旅を進めることにした私は、ノモセシティを目指して、シンオウの南に広がる海沿いの砂浜をゆっくりと歩いていた。
進むことを決めたはいいけど、昨日は一日中ほとんど休むことなく歩き続けていたため、まだ少し脚に疲労が残っている。だからあまりたくさん歩くことはできないだろうな、とは思っていたけれど……。
それはそれでよかったのかもしれない。私は左手に広がる砂浜を見ながらそう思った。
ゆっくり歩けば、それだけこの海沿いの道に長くいられる。
幼い頃から海のそばで育ってきた私にとって、波の音を長く聞いていられるのはとても嬉しいことだった。
みんなにも海を見てもらいたいな。そう思った私は、みんなをボールから出して一緒に砂浜を歩く。
水タイプらしく、波打ち際をぺたぺたと歩いてゆくコダック。穏やかな音をたてて寄せては返す波が物珍しいのか、波の満ち引きに合わせて揺れるロトム。
海からゆるゆると吹いてくる潮風に乗って遊ぶフワライドと、そんな彼らをの周りをなにやら不敵な笑みを浮かべながら漂っているゴースト(なにかイタズラでも企んでいるのだろうか)。
そんな彼らを見て私が笑みを浮かべていると、私の足元から乾いた鳴き声が聞こえてきた。ヨマワルだった。彼は私の近くをふよふよと漂いながら、私に向かって二本の腕を差し出す。
好奇心旺盛なみんなと違って、寂しがりで甘えん坊なヨマワル。彼はいつも私のそばにいて、こうして抱いてくれとせがむのだ。
仮面の奥で輝く、大きな赤い瞳。先日のジム戦で怖い思いをさせてしまったこともあって、私はこの眼差しに見つめられると、何も言えなくなってしまう。
私は言われるままに彼のことを抱き上げると、背中を数回撫でてから、にこりと微笑んだ。
すると、仮面の向こうの燃えるような瞳がふわりと明滅する。これは、表情の乏しい彼なりの笑顔。
私は彼が笑みを浮かべていることに安堵しながら、ゆっくりと砂浜を歩いてゆく。
いたずら好きなゴーストたちやマイペースなコダックと違って、彼はとっても繊細だ。私と一緒にいたいと言ってくれた彼が笑っていられるように、トレーナーとして頑張らないと。
ヨマワルの重みの分までしっかりと刻まれたひとりぶんの足跡を残しながら、私は決意を新たにする。
そんな時だった。
213番道路に、大きな水音が響き渡ったのは。
突然の大音に、ヨマワルの背中がびくりと震える。私はそんな彼を安心させるようにぎゅっと抱きしめながら音のした方――海の方向を振り向いて、絶句した。
派手な水飛沫とともに現れたのは、なんと私とヨマワルに向かって牙をむく巨大なサメハダーの姿だった。
サメハダーといえば、比較的暖かい地方に生息する海棲のポケモンだ。それがどうしてこんな北の海にいるのだろう。そんな疑問が脳裏をよぎったのは刹那。私の思考はすぐに迫っている危険の対処へと切り替わる。
私はヨマワルをしっかりと胸に抱いてかばいながら、サメハダーと対峙する。彼はものすごい勢いで水中から飛び出してきたようで、あっという間にその鋭利な牙が目の前にまで迫った。
腕の中のヨマワルがか細い悲鳴をあげる。しかし私は動じなかった。なぜなら、視界の隅で、ゴーストが勢いよく飛び上がっていたのに気付いていたからだ。
私がヨマワルに「大丈夫だよ」と力強く言ったのと同時に、ゴーストのシャドーパンチがサメハダーの横面にヒットした。
まるで映画のワンシーンの様に綺麗に決まった攻撃に、サメハダーはたまらず海の中に退避する。ゴーストを警戒してかサメハダーが距離をとっていることを確認してから、ゴーストはすいっとこちらに寄って来た。私と、そしてヨマワルにケガがないことを確認して、小さく鳴く。
私が彼にお礼を言うと、彼はいつものように飄々とした声で鳴いてから、すっとヨマワルの正面に舞い降りてきた。そして、はっきりとした調子の声で二言三言、なにやら言葉をかける。
それを聞いたヨマワルの瞳が、弱々しく二度明滅した。今にも泣きだしそうなその様子に慌てた私はゴーストのことをたしなめようとしたのだが、それは叶わなかった。なぜなら、またも大きな水音とともにサメハダーが現れたからだ。
大きく響く水音の中、ゴーストはヨマワルになにやら念を押すように声をかけて、サメハダーと対峙するべく私たちに背中を向けて飛び上がった。ヨマワルは、そんなガスの背中を震えるような眼差しで見つめている。
「……ヨマワル、」
私が声をかけると、彼の喉の奥から掠れたような声が漏れた。
ゴーストが彼に何と言ったのかは、わからない。でも、今、ヨマワルが不安を感じていることだけははっきりとわかった。
きっとサメハダーが怖いのだろう。そう思った私は、ヨマワルの不安を少しでも和らげようと、彼の背中を優しく撫でながらそっと体の向きを変えて、彼の視界からサメハダーとゴーストのバトルが見えないようにしたのだが。
どういうわけだかヨマワルは、体を捩ってそれに抵抗した。真っ赤な瞳をおどおどと明滅させながら、しかし彼はサメハダーと戦うゴーストから目を離そうとしない。
