それはまだ数度しか聞いたことのない、しかしどうやっても忘れることのできない声だった。
静かな、しかし素通りすることを許さないその声色に、私ははっと振り返る。
ロトムの投げかける明かりの向こうにいたのは、あの水色の髪をした男だった。
プレーンな印象の靴で土の地面の踏む乾いた音を響かせながら、彼はゆったりとした動作でこちらに歩み寄ってくる。その緩慢さが、かえって男の威圧感を際立たせた。
尋常でない雰囲気を感じてか、おばあさんが「誰だい……?」と口にする。その声と眼差しは警戒を隠さなかったが、男はさしてそれを気に留める様子もなく彼女の正面に立つと、おばあさんを見下ろしながら表情を変えることなく言った。
「私の名前はアカギ」
男の声が広い空間にこだまして、その語尾がゆっくりと消え残る。私はその冷たい響きに耳を傾けながら思った。この先、どんなことがあっても、私がこの名前を忘れることは決してないだろう。
男は続けた。
「私は下らない争いをなくし、理想の世界を創るための力を探している。
そこで聞きたい。今のこの世界は、3匹のポケモンによってバランスが保たれているため変わらない。そういうことだな」
落ちくぼんだ眼差しで、男はおばあさんのことを値踏みするように眺める。彼女もまた男の視線を正面から受け止めて、その真意を探るように見つめ返した。
沈黙は数秒。先に口を開いたのは、おばあさんの方だった。
「どうだかねえ……」
そう言いながら、彼女はその瞼をゆっくりと閉じた。それは男の真意を探ることをやめたためか、それとも逆に男に腹の内を探られるのを阻止するためなのか、私にはわからなかった。
ただ、彼女は瞑目したままこう続けた、「世界のバランスは鼎のごとく保たれておる。そしてあたしはこの世界に満足しておる」
おばあさんの背後で、カンナギの壁画が、そこに描かれた3匹のポケモンたちがきらりと輝く。おばあさんはすっと瞼を持ち上げると、ごく静かな眼差しで男を見つめ、そしてまるで壁画のポケモンたちの言葉を代弁するかのようにこう言った。
「あんたの質問に興味はないよ」
はっきりとした拒絶の言葉に、どういうわけだか私の胸の奥がちくりと痛んだ。長老である彼女の言葉は、カンナギの意思だ。そしてそれは、この世界を形作る神話の意思でもある。彼女に拒絶されるということは、この世界から爪弾きにされることと同義ではないか。そう思うと、胸を痛めずにはいられなかったのだ。
しかし、当の本人は眉ひとつ動かすことなくその言葉を受け止めた。あの人はこれくらいのこと、もう何度も経験してきたことなのかもしれない。だからもう、私と違ってこの程度のことでは傷付かないのかもしれない。ただ、その瞳の奥の暗い色だけは僅かに増したように見えて、それが私の心にまたひとつ暗い影を落とした。
「とぼけるつもりか。愚かな態度だ」
愚か、と言われたおばあさんは、それを鼻で笑ってやり過ごした。愚かなのはどちらだ、と言外に言っている。男はそれを受けてなお、語気を弱めなかった。
「この不完全な世界に疑問を持たないとは、愚かとしか言いようがない」
彼はその瞳の奥を暗く輝かせながら言い放った、「私は世界を変える」
拒むことを許さない強い語調だった。私は自分の気持ちを口にして、何度もこの声で拒絶をされてきたのを思い出す。それがまた、彼の口から紡がれる。
「その手始めに、お前たちが長年守ってきたこの壁画を壊す。ここには新しい世界の新しい神話を残せばいい」
「その壁画は古いからただ大事にしているわけではない。いくつもの思いが込められている。だから大事にしてきたんじゃ。そんなこともわからん奴が、どんな世界を望むというのかい」
「思い、などという曖昧なものでこの世界の正しさの根拠をあげたつもりか。その思いこそ争いの原因だろう。人の目を曇らせるものだ。現にお前は、私の言葉を全く理解できていない」
「争いがあるから、友和がある。悲しみがあるからこそ、喜びが一層際立つ。それが世界。それが生きるということじゃ」
「それは詭弁だ」
「お前さんこそ、世の清濁をわかっとらん」
あの人が争いのない世界を創りたいように、彼女はこの世界を守りたいのだ。誰しも、自分の理想を否定する者の言葉に耳を貸すことは難しい。
