クロガネゲートの内部には申し訳程度の電灯がぽつりぽつりと灯ってはいたが、それでもかなり薄暗く、心細い。鞄から小型の懐中電灯を取り出して足元を照らしてみたが、視界は思ったよりも開けなかった。
私は心細さを紛らわせようと知っている曲を片っ端からやや大きな声で口ずさみながら、電灯の下がる壁沿いにゆっくりと先へ進んでいくことにした。テレビで流れるヒットソングから小学校の音楽の時間に習った童謡まで、なるべく明るい旋律のものを選んで歌うと、少しは気が紛れた。
ムックルの巣の上で、という曲を口ずさみながら進んでいると、不意に、暗闇の奥から物音が聞こえた。
私は思わずびくり、と両肩を震わせて動きを止める。私の口から流れ出ていた旋律も、クロガネゲートの岩壁に吸い込まれるように消えていった。急に静かになった洞窟内に、謎の物音は響き続けた。生き物の呻き声のようにも聞こえるその生々しい音に、私の顔面がこわばるのがわかる。
僅かな明かりを頼りに目を凝らすも、見えるのはただ暗闇ばかり。しかし私は物音の聞こえてくるその闇から視線を逸らすことが出来ない。相手から視線を逸らした瞬間にがぶりとやられてしまうのが、ナギサで見ていた映画やテレビドラマのお決まりだったからかも知れない。私は目を見張ったまま、ベルトのモンスターボールにゆっくりと手を伸ばす。掴む。そしてそれを、物音のする方に放ろうとした。
その瞬間だった。
「おい、待ってくれ」
確かにそう聞こえた。
やや慌てたような調子で、今まで呻いていた声が、人間の言葉を喋った。
まだ情報量は少ないが、それでも相手が人間だと分かった瞬間に、安心から肩の力が抜けた。固まっていた両腕が緊張から解放されてぶらりと垂れ下がり、左の太腿に何か固いものが当たる。懐中電灯だった。私は恐怖のあまり、懐中電灯を手にしていた事を忘れてしまっていたらしい。
慌てて左手を持ち上げて、前方を照らし出す。脆弱な明かりが照らし出した先にいたのは、ポケットのたくさんついたカーキ色のダウンベストを着ている恰幅のいい男性だった。歳の頃は四十代手前といったところだろうか。作業員風のその男は、私の懐中電灯の明かりの先で、髭の伸びた顔で屈託なく笑っていた。
「びっくりさせないでくれよ」と言って愉快そうに笑う彼の口から零れてくる低い笑い声は、私がついさっきまで恐れおののいていたあの呻き声そのもので。
びっくりさせないでくれ、と言った彼に、私は「ごめんなさい!」と短く謝罪した。ゴースを繰り出そうとしたことに加えて、その笑い声をなにか恐ろしいものだと勘違いしてしまったことが、ひどく申し訳なかった。
しかし私の短慮な間違いなど知る由もない彼は、また喉の奥から低い笑いを絞り出した。
私は彼の容姿を観察しながらゆっくりと近付いてゆく。カーキ色のダウンベストは長年使っているのか土埃で汚れてはいるが、丈夫なものなのだろう、まだしっかりとその機能を果たしている。腰には大きめのウエストポーチが巻かれ、その中には何が入っているのかはわからないがとにかく物がたくさん詰まっているであろうことが、その張り具合からうかがえた。右手にドライバーのような工具を握り、その足元にはプラスチック製のケースが置かれていた。きっと他にも工具が収められているのだろう。なんとなく彼の職業を把握した私は、彼の頭上に壊れた電灯を見つけて、その正解を確信した。
「お仕事中ですか?」
私の問いに、彼は豪快に頷いた。そうさ、と言って、頭上にある無残な姿の電灯を示す。
「ズバットの超音波だ」
彼の仕事は、クロガネゲート内部の壊れた電球の修理らしい。
トンネル内の電灯は、野生のポケモンに与える影響を最小限にするために設置数と明るさを大きく制限されてはいるが、それでも野生のポケモンによって電球が破壊されることはなくならないようで。今日は週に一度の点検日なのだと彼は笑った。
ズバットに破壊された電灯は、超音波によって電球だけでなくソケット部分から破壊されて、電線が剥き出しになってしまっていた。一つの電灯の修理に時間がかかるため、点検日は毎回、夜を徹しての作業になる。
「まったく、かわいい奴らだよ」
嫌味な所のない笑顔でそう言った彼は、頭上の電灯を見上げる。黒に近い灰色のヘルメットから、どこか愛嬌のある瞳が覗いていた。低く嗄れた声と無精髭の伸びたしっかりとした顎の輪郭は、彼のどこか少年のような輝きを宿す瞳をより浮き立たせている。しかし、工具を握る手だけは、懐中電灯の光を浴びてまるで老人のような深い陰影を浮かび上がらせており、それは私をとても不思議な気持ちにさせた。
ふと、彼は思い出したように私に視線を向ける。
「そういえば、お前さん、さっき歌を歌ってなかったか?」
「え? はい、」
私はそう言って、先程のメロディーを諳んじる。
昔観た映画のテーマ音楽で、ストーリーはよく覚えていないけれど、オープニングの湖畔の映像とこの緩やかな旋律が深く印象に残っていた。
私の鼻歌を聞いた彼は、非常に愉快そうにその目を細めた。そして、あの獣のような声でくつくつと笑う。
「いい趣味してるなァ」
私は彼のその言葉の意味を正しく理解することはできなかったが、彼が私は忘れてしまった映画のことをよく知っているのであろうことは、容易にわかった。
私が微笑んで「ありがとうございます」と返すと、彼はぐはは、と大きな口を開けてリングマのように笑った。
「いいもん聞かせてもらったわ。こりゃ礼をせんとな」
そう言って彼は、ぱんぱんに膨れたウエストポーチから薄い板状の何かを取り出す。見覚えのあるあの形状は、技マシンではないだろうか。私がそう尋ねると、彼の瞳の奥が悪戯っぽく光った。
「岩砕きの秘伝マシンだよ」
言いながら、彼は私にそれを差し出した。
ほんの少し、彼のリクエストに応えて歌をうたっただけで秘伝マシンをもらうなんて、と私はその申し出を断ろうとしたのだが、彼は私が口を開く前にそれを私の手に握らせてしまった。
「これはな、俺がまだ駆け出しのトレーナーだった頃にこのトンネルの整備をしていた男に貰ったのさ。その男も、若い頃にこのトンネルでこれを譲り受けたと言っていた……お前さん、」
そこで言葉を切った彼は、今までの愛嬌のある笑顔とは少し違う、安心したような穏やかな笑みを浮かべて続けた、
「まあ、しっかりやってくれや」
或いは、肩の荷が下りたような笑み、と言ったらこれは私の邪推だろうか。
何代にも渡ってこれを引き渡し続けてきた彼らの気持ちを想像しようとしたが、未熟な私ではうまく推し量ることが出来なかった。
代わりに、ただ深く「はい」と頷くと、彼は満足そうに笑って、ヘルメットを深く被り直した。
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