受付のお姉さんの進言に従って、脇の小部屋で防水加工がされているというツナギと長靴に着替えてから、私はゲートを大きく一歩踏み出した。

開けた視界の先には、鬱蒼とした広葉樹の森と広大な沼地が広がっていた。
沼の泥は照り輝くような黒をしていて、地質に詳しくない私でもそこに栄養がたっぷり含まれていることが手に取るようにわかった。泥の栄養をたっぷり吸収しているようで、沼のあちこちには青々とした草が茂っている。

ふと、その茂みが揺れて、そこからビーダルが顔を出した。
愛嬌のある顔に胸が躍ると同時に、私は腰のホルダーからボールを抜き出そうとして、――そういえばボールは全て受付で預けてきていたことを思い出した。
いけない。今は私、ひとりきりだった。ホルダーの位置に伸ばしかけていた右手を慌ててそのやや後ろ――サファリゲーム用のエサが入った支給のポーチに伸ばしたのだが。ビーダルは私の動きが隙だらけなのを見て、意外にも素早い動きで茂みに戻って行ってしまった。

私ががっくりと肩を落とした、その時だった。

立ち止まっていた私の背中に、どん、という大きな衝撃が走った。
もしかして、ポケモンに襲われている? そう思った私はよろける足を何とか踏ん張って、慌てて後ろを振り返る。

「なんだってんだよー!!」

視線の先にいたのは、鮮やかな金の髪をした男の子だった。どうやら彼は、ゲートから勢いよく飛び出してきたところで、立ち止まっていた私にぶつかってしまったらしい。「そんなとこで立ち止まってるなよなー!!」と言いながら、彼はむっとした表情を作った。
私は慌てて謝ろうとしたのだが、私が何か言うよりも先に、彼は私のことを許してくれた。事も無げに「ま、いーけどさ」と言ったかと思うと、すぐに地面を蹴って駆けてゆく。

「次またぼーっとしててオレにぶつかったら、罰金100万円な!」

去り際にそんな懐かしい響きの言葉と、白い歯の眩しい太陽のような笑顔を残して、彼はあっという間に大湿原の奥へ消えていった。

彼にぶつかられた瞬間に体中を駆け巡った衝撃と、明るく歯切れのよい声のおかげだろうか、ビーダルに逃げられてしょげていた気持ちが、気付けば元気を取り戻していることに気付く。

「……ありがとう」

私はもう見えない金色の後姿にそう呟いてから、決意新たにサファリゾーンの奥へと一歩を踏み出した。




大湿原では、見たことのないポケモンたちはもちろん、見知ったポケモンたちの意外な姿も見ることが出来た。

沼を器用に泳いでいくビーダルは、陸で見るときと違ってとても優雅に見えた。足を取られながら沼地を歩く私では、とてもじゃないが追いつけなくて。やっぱり水タイプのポケモンは泳いでいる時が一番かっこいいなあと、改めて思った。
沼地に生える草に成りすましていたモンジャラは、私が近くに寄ってもまったく微動だにしなくて感心した。でも支給のエサを投げるとすぐにそれに飛びついて、それからはっと思い出したように動きを止めるので、私はそのチャーミングさに思わず声を立てて笑ってしまった。
細い枝の先に器用に止まっていたヤンヤンマは、私に気付くとさっと飛び上がって森の中に消えていったのだけれど、目にもとまらぬ速さで動く透明な翅が太陽の光を透過して沼地に落とした一瞬の陰影がとても美しくて、私は彼の去った方向を名残惜しく見つめながらしばらく立ち尽くしていた。

私は、大湿原の自然とポケモンに夢中になるあまり、サファリボールを配られていたことをさっぱり忘れたまま時を過ごし、閉園30分前のアナウンスが流れてはじめてそう言えばまだポケモンを1体もゲットしていなかったことに気付いた。

だんだんとオレンジ色を帯び始めた太陽光に急かされるように辺りを見渡す。そんな私の気持ちを察したかのように、1体のポケモンが泥の中から現れた。
てろりとした青い体。泥の中でも前が見えるように特殊な膜で覆われている黄色の目。それから、オレンジ色の可愛らしい頬。

