ロストタワーの最上階には、とても深い霧が立ち込めていた。その中をほとんど手探りで前に進んでゆく。
そんな私の目の前に、霧の中から不意に、ふたりの老婆が現れた。
「わっ」と漏れた驚きの声が、霧の向こうに消えてゆく。墓石らしき物体の方を向いていた彼女らは私の声を聞いて初めて私の存在に気付いたようで、口々に「誰かいるのか?」「こんなところに何の用だ?」などと言いながら辺りに視線を泳がせ、最後にはふたりで「見えん! 霧でなにも見えん!」とやや荒い声を揃えた。
これは、一刻も早く霧を払った方がよさそうだ。そう思った私は、フワライドのボールを抜き出したのだが。
私がそれを放るより先に、いままで黙って私の後をついて来ていたミカルゲが力強く鳴いた。そして次の瞬間、あの曖昧な輪郭の体のどこにそんな力があるのだろう、と思わず不思議に思ってしまうほどの跳躍力で、彼は重たい要石と共に大きく飛び上がった。呆気にとられた私の視線の先、ミカルゲはそのまま霧の中に消えてゆく。そして。
一瞬の後、フロア全体を巻き込むような激しい旋風が巻き起こった。
あれは、たぶん、怪しい風だ。私がそう思うと同時に、圧の強い風に押されて霧がざあっとはれた。どうやらこのミカルゲは、怪しい風を霧払いよろしく使うことが出来るらしい。
綺麗になった視界。その中央に、ミカルゲがごとんと大きな音をたてて着地する。彼は緑の瞳をらんらんと輝かせて「どうだ!」と言うように高く鳴いた。
「ミカルゲ、ありがとう!」
私の礼を聞いた彼の顔のまわりの人魂がぐるぐると勢いよくまわる。育て屋のおじいさん曰く、あれは嬉しい証拠。彼につられるようににっこりと笑ってから、私は先ほどのおばあさんたちに自己紹介と、ジュンサーさんの代わりに来たことを伝えるべく彼女らの方に向き直った。
おばあさんたちは、フロアの真ん中に鎮座するミカルゲを神妙な顔つきで見つめていた。
「霧が晴れたと思うたら、あれは御魂の塔のミカルゲじゃないですかね」
「ええ、霧と一緒に迷いも晴れたが、まさかミカルゲが現れるとはねえ」
彼女らはどこか緊張を孕んだような眼差しでミカルゲを見つめたまま、私にこう尋ねかけた。
「お前さんは、どうしてミカルゲがここにいるか知っておるかね?」
私はそれに頷いて、ミカルゲとのこれまでを手短に説明した。するとおばあさんはため息まじりの声で「お前さんが封印を解いてしもうたか……」と言った。
「封印、ですか?」
「そうじゃ。あれは、大昔からたびたびこの辺りで悪さをしてきたミカルゲでな。わしらの先祖にあたる祈祷師たちによって御魂の塔に封印されていたんじゃよ」
御魂の塔、というのはおそらく、ミカルゲと出会った石の塔の本当の名前なのだろう。どうしてミカルゲがあんなところに閉じ込められていたのか、という疑問の答えをくれたおばあさんは、「しかし……」と言いながら私とミカルゲを神妙に見比べて、首を傾げた。
「ミカルゲのあの様子、伝え聞いていたものとはちと違うのう」
「あの娘にあんなに懐いて。悪さをする気配も見えん」
霧を晴らしたミカルゲがこちらににじり寄ってくる。私が安定しないその輪郭をなでると、彼は目を細めて満足げに鳴いた。
「不思議なこともあるもんじゃ」と言いながら顔を見合わせたふたりは、それから私に向き直ると、「時に、そこな娘や、」と改まった調子で言った。
「お前さんは、そのミカルゲをどうするつもりかね?」
「偶然とはいえ封印を解いたお前さんには、それを決める権利と責任があろう」
私がミカルゲの今後を勝手に決めるなんて、ちょっぴり高慢な気もするけれど、でもおばあさんの言うことももっともだと思った。私には、彼の封印を解いてしまった責任がある。
ふたりの問いかけになんと答えるべきか迷った私は、隣で静かに話をきいていたミカルゲに視線をやった。ゴーストタイプらしく素直じゃないところもあるけれど、悪さなんて全然しないで、霧を晴らして私の手助けをしてくれた彼。
「……もしも、ミカルゲがそうしてもいいって思ってくれてたらなんですけど、
これから一緒に旅ができたらいいなと、思っています」
ずっと一緒にいる。それが私にできる一番の責任のとり方だと思った。
私の言葉を聞いたミカルゲは、ぱっと顔を輝かせる。しかしそれは一瞬のことで、彼はすぐに元気のない声で鳴いて俯いてしまった。
……もしかして、私と一緒に行くのは嫌だったのだろうか。そう思った私が「ごめんね、あなたが嫌だったらいいの」と謝ると、ミカルゲはぱっとこちらを向いて大きな声をあげた。緑色の双眸が、何かを伝えようとするように真っ直ぐ私に向けられる。
「……どうやらミカルゲは、おのがさだめを理解しておるらしい」
ぽつり、とそう言ったのは、一部始終を見ていたおばあさんだった。
「ミカルゲの、さだめ?」
私がそう尋ねると、おばあさんはミカルゲのことを語って聞かせてくれた。
