カフェやまごやのアンナさんに何度もお礼を言ってから(暖かい宿を借りた上に、朝ごはんもごちそうになってしまった。モーモーミルクから作ったチーズをパンに乗せて少し温めると、チーズがとろけて最高の朝ごはんになった)、私は朝早くカフェを出発した。

コダックの姿がなくなった小道を抜けて、210番道路を北へと進んでいく。
しばらく歩くと、ズイタウンから群生していた背の高い草むらがだんだん見えなくなり、広葉樹の森が途切れ、次第に肌を刺すような寒さがあたりに立ち込めてきた。
私は空を振り仰ぎ、日が徐々に高くなってきていることを確認する。なのにどうして寒さが強くなっているんだろう……?

私のそんな問いは、道をもう少し北に行ったところで簡単に解決した。

「……霧だ」

テンガン山から210番道路に張り出すようにそびえている山々。その切れ間から、冷たい霧が漏れ出してきていた。
私はタウンマップを広げて地形を確認する。見れば、もう少し北へ進んだところで道は西へと進路をとり、この山々の間にできた谷底を歩く道へ変わるらしい。
その谷底へは、テンガン山の北側、万年雪の積もるキッサキ峰の方角から川が流入してきているようだ。この流れが210番道路の空気を冷やし、霧を発生させているのだろう。そして風の吹かない谷底の道に、冷たい霧がいつまでもわだかまる……。

私は鞄からレインコートを取り出すと、それを簡単に羽織った。ゴーストは雨でもないのにレインコートを着た私を不思議そうに見つめていたけれど、霧が深まり道が西に折れる頃には私の意図をすっかり理解してくれていた。
霧というのは、言ってしまえば小さな小さな水滴だ。霧の中を歩くのは、雨の中を歩くのと変わりない。私のレインコートにはたちまち大きな水滴が付き、それが流れを作って垂れていく。

ナギサの街も、よく霧が出たなあ。私は谷底の道を歩きながら故郷の朝を思い出す。
春や秋の頃、暖かかった昨日が嘘のようにぐっと冷え込んだ朝には、海沿いの道に濃い朝霧がかかる。霧の朝は、なんだかいつもと違う特別な出来事が起こりそうな気がして、ルクシオと朝の散歩に出かけたっけ。
もちろん特別なことなんか何もなくて、ふたりでびしょ濡れになって帰ってくるだけだったけど、でも、それがとても楽しかった。

胸にふつりと湧きあがった気持ちのまま、ゆっくりと息を吸い込む。潮のかおりのしない澄んだ霧が、私の肺をそっと満たす。

そんな私の視線の先で、ゴーストがこちらを向いたまま霧の中を進んだり戻ったりを繰り返していた。おそらく彼は、霧が初めてなのだろう。どうやら、濃い霧の中で行きつ戻りつしながら、私が見えるようになったり見えなくなったりするのを楽しんでいるようだ。
そのことに気付いた私は、ちょっとしたいたずらを思いつく。彼が霧の向こうに姿を消したタイミングで、私はわざと数歩後ずさってみた。すると、数秒後、さっきまで私がいた位置からゴーストのびっくりしたような声が聞こえてきた。いると思ったところに私がいなくて驚いた?
私が思わずくすくすと笑い声をあげると、彼はすぐにその声を聞きつけて私のもとへ現れた。霧のカーテンをさっと裂いて勢いよく現れた彼は、抗議するような鋭い声で鳴いて私を責めた。急にいなくなるからびっくりしたじゃないか。そう言われているような気がした。

「ごめんね。これ、私がナギサにいた頃、よくやってた遊びなの。声でお互いを探す遊び。
霧が出てて、懐かしい気持ちになって……それで、ゴーストにいたずらしちゃった。ほんとにごめんなさい」

私が謝ると、彼は私の方になにやら品定めをするような視線を向ける。それから、少しの間を開けて繰り返し鳴きながら、私の足元を何周かふわりと飛んだ。まるで誰かと会話をしているかのような間合いで鳴くものだから、私は足元に野生のポケモンでもいるのかと辺りを見回す(余談だが、ここに来るまでの霧の中には、アサナンやビーダル、それにチルットがいた。霧で湿った足元は悪く、彼らの体はすぐに泥などの汚れが付く。チルットはそれをせっせと羽でふき取り、汚れた羽はキッサキから流れてくる冷たく澄んだ水で清めているようだった。霧で見つけにくいが、確かにここにもポケモンたちはしっかりと息づいていた)。
――しかし、誰もいない。

はて、と首を傾げた私がその疑問を口にしようとした矢先に、ゴーストがすうっと飛び上がって霧の向こうに姿を消してしまったため、私のこの疑問はこのまま霧の中に置いて行くことになった。
もしかして、彼の機嫌を損ねてしまった? 私は慌ててゴーストを追いかけようとしたのだが、出しかけた足は彼の声によって止まる。霧の向こうから聞こえてきた彼の声は、いつもと同じ飄々とした調子だった。まるで「こっちだよ」と言っているかのような声色。

なるほど。そういうことか。どうやら彼は、私がさっき口にした『遊び』に興じる気になったらしい。
自分の位置を知らせるように鳴きながら、しかしすぐには見付かってしまわないように移動しているのだろう。彼の声が、少しずつカンナギの方へと動いてゆく。

私はお互いを見失ってしまわないように「ゴースト? どこー?」と口にして自分の位置を知らせながら、しばらく彼と霧中で追いかけっこを楽しんだのだった。


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