グレッグルだ! と思わず声をあげそうになった私は、慌てて口を閉ざす。大きな声を出して驚かせては、あっという間に逃げられてしまうだけだ。
私は努めて冷静なそぶりで支給のポーチからエサを取り出し、私とグレッグルの真ん中辺りにそっと放る。グレッグルはいまいち感情の読み取れない瞳で私と、それからエサを交互に二回ずつ見てから、泥を掻き分けてこちらに(正確にはエサに)近付いてきた。

もくもくとエサを頬張るグレッグルに、思わず笑みがこぼれる。私はもうひとつエサを取り出しながら、さて彼になんと声をかけて仲間になってもらおうかと思案していたのだが。

「グレッグルだ!!!」

という大きな声が、夕暮れの大湿原に響き渡った。
突然の出来事に面食らって私が持っていたエサを取り落とした刹那、グレッグルはぱっと顔を上げて声のした方に視線をやる。私もグレッグルにならって顔を右に向け、そこに見覚えのある金髪の少年を見付けた。

少年はグレッグルに夢中で、私には気付いていないらしい。緊張感を孕んだ笑みを浮かべて、グレッグルと睨み合っている。グレッグルは相手のことを値踏みするように見つめながら、頬の毒袋をゆっくりと三度膨らませた。ごぼごぼというどこか不気味な低い音が、湿原に吸い込まれるように消えてゆく。

先に動いたのは、少年だった。彼は唐突に沼地に右手を差しこむと、黒く輝く泥を掬いあげ、それをなんとグレッグルめがけて投げたのだった。
グレッグルは軽い身のこなしでそれを避けた。そして、黄色の眼差しで少年を一瞥した後、ぱっと踵を返して草むらの向こうに行方をくらまそうとジャンプをした。

「あ、こら待て!」

少年は逃げるグレッグルになおも泥を投げつけようとする。それを見た私は、「ちょっと!」と声を荒げて、泥の塊を持つ少年の右手を掴まえた。

「だ、だめです、ポケモンに泥を投げるなんて」

ポケモンが可哀想だし、それにもしも相手を怒らせてしまったら、ポケモンを持たない人間では勝ち目はない。それは、とても危険なことだ。

声をかけられて初めて私の存在に気付いたらしい少年は、やや緩慢な動作で私の方を見て、それから「はぁ?」と素っ頓狂な声をあげた。

「サファリゲームでポケモンに泥を投げるなんて常識だろ? 泥投げなかったら、バトルできないのにどうやってポケモン捕まえるんだよ」

聞けば、サファリゾーンではポケモンバトルが禁止されている代わりに、沼地の泥をうまく使ってポケモンの集中力を削ぐことでゲットの可能性を上げる方法が定石なのだという。

「せっかくグレッグル見つけたんだから、邪魔するなよなー」

……どうやら、私の無知のせいで彼のことを邪魔してしまったらしい。ポケモンに向かって泥を投げるという行為に心から納得したわけではなかったが、単純に非礼は詫びなければならないと思った。私は慌てて謝ろうと口を開きかけたのだが、私の謝罪はまたも「ま、いーけどさ」という彼の言葉に遮られた。
彼は矢継ぎ早に続けた、「サファリゾーンのお手本っての? 見せてやるよ! よーく見てろよな!」

グレッグルは、なぜか私と彼のやり取りが終わるのを茂みの前で待ってくれていたらしい。ごぼごぼと毒袋を膨らませながら、不敵な眼差しで少年を見上げる。
私の手から離れて自由になった右手で、彼は泥を投げた。しかし、グレッグルはまたも見事な跳躍でそれを躱す。そして柔らかい泥をはね上げて器用に着地した。

「くっそー!」と悔しそうな声をあげる彼と、事の成り行きを見守る私を交互に一度ずつ見やってから、彼は「俺を捕まえるにはまだまだだな」と言うかのように低い声で鳴いて、そのまま茂みへと姿を消した。


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