――かつて、デンジと電話越しに喧嘩をしてしまった日のことが頭の片隅に蘇る。自分の主張を認めてほしい、というだけでは充分ではない。私たちには立場や利害の違いを越えて、お互いが納得できる落としどころを見つけるための会話が必要なのだと思う。
と同時に、この男の暗い瞳を見ているうちに、ふとこんな考えが頭をよぎった。話し合えばわかり合える、というのもまた、私の独りよがりな考えに過ぎないのではないだろうか? この人は、そんな方法なんてとっくの昔に試して、そして見限ってしまっているのではないだろうか? だとすれば、私のこの主張はきっとあの人には届かない。私たちが分かり合うことは、決してない……。
「シンオウの世界に息づく思いを無下にすることはあってはならん。そうじゃろう、ナマエ」
名前を呼ばれて、私ははっと息をのむ。これまでずっとおばあさんの方に向いていた男の瞳がゆっくりと動いて、私を正面から見据えた。
はじめて聞いたこの人の名前を私が頭の中で反芻したように、彼もまた私の名前を記憶にとどめてくれただろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、私はこの人の眼差しを受け止める。
「シンジ湖で会ったトレーナーか……」
覚えていてもらえたことは、素直に嬉しかった。こうして目の前にあなたがいて、また言葉を交わせることが言いようもなく嬉しかった。でも、それを口にすることをこの人は喜ばない。だから私はぐっと口を噤んで、小さく頷くにとどめた。
男はそんな私を静かに見つめながらこう続けた。
「私は間違っているか? 違うと思うならかかってこい」
私の心臓が、どくんどくんと大きな音をたてて鼓動しているのが聞こえる。私は心臓が大きく鼓動するのは体を動かしたときや興奮しているとき、それから腹を立てたときだけと思っていたけれど、悲しくてやるせないときにもこんなに大きく鼓動の音が聞こえるのだということを初めて知った。
「……私は、あなたが間違っているとは思わない」
それは心の底から思っている本当のことだった。もしもこの世界が本当に清濁を併せて存在しているのなら、全ての思いが無下にされてはならないのなら、この人のこの思いも尊重されなければならないはずだ。だがこの世界の理はそれを許さない。それはなんだか、違う気がする。
と同時に、私は彼が壁画を壊そうとするのを止めなければならないと強く思った。
あの人の望む世界のために、そうしなければならないと思ったのだ。
「でも、壁画は壊してほしくない。だって、争いのない世界を創るんでしょう? これが壊れると、悲しむ人がたくさんいる。悲しみは争いの種になる。だから、」
私はそこで言葉を切って、息を吸い込む。そして、意を決してこう続けた。
「私は、あなたを止めないと」
悲しみが胸いっぱいに広がっていくのを感じる。私の気持ちは最初から変わっていない。あなたが世界を変えることを目指すなら、それを肯定したかった。
でも、それももうできない。私はあなたの望む世界のために、あなた自身の敵になってしまったのだった。悲しみのあまり、顔が大きく歪む。それをあの人に見られたくなくて、私は両手で顔を覆った。
そんな私を見て彼がどう思ったのかはわからない。ただ、無感動な「そうか」という声と共に、ボールがポケモンを吐き出す時の独特の音と閃光が私の指の間から届いた。
相手のポケモンに対峙するように、ゴーストがその体を私と相手の間にすっと差し入れたのが気配で伝わってくる。なおも両手で顔を覆ったままの私に、ゴーストが声をかけた。小さいがはっきりとした声だった。私を気遣っているのだとわかった。同時に、私を叱咤しているのだということも。しっかりしろ。お前は自分で選んでここまで来たんだろう。
わかってる。私はたぶん、わかっていた。いつかこんな日が来ることを。
私は涙の滲んだ両目を力いっぱい閉じる。滲んでいた涙が睫毛を湿らせた。私は両指の腹で目尻をこするようにしながら、両手を勢いよく取り払う。泣いてはいけない。そんなこと、あの人は望んでいない。
それに、こんな情けないところをあの人に見られたくなかった。どこまでも理性的なあの人に釣り合う自分でいたかった。私は滲んだ涙を拭うと、悲しみを振り払ってゆっくりと目を開けた。
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