大昔からズイの街はたびたびこのミカルゲに襲われていたのだという。そこに、今から500年ほど前、このおばあさんたちの祖先にあたる祈祷師が現れ、ミカルゲを封印することに成功した。それから祈祷師一族はズイに暮らし、ミカルゲの監視を続けてきたそうだ。
「封印はたびたび解かれた。しかしその度にわしら一族はミカルゲを封印してきたんじゃ。ミカルゲに対する封印は、代を重ねるごとに強くなっていった。体を要石に縛ることに始まったそれは、ついにミカルゲをこの地に縛るに至った」
そこで一度言葉を切って、おばあさんはその目をまるで遠くを見るように細めながら、続けた。
「……つまりのう、いたずらに被害を広げぬために、ミカルゲが御魂の塔から遠く離れられないようにしたんじゃよ」
それを聞いた私の脳裏に、彼と一緒にズイの遺跡に向かった時のことがぱっと浮かぶ。遺跡が近付いた時、急に動きを止め、何かを思い出したように踵を返したミカルゲ。あの時は、気が進まなかったのかな、くらいにしか思っていなかったけれど、今ならこの行動の意味がはっきり理解できる。
ミカルゲは、ズイの遺跡に行かなかったんじゃない。行けなかったんだ。
「じゃからミカルゲは、お前さんと一緒に行くことは出来ん」
事実を告げるおばあさんの言葉に、まるで自分のことのように体の芯が冷たくなった。もしも私がどこか一か所から動けなくて、ゴーストたちが私を置いてどこかに行ってしまったとしたら。想像しただけで、心臓が嫌な音をたてる。
――もしも、おばあさんたちの話が正しいのだとしたら。
残念だけどこれは、彼の過去の行いに対する正当な結果なのだろう。悪いことをしたなら償わなければならない。それは私たちの世界では常識だ。
けれど。ミカルゲの顔のまわりの人魂がいつもよりゆっくりと、元気がなさそうに動いていることに気付いた私は、なんとも言えない気持ちを抱いたままもう一度彼の輪郭に触れる。
私の知るミカルゲは、悪いことなんて少しもしなかった。乱暴だった彼がどうして変わったのか、その理由は分からない。でもミカルゲが今までとは違う一歩を踏み出そうとしているのなら、私はそれを後押ししたいと思った。
「……どうにかできないでしょうか」
誰にだって、やり直すチャンスがあっていいはずだ。幸せになることを諦めなくていいはずだ。
「これまでの歴史を考えると、罪深いお願いだってことはわかります。
でも……私もできることをしますから、だからどうか私とミカルゲに、チャンスを貰えませんか?」
だって、彼は生きている。
私はロストタワーに入ってからずっと頭の隅にいるルクシオのことを思いながら、「お願いします」と頭を下げた。私にできることは本当に少ない。私は彼のことを守れなかった。でもできるなら、今度こそ誰かの役に立てる私になりたい。
おばあさんたちは私とミカルゲを順に見てから、厳しい表情で口を開いた。
「地縛の封印を解くよう努力はしよう。……じゃが、確実に自由になれる保証はないぞ」
「よしんばこの地から解き放たれるとて、どれだけの時間がかかるかもわからん。それでもお前は、おとなしく待てるか?」
乱暴だった頃のミカルゲを知っている彼女らの詰問するような口調に、思わずたじろぎそうになってしまう。そんな私に助け船を出してくれたのはゴーストだった。
彼はミカルゲの隣にすっと移動すると、何やら言葉を交わす。二、三の会話の後、おばあさんの方に向き直ったミカルゲは、はっきりとした声で鳴きながら大きく一度、頷いた。どんなに時間がかかっても待つよ。そう言っているのだとすぐにわかった。
ミカルゲの返事に納得したらしいふたりは、小さく頷くと今度は私の方に顔を向けた。そして、「お前さんもじゃ」と私の決意を確認する。
「見たところ、シンオウを旅しとるようじゃのう。呪いを解くのにどれだけかかるかわからん。まさかずっとズイで待つわけにもいかんじゃろう」
「それでもお前さんはミカルゲのことを待てるか? 楽しい旅の中でこやつのことを忘れてしまうようなことはないか?」
私はそれに、自信を持って頷いた。大切なポケモンとの記憶は、楽しい旅の中でも忘れることはできない。辛い別れの記憶ですらそうなのだから、これから一緒に時間を過ごせるミカルゲのことを忘れるはずがない。
「はい。一緒に行けるようになるまで、ずっと待ちます。忘れたりしません」
私にできることは、今も昔も本当に少ない。待つことしかできないなんて、本当に無力だ。でもできることがひとつでもあるなら、それを全うしたいと思った。
「ミカルゲ、私、会いに来るね。おまじないがとけるまで何度でも。だから、絶対いつか一緒に旅に出よう!」
私がそう言うと、ミカルゲの顔のまわりの人魂が勢いよくぎゅるんと回る。
それを見たふたりは、ふっと表情を和らげると「決まりじゃな」と頷き合った。
私はおばあさんのその声に、ほっと胸を撫で下ろす。よかった。私とミカルゲの希望がつながって、本当によかった。
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