少年は、せっかく見つけたグレッグルに逃げられたことが悔しいのか、それとも一縷の望みにかけているのか、もう見えないポケモンめがけて目算でいくつもの泥を投げ続けていた。……どうやら、余程グレッグルを捕まえたかったらしい。
私が、そんな彼を邪魔してしまったことを改めて謝ろうとした、その時だった。

少年が泥玉を放っていた茂みの向こうから、ポケモンのものと思われる悲鳴が聞こえてきた。
なんだか湿ったような音質の、甲高い独特の声。あんな声で鳴くポケモンに覚えはなかったが、その声の裂くような激しいトーンには聞き覚えがあった。今までの冒険で幾度となく聞いてきた、野生のポケモンが怒ったときのそれに、その声は酷似していたのだ。

私は悟った。彼の投げた泥が、不幸にも茂みの向こうにいたポケモンに当たってしまったのだと。そして、当たり所が悪かったのかそのポケモンは大いに腹を立てており、もうすぐ茂みから飛び出して来るだろうことも手に取るようにわかった。
金髪の少年も、同じことを感じ取ったらしい。彼の口から「やべ」という短い焦りの言葉が漏れる。

次の瞬間、茂みの向こうから現れたのは、大きなマスキッパだった。
私たちのことを威嚇するように大きく開いた口と、一度相手を掴まえたら絶対に離さないであろう大きな手。ポケモンがいれば、バトルで難を逃れることもできるだろうけれど……今は、そうはいかない。私は湧きあがってきた恐怖を押し込めるように、強く短く息を吸い込む。

「逃げろ!!」

少年の声に弾かれるように、私は駆け出した。
マスキッパは、空を滑るようにして素早く距離を詰めてくる。一方の私は、沼地に足を取られて走ることもままならない。しかし、他にどうにかできる手段もなくて。
すぐ後ろにマスキッパの気配を感じる。このままでは、まずい。

背中をひやりとした汗が伝った瞬間。
「こっちだ!」という歯切れのよい声と泥の塊が、私の先を走っていた少年の方から飛んできた。

泥玉は私を通り越して、マスキッパの顔に正面から命中した。
マスキッパが、先程と同じ怒りに満ちた声をあげる。それから彼は泥の飛んできた方へ視線を向け、狙いを定めるように少年を睨みつけた。私のことは、もう眼中にないらしい。マスキッパは私の頭上を素通りして、そのまま少年めがけて飛びかかっていった。
少年は器用に泥を投げて応戦しながらなおも逃げ続けるが、地の利はやはり大湿原に暮らすポケモンにあるようで、じりじりと距離が縮んでゆく。

私は、少年が私を助けるためにその身を危険にさらしてくれていることに、少し遅れて気が付いた。
私の脳裏に、展望台から私のことを見守ってくれているであろうゴーストの姿がよみがえる。私の無事を祈って待ってくれているゴーストのように、彼にも彼の帰りを待っているポケモンがいるはずだ。私は、私自身を守らないといけないのと同じだけ、この少年のことも守らないといけないと強く思った。

私は意を決して右手を沼に差し入れる。彼がやっていたように泥を掬うと、泥は粘度が高いのか、思ったよりも簡単に球状にまとまった。
モンスターボールを投げるときのように、右肩を引いて構える。そして、軌道をイメージしてから(うまく当たりますように)、泥玉を勢いよく投擲した。

夕日を受けてあかがね色に輝く泥玉は、私の目論見通り真っ直ぐに飛んだ。
そして、目標であった走る少年の首根っこのあたりに、勢いよく命中した。

首に重たい泥の塊がぶつかったことで、少年はバランスを崩し、転んだ。
沼地に勢いよく倒れ込んだことで、マスキッパの目の前から突然少年が消える。怒りで視野が狭くなっていたマスキッパは、少年が消えたことに戸惑うように鋭く鳴いてから、辺りを見回し、近くの茂みへ姿を消した。どうやら、少年が突然目の前からいなくなったのは茂みの向こうに隠れたからだと思ったらしい。マスキッパは鋭い声で鳴きながら、少年を探して茂みの奥へと去っていった。

