せっかくホテル・グランドレイクに来たのだから、ポケモンたちと一泊してみるのもいいかもしれない。そう思ってホテルの受付に行ってみた私は、提示されたお値段に見事な一撃必殺をくらってしまった。
私が言葉を失っていると、私のお財布事情を察してくれたのか、受付のお兄さんは「大変申し訳ございません。只今確認いたしましたところ、本日は満室でございました」と、さも今気付いたかのように言って、私の面目を保ってくれた。さすが一流ホテルの従業員さんだなあ、と感服しながら、受付のお兄さんに時間を取らせてしまったことを謝って、受付の建物を出る。

薄闇の中で、しかしそれでもなお輝きを放つ純白のコテージたち。私は、いつかみんなと泊まりに来よう、と改めて思いながらそれを一瞥してから、テントを張る場所を探してホテルを後にした。




ロトムのフラッシュと懐中電灯を頼りに辺りを軽く調べた結果、私はホテル・グランドレイクの近く、木々の茂る高台の一角にひっそりとテントを張って夜を明かすことにした。

味気ない携帯食料とボトルの水で食事を済ませると、みんなとの時間もそこそこに寝袋にもぐりこむ。一日歩き通しで体中にたまった疲れのおかげで、眠気はすぐにやってきた。
今日の眠りは深いだろうなあ。……明日の朝、ちゃんと起きられたらいいんだけど。暗闇の中で瞼を閉じながら、私はそんなことを考えていたのだが。

私の心配とは裏腹に、寝覚めはとてもよかった。私は少し野暮ったい瞼をこすりながら、寝袋の中で耳を澄ます。まだムックルの鳴き声も聞こえてこない。寝袋からもそもそと這い出し、テントから顔を出して周囲を確認すると、辺りはまだ薄暗かった。どうやらまだ日の出前らしい。
昨日の無理もあってまだ体が重かった私は、もう少し休もうかなとも思ったのだが、冷たい空気に触れたせいですっかり目が覚めてしまったようで、もう一度眠れそうにはない。

一旦テントの中に戻って身支度を整える。ゴーストは、どうやらまだ夜のお散歩から戻っていないらしい。私はコートの前をしっかり閉めると、ひとりのテントを出る。

清らかな空気の中でぐっと背中を伸ばした私は、辺りを少し散策することにした。
道なき道を、転ばないように気を付けて歩く。足元の枯葉は、夜のうちに凍り付いてしまっていたらしく、足を出すたびに乾いた音をたてて砕けてゆく。私はそのなんとも儚げな音を聞きながら、今日の、そしてこれからの予定について思案を始めた。

シンオウを巡る、という旅を中断して、デンジに会いにナギサに戻ると決めたのは一昨日のことだ。
そして、停電による222番道路の通行止めが原因でその目標を達成できなかったのが、昨日のこと。

222番道路の通行止め解除の目処は立っていない。常識的に考えるなら、ここは一旦ナギサに戻ることは諦めて、旅を再開するべきなのだろう。

しかし、私はすぐにそう心を決めることができないでいた。
昨晩は、疲れていたせいもあって、とにかくデンジが無事だったことを喜んで終わりだったけれど……考えてみれば、私はデンジに会うためにここまできたのだった。もう長いこと口をきいていない彼に会って、子供だった私のわがままを謝って、それから旅に送り出してくれたお礼を言おうと思っていたのだ。
その道を断つことが、どうしてもできなかった。せっかくそのためにここまで来たのに、また旅を再開してここから、ナギサの街から離れてゆくのが、言いようもなく名残惜しかったのだ。

ホームシック、なのかもしれない。
旅に出てからずっと忙しくて、ナギサに帰るなんて考えもしなかった。だからナギサを目の前にした今、今まで目を向けて来なかった故郷への気持ちが一気に膨れあがってしまっているのだと思う。
旅に出る直前は、本当にいっぱいいっぱいで、ルクシオの面影が色濃く残るナギサの街にいることがつらかった。けれど、ゴーストたちと旅をしてほんの少し成長できた今なら、彼の面影も笑顔で追うことが出来るだろう。

デンジに、ルクシオに、会いたい。
旅を続けたい気持ちと、ナギサに帰りたい気持ちが交錯する。私はたまらず、深いため息をついた。白い息が、まだ暗いシンオウの空にゆっくりと昇ってゆく。私がその行く先を見つめながらぼんやりと歩いていると、不意に、ずっと続いていた林が途切れた。視界がさあっと開ける。

私が偶然たどり着いたそこは、リッシ湖を一望できる高台だった。湖から立ち上ってくる冷たい空気に身を震わせたのは刹那。私はすぐに目の前の光景に圧倒された。
眼下に広がる湖には、一面にたなびくような霧がかかっていたのだ。夜明け前の薄暗い中でもまごうことなく純白だとわかる、美しい霧。まるで、そこだけ雲の上のような光景に、私は思わず言葉を失って見入る。
私の唇からもれる白いもやは天へ昇って消えてゆくのに、リッシ湖にかかる霧はまるで意志でも持っているかのようにそこに留まったまま、消える気配はない。それが、ただただ不思議だった。

雄大な自然の風景に圧倒されて、動くこともできずにその景色を見つめていると、やがて東の空から淡い橙色の光が差し始めた。
朝日に染まった霧のリッシ湖は、神々しい黄金色の輝きを放つ。もしも天国が本当にあったなら、きっとこういうところなんだろうな。私はそう思いながら、金色の霧がたなびくリッシ湖を見つめる。

霧は、それから時間をかけてゆっくりと消えていった。まるで太陽の熱で氷が溶けてなくなるように、なんの痕跡も残さずに消えた黄金色の霧。その向こうから現れたのは、どこまでも澄んだ青い水を湛えたリッシ湖の姿だった。

それを目にした刹那、私の脳裏に、ある男の後姿がよみがえった。それは、この旅の中で私がずっと追いかけてきた背中だった。シンジ湖で出会った、いまだに名前すらわからない、水色の髪の男。
彼に出会った時の感情が、胸の奥でよみがえる。私と同じ色をした瞳に、どうしようもなく惹かれたあの日。――そうだ、あの日から私の旅が始まったんだ。

リッシ湖の湖面が僅かに波立つ静かな音が、私の鼓膜を揺らす。
その厳かな音はじわりと私の胸に染み入って、私の迷いを消してゆく。

私は湖を見下ろしながら、ゆっくりと深呼吸をした。澄んだ空気で満たされた肺から、体の隅々に湖の持つ不思議なパワーが広がってゆく。私は迷っていたこれからの旅の進路を決めた。

あの人にもう一度会いたい。会って、あの瞳の奥にあるものを知りたい。
今は、前に進もう。不思議と、もう後悔も迷いもなかった。足を止めてナギサに帰るのは、もう少し後でいい。


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