さて、私は微かに潮のかおりの混じる朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、決意を新たに大きく一歩を踏み出したのであったが。

「ナマエちゃん!」

ふと背後から聞こえてきた少し慌ただしい響きの声につられて、私の歩みは早くも止まってしまったのであった。
さっき私があれだけ気持ちを奮い立たせて歩き出したのを知っているゴーストが、からかうような視線をこちらに投げかけてくる。「もう立ち止まらないんじゃなかったのか?」という含みのある眼差しに、私は「それとこれとは別」と軽い口調で答えて、声の主の方を振り返った。

視線の先にいたのは、すらりと長い手を振りながらこちらに小走りで近付いてくる女性だった。朝の陽ざしを浴びてきらきらと輝く金の髪と、駆けるリズムに合わせてその胸元で揺れる、澄んだ宝石のような飾り。
彼女は確か、ハクタイのポケモン像で出会った、「シロナさん!」

シロナさんはホテルグランドレイクの石畳をヒールで高らかに鳴らして立ち止まると、私の呼びかけに応えるように手を上げる。
それから、「やっぱりナマエちゃんだった。後ろ姿を見てもしかしてと思ったのよ」と言いながら、涼し気な印象の眼元をきゅっと細めて笑った。

ハクタイの丘の上で神話のポケモンについて語ってくれた時の知的な印象の笑みとはまた違う、どこか無邪気な感じのする笑顔だった。それにつられるように、私の顔にも笑みが広がる。

「久しぶりね。旅の調子はどう?」

少しだけ首を傾けてそう尋ねた彼女は、それからすぐに私の隣に浮かぶゴーストに――シロナさんと出会った頃はまだゴースだった彼が進化していることに気付き、くすりと笑ってこう言った、「どうやら、聞くまでもなく順調みたいね」

本当のことを言うと、そんなに順風満帆な旅路ではなかったのだけれど(つい昨日も、ギンガ団の男を追っていて、走り疲れた挙句に倒れてしまったわけだし)、私は多くの躓きや失敗を笑顔の奥に隠すことにした。
見栄を張るわけじゃない。きっと旅をしていたら、誰だって失敗や間違いの連続なのだと思う。くよくよしたり、或いはそれを誰かにひけらかしても、なにも生まれない。失敗はきちんと受け止めて、もう同じミスをしないと心に決めればそれで充分なはずだ。

シロナさんの言葉に私が笑顔で頷くと、彼女は「相変わらず、いい瞳ね」と呟くように口にして、遠くを見つめるように少しだけ目を細めた。
今、シロナさんが私の瞳越しに何を見ているのか、尋ねてみたい気もしたが、なんとなくはばかられて。代わりに「シロナさんも、神話の研究は順調ですか?」という当たり障りのない質問を投げかける。

「あたし? あたしはそうね、まずまずってところかしら。今日は、湖の言い伝えを調べに来たのよ」

そう言って、彼女はその視線をホテルグランドレイクの向こう――リッシ湖のほとりに広がる広大な森の方へ転じた。

「言い伝えのこと、知ってる? シンオウにみっつある湖の真ん中には島があって、それぞれに幻のポケモンがいるんだって。ただ、そこは人の入っちゃいけない場所だから、誰もそのポケモンを見たことがないの。でも、そのポケモンがいないってことを証明できた人もいない……」

そこで彼女は口を噤んで、切れ長の瞳をそっと閉じる。
その瞼の裏で彼女は、私では想像もできないような神話の世界を見ているのだろう。
私も、シロナさんを真似て、そっと目を閉じてみる。湖、と聞いて私がいちばんに思い出すのは、やっぱりシンジ湖で出会ったあの男のことだ。彼と出会った湖にいるという、幻のポケモン。もしかして、私と彼の出会いを湖から見ていたりしたのだろうか?

「……会ってみたいな」

会って、尋ねてみたい。
あなたは、あの人を見てどう思った? きっと湖にはこれまでたくさんの人が訪れたことだろう。あの人は、そんな中の代わり映えのないひとりなのだろうか? それとも、私が惹かれたように、あなたもまた何か言いようのない感情を覚えたりした?

「……ナマエちゃん、神話に興味があるのよね」

シロナさんに呼ばれて、私はふっと我に返った。瞼の裏のシンジ湖が消えて、代わりに私を興味深そうに見つめる切れ長の瞳と目が合う。

「もしよかったらなんだけど、カンナギタウンに行ってみない?
……というのも、ちょっとナマエちゃんにお願いしたいことがあって」

そう言って、シロナさんは私に右手を差し出した。見れば、そこには丁寧な細工の施された独特の形をした飾り石があった。少し黄みがかった乳白色の石が、よく映える若紫色の編み紐で飾り付けられている。なんだか不思議な存在感のあるそれを促されるままに受け取ると(余談だが、思ったより軽かった)、彼女はこう続けた。

「このお守りを、カンナギにいるおばあちゃんに届けて欲しいの」

聞けば、このお守りはシロナさんが研究のためにおばあさんから借りた古代のお守りらしい。今度のお祭りでお守りが必要だからそろそろ返すように言われたのだけれど、シロナさんは湖の調査でどうしても手が離せないのだそうだ。

「カンナギには神話に関係があるって言われてる壁画があるの。おばあちゃん、その辺りに詳しいから、いろいろ聞かせてくれると思うけど……どうかしら?」

返事は決まっていた。以前、神話のことを教えてくれて、その上秘伝マシンをくれたときのことはよく覚えている。その恩には全然足りないかもしれないけれど、少しでもお返しになるならと私はすぐに大きく頷いた。

「私でよければ、よろこんで引き受けます! 神話について聞くのも、楽しみです」

シロナさんは「ありがとう! そう言ってくれると思ったわ」と言って微笑むと、それから思い出したように「そうだ、あとこれも持って行って」と懐から芥子色の巾着袋を取り出した。

「210番道路のコダックの群れ、見た?」

私が頷くと、彼女はこれがコダックの頭痛を治める秘伝の薬であることを教えてくれた。確か喫茶店であのコダックたちについて教えてくれた紳士は、薬でも治すことができないから見守ることしかできないと言っていた記憶がある。そのことをシロナさんに尋ねると、彼女は事も無げにこう言った。

「これは、カンナギに伝わる秘伝の薬なの。市販の薬は効かないみたいだけど、これは効くから大丈夫」

お店で買う薬よりも効果があるなんて本当だろうか、と思ったが、でもよく考えてみるとそれは正しいのかもしれない。お店の薬は、どんなポケモンにも効くように作られている、良くも悪くも汎用性のあるものだ。だから、市販の薬は効かなくて、コダックのためだけに作られたこの薬が効くのは当然のことのように思われた。
神話の壁画や、コダックのための秘伝の薬をずっと守ってきたカンナギタウン。どんなところなんだろう。なんだか、私がまだ知らない神話の真実と出会えるような気がして、そしてそれがあの水色の髪の男に繋がっているような気がして、胸の奥が静かにざわめく。

「喫茶店の脇を抜けて、210番道路を北西に進んでいくとカンナギタウンだから」

私は古代のお守りをハンカチにそっと包んで、鞄にしまう。それから、シロナさんにカンナギに行くきっかけと秘伝の薬をもらったお礼を述べて、出発した。
シロナさんは「ありがとう。よろしくね」と微笑んで、それから私が見えなくなるまで手を振ってくれていた。


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