ヨマワルのその様子から、私が彼の感じる不安についてひとつの仮定にたどり着いたとき、サメハダーはその素早い身のこなしを活かして、いくつもの影分身を作り出した。どれが本物なのかと、一瞬躊躇したゴースト。そのわずかな隙をついて、サメハダーはゴーストの脇をすり抜けることに成功した。再び、鋭い牙が私たちに迫る。
さっきと違って、今度はゴーストが間に合うかどうかはわからない。最悪のケースを想定しながら、しかし他にできることもなく、私は恐怖とともにヨマワルをぎゅっと抱いて体の影に隠そうとしたのだが。
それは叶わなかった。
なぜなら、私が抱きしめるよりわずかに早く、ヨマワルが私の腕を抜け出したから。
ヨマワルは弱々しい赤の軌跡をえがいて中空に躍り出ると、か細い声で泣きながら、なんとサメハダーと対峙したのだった。
私はとっさに戻るように指示をしたが(だってあの子はバトルの苦手な、繊細でおとなしいヨマワルなのだ)、しかし、彼は戻らなかった。恐怖に身をすくませ、乾いた泣き声をあげながら、それでも逃げずにサメハダーに対峙し続けた。
その瞬間、私は、つい先程思い浮かんだひとつの仮定が、確信に変わってゆくのを感じた。
ヨマワルは、サメハダーが怖いのだと思っていた。そんな相手とバトルをしたくないから泣いているのだと思っていた。
でも、それは違った。ヨマワルは決してバトルから逃げたくて泣いていたわけではなかったのだ。本当は戦わないといけないと思いながら、でもどうしてもその勇気が出せないことを嘆いていたのだ。
今も、決して相手が怖くないわけではない。本当は逃げ出したいと思っているに違いない。
それでもヨマワルが逃げないのは、きっと私のためだ。今自分が逃げたら、誰も私を守ることが出来ないから。怖いのは嫌だけど、大切な人が傷付くのはそれ以上に嫌だから。
ヨマワルの泣き声がひときわ大きくなった瞬間、私は思わず叫んだ。
「ヨマワル!」
あなたは、ひとりで戦うわけじゃない。
私はあなたのトレーナーだから。あなたが感じる恐怖を、半分私に背負わせてほしい。
私は砂を蹴ってヨマワルの隣に並ぶ。今まであなたの気持ちをなにひとつわかってなくてごめんなさい。これは、私の謝罪と決意。
これから一緒に強くなっていこう。いろんなものを半分こにして、笑ったり泣いたりしよう。
私の気持ちに呼応するように、ヨマワルの泣き声がすっと落ち着いた。
私は迫る牙を見上げながら思った。きっとこの子は強くなる。誰だって、自分の弱さと向き合ことが一番つらい。それができるヨマワルが、強くなれないわけがない。
「影打ち!」
私の声を聞いた彼は、赤い瞳を怪しく明滅させると、目にもとまらぬ速さで自身の影を伸ばして正面からサメハダーを攻撃した。それによって速度が落ちたサメハダーに、追いついたゴーストの恩返しが決まった。
ダメージの蓄積もあったようで、サメハダーはその一撃で戦意を喪失してしまったらしい。派手な水飛沫をあげて海に戻ると、そのまま振り返ることもなく沖の方へと泳いでいってしまった。
サメハダーのいなくなった海に、波の音が戻ってくる。
沖の方をぼんやりと眺めていたヨマワルは、ふと自分が動けることを思い出したかのようにゆっくりと私の方を振り返り、それから勢いよく私の胸に飛び込んできた。
私は両手をいっぱいに広げて彼を迎え入れると、何度も彼の名前を呼びながらぎゅうぎゅうと抱きしめた。ヨマワルも乾いた声で嬉しそうに鳴きながら、私の背中に腕を回す。
「ヨマワル、ありがとう!」
私を守ってくれて。それから、私を信じて恐怖心の半分を預けてくれて。
そんな私たちのことを、少し離れた所から見守ってくれていたゴースト。
私はもちろん彼にもお礼を述べる。すると彼は、私の傍にすいっと寄ってくると、その両手を大きく広げてみせた。自分もお前を助けたのだからヨマワルよろしく労えと言うように、やや尊大な表情で私のことを見つめるゴースト。
いつもなら、このくらい当然だと言うようにクールに鳴いてみせるだけなのに……なんだか、今日のゴーストはヨマワルみたいだ。そう思った私がくすりと笑うと、それを察したのかゴーストがじとりと私のことを睨み付ける。
「ごめんごめん、なんでもない」
ヨマワルみたいに甘えてくれてうれしいなあとか可愛いなあとか、そんなこと全然思ってないよ。
私はヨマワルに「ちょっとごめんね」と言って彼を離すと、ゴーストに向き直った。ガスで出来た彼の輪郭を壊してしまわないようにそっと抱きしめると、すぐ耳元で低く長い鳴き声がした。例えるなら、リラックスしたニャルマーが喉をごろごろと鳴らすような、そんな声。
私は、ゴーストってこんな声も出すんだなあと思いながら、海を見つめる。今まで故郷で毎日のように見てきたはずの海だけど、今日はなんだか、あの頃よりも少しだけ遠くまで見渡せているような気がした。
……海が遠くまで見渡せているのは、残念ながら私の気のせいだろうけれど。
でも、私の世界は、ゴーストたちと出会って確かに広がっている。みんなと一緒なら、いつかきっと本当にこの海の向こうにだって行けるに違いない。
私はその時を頭の片隅に思い描きながら、ゴーストのひんやりしたガスの体をしばらく抱きしめていた。
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