大湿原に、静寂が戻ってくる。
私は、顔面から沼へ綺麗にダイブさせてしまった少年を助け起こすべく、慌てて彼のもとへ駆け寄ろうとしたのだが、焦りのせいで足が絡まり、結果私も彼の様に沼地に突っ伏すことになってしまった。静かな沼地に、私が沼に突っ込んだ間抜けな音が鈍く響く。

泥から目を守るため、目を固く閉じたまま手探りで起き上がろうとする。空をかいた私の右手を、誰かの手が力強く握り、助け起こしてくれた。
考えるまでもない。あの少年だ。私はそう確信しながら、空いていた左手で顔の泥を拭って目を開ける。目の前の彼は、案の定顔も体も泥だらけになっていた。私は、彼に泥をぶつけて転ばせてしまったことを謝ろうと口を開きかけたのだが、やっぱり私の謝罪は彼に届くことはなかった。

「だから、いーんだって」

まるで照れ隠しの様に早口でそう言うと、彼は助け起こすために握っていた私の手を、今度は握手の形に握り直した。

「お前、どんくさい奴だと思ってたけど、……ていうかまあ、実際ちょっとどんくさいけど、でも、結構やるな! オレ、ジュン。お前は?」
「ナギサシティのナマエ」
「そっか。ナマエ、助かったぜ!」
「ううん。私こそ、助けてくれてありがとう!」

握手をしながらそう礼を述べ合うと、どちらからともなく笑いが漏れた。
……それもそのはずだ。だって私たちは、揃いも揃ってひどい格好をしているのだから。

「にしてもナマエ、ひでー顔!」
「ジュンくんだって、すごい格好だよ」

頭のてっぺんから長靴の中までもれなく泥だらけなことを指摘し合うと、また改めて笑いがこみ上げてきて、ふたりで声を揃えて馬鹿みたいに笑った。
そんな私とジュンくんを、夕日が鮮やかに染め上げる。もしも泥だらけじゃなかったら、ジュンくんの金の髪は宝石のように輝くんだろうなあ。私がそんなことを考えたのは、刹那。彼は私の手を引いて、ほとんど走るように歩き出す。

「今日のサファリは終わりだな。早く帰ろーぜ! クイック号でゲートまで一直線!」
「クイック号?」

相も変わらず無知な私が疑問符を飛ばすと、彼はクイック号が大湿原の真ん中を走る列車であることと、それがオレンジ色でとてもカッコいいのだということを、早口で教えてくれた。

「なぁ、駅まで競走しようぜ! 負けたら罰金100万円な!」

そう言うが早いか、彼は私の手を離して駆け出す。

「あ、ずるい」

慌てて彼を追いかけたが、もちろん追いつけるはずもなく、あっさり競走に負けてしまった。
先に駅で待っていた彼は、罰金のことなんてもう忘れてしまっているみたいで、そのことは全く口にしなかった。代わりに、列車が来るであろう方向をしきりに気にして、「まだかなー」と大きな期待を滲ませている。

彼と他愛のない会話をしていると、大湿原に設置されているスピーカーから、今日のサファリゲームは終わったことと、もうじき最終のクイック号が各駅に到着する旨のアナウンスが流れてきた。
それからほとんど間を置かずに、ディーゼルエンジンの低い唸り声と車輪が枕木をたたく軽快な音が向こうの方から聞こえてくる。

夕日を背負って現れたクイック号は、ジュンくんの言う通りとてもカッコよかった。
乗り込んだクイック号の窓の向こうでは、夕焼けに照らされた大湿原が後ろへ後ろへ飛び去ってゆく。その様子を眺めていると、あっという間にゲートに戻ってきた。

ジュンくんはひらりと列車から飛び降りると、「じゃあな、ナマエ!」と言うが早いか駆け出して、男性用の更衣室へ消えていった。私は間に合わなかった「じゃあね」を少し遅れて口にしてから、慣れない沼歩きで疲れた足をなるべく速く動かして更衣室へ向かった。

ゴーストたちが待ってる。私も、ジュンくんを見習って、早く彼らのもとへ行かなくちゃ。


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