近界民は私を“おねーさん”と呼ぶ。見た目通り近界民は――少年、なのだろうか。というか、近界民に年齢という概念はあるのかどうか。気にはなったが下手な詮索はできないし、近界民が私の名前を訊ねてこないところを見るに、こちらを詮索するつもりもないのだろう。だから私は、ただ“おねーさん”と呼ばれることを受け入れるしかなかった。
一方の私はあの、だとかあなた、だとかそんな呼び方ばかりだ。名前を聞くことも詮索になるだろうと聞かないまま、近界民自身も名乗ることはしない。だから、私が知っていることといえば人探しに日本に来た近界民というただそれだけだ。
ここまでくると私は妙な適応力を見せていて、ボーダーに通報しようだとかそんな気は全く失せていた。別に、害はないし。広すぎるあの家を、近界民とは言え有効活用してくれるならそれもありではないか。何より、渡された大金のこともある。正直あれだけの額があれば固定資産税やらなにやらが非常に楽になるので、この際甘んじて援助してしまおうとすら考えていたくらい。
だからと何事もなく会社に行き、何事もなく仕事をこなし、何事もなく帰宅した月曜の夕方。「おかえり」と当然のように出迎える近界民に、私も自然に「ただいま」と答えていた。そのまま夕飯を共にし、近界民は団欒でもしている雰囲気で何気なく私に明日の予定を告げる。
「おねーさん、三門中学って知ってるか?」
「え? はい」
「おれ、明日からそこに通うから」
「……はい!?」
思わず大きな声を上げてしまったけど、近界民はそれほど驚くこともせずにこりと笑う。「大丈夫だ。おそったり、さらったりしないから」と言ってはいるけれど大丈夫なのか。とはいえ、私は近界民の邪魔をできないのだから何も言うことはできない。
「どうして、それを私に?」
「いざって時に誤魔化してもらわないと困るからな」
つまりは万が一の時にちゃんと自分と口裏を合わせろということらしい。私に残されている選択肢は了承することだけなので、「はい」と素直に返事をした。満足気に頷いた近界民はそれ以上要求することもなく、淡々と食事の時間が過ぎていく。
食事を終えて「ごちそうさまでした」と挨拶した近界民は自発的に片付けを済ませた。ぼうっと見届けていれば今度は、「風呂借りるな」と私に告げ、着替えを取りにか二階へと上がっていく。
「……近界民って、学校に行くんだ……」
よくわからないけど、勉強できるんだろうか。いや、さすがにこれも人探しの一環かな。じゃあ探してる人って友達とか……? いや、近界民の友達ってなんだろう。考えるほどに自分の中の常識と近界民の定義が噛み合わなくて混乱してしまう。
再びたんたんと階段を下りる音が響いてきて、足音はそのまま脱衣所の方へと響いていった。閉められた扉の音。自分以外の人間の生活音が響く我が家は懐かしくて、記憶と現実が重なってしまう。あぁ、そういえば家族がいた時、我が家にはこんな音が響いていたんだと、泣きたくなるような。
理性を振り絞った私は手早く夕飯の片づけを済ませ、自室へと引き上げることにした。近界民の生活音に安心している場合じゃない。疲れているからって、いくら近界民が思っていたような存在と違ったと言ったって、近界民の存在に安心するようにすらなってしまうのは――ダメな、気がする。
*
次の日の朝。本当に近界民は三門中学に行くようで、洗面所の鏡の前で制服らしきブレザーに袖を通していた。背中をぼうっと見つめている私に鏡を見て気づいたようで、振り返った近界民は笑顔で「おはよう」と告げる。
「……本当に中学、行くんですね」
「もちろん」
「ネクタイ、曲がってますよ」
ワイシャツの首元に絞められたネクタイに手を伸ばす。さすがに学生服のネクタイだからか、初めから結ばれたネクタイをゴムで首にかけるような類のものらしい。ねじれていたゴムを直しつつネクタイの位置を整えれば、近界民は「ありがとう」と言ってまた笑う。
「少しはおれに慣れたか?」
