間を持て余すくらいなら映画で気晴らしした方がいくらかマシだろう。
 そうと決まれば。私は最寄りの映画館での上映スケジュールを眺めつつ、帰路から外れて映画館へと向かうことにした。



 結果として、とてもいい気分転換になった。好きなアーティストが主題歌を歌うと聞いて気になっていたものだけど、映画自体も普通に面白かった。それでいて演出として主題歌が流れたシーンなんか、ちょっとテンション上がったし。なかなか楽しめたと満足だ。
 だが、目前――自宅の玄関を開けてすぐ――に仁王立ちしたユーマの表情は、静かながらにいかにも怒ってますと言わんばかり。

「……おかえり」
「…………た、ただいま」

 ただごとではない雰囲気に、おずおずと返事をしつつもユーマを伺う。あれ、なにかあったかな。買い置きはちゃんとあったハズなんだけど。
 っていうか、ユーマ今日は帰ってきたんだな。――と、瞬間的に思い出す。今日は水曜日でもランク戦があるはず。しかも、ケーキ買っておくとか、そんな話をしていたような記憶が……。

「……えっと、今日のランク戦、勝った?」
「うん」
「そっか、おめでとう」
「うん」

 ……これはケーキを買い忘れたことに怒っている説が有力だろうか。私は気後れしながらも、どうにか謝罪を試みることに。

「ご、ごめん。ケーキ買ってくるの忘れちゃったね」
「……ほう」
「えーと、ごめん、明日でもよければ……」

 買ってくるけど、と言い切るより先に、ユーマはふぅと浅く溜息をつく。

「別にいい。っていうか、おれが言いたいのはそこじゃない」

 気づけば、少しばかりユーマの険しい雰囲気が和らいでいた。どうやら本当に、ケーキがないことに怒っているわけではないようだ。
 なら他に何があっただろうか。少なくとも玄関で待つほどには私に言いたいことがあるようだけど、思い当たる節は一切ないし。

「連絡したが、全然通じなかったけど」
「そうなの? 映画見るのに電源切ってたからその時かも」
「……メッセージ送ったけど、読んでもないし返事もこないし」
「えぇ? ……あ、ほんとだ。いつ来てたんだろ」

 慌ててスマホを取り出せば、確かに着信履歴とメッセージの受信通知がいくつか。映画が終わったあと電源だけは入れてたんだけど、すぐに鞄に放り込んでトイレに行ったんだよな。その後は早く帰ろうとそればかりだったし、今までメッセージすらも気づいてなかった。
 ユーマはしばらく、じとりとした視線を私に向けていた。けれど少ししてからまたふぅ、と溜息。

「……一応聞くけど、なにもなかったんだよな?」
「えっと? う、うん」

 私の返事を聞いたユーマは、はぁ、と深い溜息をついた。それからいよいよ踝を返し、背中を向けたまま「あったかいのが飲みたい」と私に強請る。
 とりあえずは言うとおりにしようと、私はようやく自宅へと足を踏み入れた。そのまま台所へと入り、荷物やらコートやらを片隅にまとめておく。冬場の手洗いうがいを済ませてから、そのままケトルでお湯を沸かしはじめることに。
 ユーマはすでに食卓の前に座っていて、今か今かと待っている様子。それでいて表情はようやく、見慣れたいつもどおりの雰囲気を取り戻している。

「はい、おまたせ」
「うん、ありがとう」

 受け取って、お礼を返したユーマは手に持ったマグカップへふぅふぅと息を吹きかける。私も同じようにして熱さが和らぐのを待っていると、なにとはなくユーマが口を開いて。

「今日、ボーダー本部に近界民が侵攻してきたぞ」
「……へぇ!?」

 突拍子もない話に思わずユーマを伺う。平然とした表情で、そのまま「おれは参戦してないけど」なんて言ってのけるユーマ。いやでも、また近界民の侵攻があったなんて大事件じゃないか。

「今回のは内部でも機密扱いだったんだ。だから知らないヤツの方が多いと思うよ」
「え、えぇ……?」
「カエデも、他のヤツには言うなよ」

 ずいぶんと不穏な話だ。というか、他の奴に言うな、ということは本来なら私の立場では知り得るはずのない情報ということだろう。むしろそれ、ユーマは私に言って大丈夫なのだろうか。
 ……今更か、と嘆息。それを言うなら、本来なら知っていてはいけない『ユーマが近界民である』ということを知っている身でもあるのだから。

「おれも、ランク戦が終わったあとで侵攻の話を聞いた」
「へぇ、そうなんだ」
「今回は特に被害が出なかったとも聞いてはいたが……一応、と思ってな。電話してみたら通じないし」
「……うん?」
「メッセージ送っても反応なし。しかも帰ってみれば誰もいないわけだ」

 ――もしかして、と脳裏に過ぎった推察を、ユーマは呆気なく口にする。

「さすがに心配するだろ」

 どきりとした。それから、じわりと目尻が熱くなった感覚がして自分に驚く。
 心配、したのか。ユーマが。私と連絡が取れなくて、家にもいなくて、それで?
 無性に泣きたくなったのはきっと家族の思い出が蘇ったから。私はただ友達と遊んでいて楽しかったのに、帰りが遅かったとひどく怒られた記憶。その時は心配させたという気持ちもあれど、せっかくの楽しかった一日にちょっと水を差されたような気持ちだってあって。
 それが今は、こんなにも胸が苦しくなるのに嬉しい。だって今の私にも、帰りを心配してくれる人がいるんだなって。

「……ごめんね」
「いいよ。まぁ、なにもなかったなら、それで」

 ユーマは私の謝罪をすんなりと受け入れてくれた。そうして私が淹れたお茶を飲みながら、ふいに「なにか食べるか」なんて言って夜食へと手を伸ばしている。
 どうにか泣きそうになるのを堪えていたけれど、ユーマの目にはそれがしおらしく映ったようだ。すっかりといつもの調子で「もう怒ってないよ」なんて言ってみせて、また胸の奥がぎゅうと苦しくなる。
 私は奥歯を食いしばりながら目に滲みかけた涙を必死で乾かして、間。深呼吸して落ち着いてから、おずおずとユーマに声をかける。

「……次帰ってくる時は教えてよ。ケーキ買って帰るから」
「ほう? じゃあ、そうする。……けど」
「うん?」
「さすがにおれも、ケーキがないくらいで怒らないぞ」

 ユーマの表情が呆気なく不満げなものに変わってしまって、私は思わず吹き出した。笑ってしまえば、ユーマはちょっとだけ唇を尖らせつつ「まるでおれが拗ねてるみたいじゃん」なんて。怒っている原因がケーキじゃないかと疑ったのは、かなり不服だったようだ。
 だから私は笑いながらも、次また買い忘れても許してくれる? と尋ねる。ユーマはちょっとだけ考える仕草を見せてから「ゼンショする」なんて言うものだから、すっかりと気が緩んでしまって。私も忘れないよう善処すると答えて、ユーマと二人笑い合うのだった。
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