「……え?」
「その方がおれも楽だし、あんま怖がらないでくれると助かる」
――そういえば、今の私は脅えることもなく自然と近界民に歩み寄ってしまった。
朝だから少し寝ぼけていたのだろうか。それとも、数日の同居生活で感覚がさらに麻痺してきたのだろうか。いずれにせよ最初に比べてずっと恐怖心は無くなっていたし、近界民があまりに礼儀正しくいるものだから、私としても警戒心がなくなりつつあるらしい。
「……えーと」
「とりあえず、おれはもう行くぞ」
「は、はい。いってらっしゃい」
やはりというべきか、近界民は「いってきます」と行儀よく挨拶をしてから家を出ていった。素行が良いという言葉を近界民に当てはめるのはどうかと思うが、それ以上に適当な評価がない。だから、近界民は全て言語を解さないバケモノで、問答無用で殺されるか攫われる、と思っていたこれまでの価値観を根底から覆されつつある。というかもはやその定義で言えば、私にとって近界民は近界民ですらない。ただの、普通の人間じゃないか。
「……寝言は寝ていうもの」
独り言で自分を戒めて、私は会社に行くべく気合を入れ直した。
*
出勤し、昼休みに何度かニュースを調べたけれど、特に“三門中学”が話題に上ることはなかった。たぶん近界民は何事もなく学校へと紛れ込んだのだろう。
けれど仕事を終えて帰宅してみると、近界民はまだ戻っていないようだった。買い置きの食糧が減っていないところを見るに、今朝学校に行ったきりらしい。もしかして、ニュースになっていないだけで近界民は正体がバレて捕まった、のだろうか。
それならそれで仕方がないはずなのに、なぜか私は近界民に対して――心配する気持ちを抱いていて。
「……大丈夫、なのかな」
二階へと上がり、近界民に宛てがった部屋の前に立ってノックをしてみる。やはり返事はない。つまり、私の帰宅に気づいていないという話でもない。だって昨日の近界民は、私が帰宅したと気づくや否や「おかえり」と言ってくれたのだ。ならばやっぱり反応がない以上、近界民はまだ戻ってきていないのだろう。
――どうしたんだろう、私。いないことに安心するより、不安になって姿を探してしまうなんて。
「いやいやいや、今更、寂しいとか、そんなの、」
脳裏を過ぎった考えを誤魔化すように独り言で思考を遮っていると、唐突に玄関から物音が響いてきた。瞬時に脳裏を過ぎった二つの可能性。一つは、近界民が学校から帰ってきた可能性。そしてもう一つ――ボーダーの人間が、何かしらで私が近界民と通じているのではないかと気づいて、調べにきた可能性。
仮に後者という最悪のパターンであっても、だ。一般人である私には逃げ場も選択肢もない。私は一度だけ深呼吸をして、現状を見極めるべく玄関へと向かう。
「――あぁ、今日はおれの方が遅かったな」
見えたのは白い髪、紅い瞳。ほっとして肩の力が抜けるのも自覚しつつ、私は自然と口を開く。
「……はい。おかえりなさい」
感情に嘘はつけなかった。よかった、と安心したのだ。あぁ、もしかしてこれがストックホルム症候群というやつなのだろうか。知識として判断できても、気持ちは誤魔化せない。私は脅されて匿っているはずなのに、近界民がボーダーに捕まったのかもしれないということに恐怖を覚えて、こうして無事に帰ってきた姿を見て安堵している。
近界民はそんな私に何を思ったのだろうか。きょとん、と目を丸くしたあと少しして、ふ、と優しく笑う。
「初めて笑ったな、おねーさん」
「……え?」
「今日はご飯も食べてきたんだ。風呂入ってもいいか」
「あ、はい。どうぞ」
近界民は普段通りに二階へと上がり、荷物を置いてきたと思ったらそのまま脱衣所へと入っていく。あぁ、“日常”だ。きっともう私はとっくにおかしくなってしまっているのだろう。
それでも、私は元気だ。だからもう、それでよかった。少なくともすべてに疲れたと絶望していたあの時よりもよほど、私は生きていると思えたから。