ゴーストの背中の向こうに見えたのは、黒っぽいすらっとした体と、頭部の赤い飾り毛が印象的なポケモンだった。
おばあさんが「マニューラかい」と呟いたことで、私はそのポケモンの名前を知る。体格は小柄だが、身のこなしは軽そうだ。両手の爪もとても鋭い。

しばしの睨み合いの後、先に動いたのはマニューラだった。あの人の「切り裂く」という声に合わせて、その爪を大きく振りかぶった。――例の壁画に向かって。

私は慌てて「シャドーボール!」と指示を飛ばした。ゴーストはすぐさま闇色の球体を形成してそれをマニューラめがけて放つ。本来であれば切り裂く攻撃を繰り出すはずだった爪を右に大きく動かして、マニューラはゴーストのシャドーボールをはじくようにして軌道を変えてみせた。

ゴーストのシャドーボールがいとも簡単にいなされてしまったことに、私は絶句する。
シロナさんのおばあさんが「マニューラは悪タイプのポケモンじゃ、気を付けなさい」とフォローを入れてくれたけれど……私とゴーストのショックは隠せない。
タイプの相性を差し引いても、力の差は歴然だった。

あの人は攻撃の手を緩めなかった。マニューラは壁画に向かって次々と攻撃を繰り出す。それを何とか阻止しようと、ゴーストが食い下がる。しかしシャドーボールもナイトヘッドも簡単に弾かれてしまって、一瞬の足止めにしかならない。
接近戦に持ち込めればシャドーパンチを決めることができるかもしれないが、それは同時にマニューラの辻斬りの射程に飛び込むことを意味している。それは避けたい。ならば、

「ゴースト、うらみ!」

ゴーストは渾身の力を込めて恨みを送る。相手の技が怖いなら、技を出す気力を削いでしまえばいい。これはゴーストの得意とする戦い方だったし、こういう作戦ならば充分に勝機もあると思ったのだが。
マニューラはその鋭い双眸をすっと細めたかと思うと、それをかっと見開いてゴーストを睨みつけた。睨みつける攻撃かと思ったが、それにしてはゴーストの様子がおかしい。凄まじい重圧を放つその眼差しに捕らえられたゴーストのガスの輪郭が小刻みに震えている。そしてしばしの後、彼は恨みを送るのをやめてしまった。
あれは、きっと特性のプレッシャーだ。どうやら、気力を削られていたのはこちらの方だったようだ。

「それなら、催眠術!」

私はすぐに恨みで気力を削ることを断念して、相手を眠らせてしまう作戦に出た。しかし、これもマニューラには効かなかった。彼は両の爪を微妙にこすり合わせて嫌な音を発生させたのだった。その音の振動で、催眠術の周波をいとも簡単に相殺してしまう。

そしてマニューラはそのまま辻斬りを壁画に向かって放つ。ゴーストのシャドーボールがマニューラめがけて放たれたが、それはもう彼の攻撃を止めるだけの力を持っていなかった。マニューラのプレッシャーの影響もあってか、気力を削られたゴーストのシャドーボールは、マニューラの爪先で簡単に跳ね返されてしまった。

どうする。どうすればいい。
毒ガスで状態異常を誘う? それとも捨て身の覚悟で呪いを放つ? しかし、それらの作戦ではいずれにしても長期戦になるだろう。プレッシャーでゴーストの気力が奪われる以上、長期戦に勝機があるとは思えない……。

答えを見つけられない一瞬の迷い。それをあの人は見逃さなかった。

「やれ」

あの人のその声を受けて、マニューラは渾身の辻斬りを放った。その爪が、壁画を目がけて振り下ろされる。

その刹那、ゴーストが動いた。彼は素早い身のこなしで壁画を背後にかばうように立ちふさがったのだ。私の唇から、短く切り詰めたような吐息が漏れる。

そして、一瞬の後、ゴーストの悲鳴が遺跡にこだました。
彼はガスの輪郭を激しく揺らがせて苦しみながら落下する。ガスの体は音もなく地面に落ちた。そのまま、起き上がらない。

マニューラはそんな彼を無感動に一瞥すると、今度こそ壁画めがけて切り裂く攻撃を放つ。
あの人の眼差しが、私を見てこう言っていた。こんなものか。と。

その時、私は悟った。私はこれから多くのものを失うことを。
ゴーストは負けた。壁画は壊される。あの人の冷たい眼差しは、私に対する興味を失っていた。あの人にもう一度会いたくて、会って何かを伝えたくてここまで旅を続けてきたけれど、それは全て無駄だった。私はあの人になにも伝えられやしない。そして、なにも守れはしない。

――それを受け入れることは、きっと容易い。

それでいいのか。そう問う声が聞こえた気がした。
無力感と悲しみの中にふさぎ込んでただ時を過ごすことがいかに容易いか、私は知っている。かつてルクシオを失った私がそうだったからだ。

ルクシオの面影が脳裏に浮かんだ瞬間、私の足元を一陣の風が吹き抜けた気がした。
それはかつて彼と出会った時を思い出させる、222番道路を吹きぬけていく初夏の風だった。或いは、もう会えないあの子が私の足元を駆け回るかのような柔らかな、風。

風が去ると同時に、私は足元からとめどない衝動が湧きあがってくるのを感じた。それは、かつて旅を始めた日に感じた高揚感によく似ていて。私はその衝動のまま、足を大きく踏み出す。

喪失を受け入れることは容易い。
優しい痛みはきっと私を許してくれる。
あの頃の私は今以上に幼くて、まだ痛みとの付き合い方を知らなかったけれど。今ならこの喪失も痛みも抱えてうまく生きていけるだろう。
――でも。

私は前へ前へと足を出しながら思った。
でも、あの日も、今も、そう。なにかが私の背中を押すから。
立ち止まるなって、旅に出ろって、私のことをせかすから。

私は、喪失を受け入れることをやめた。
地面を蹴って壁画の前に躍り出ると、こちらに向かってくるマニューラの爪を正面から見据える。私はもう諦めない。あなたになにかを伝えることも。大切なものを守ることも。
爪が眼前に迫る。私の背後で壁画の白い顔料が光り輝いているのがわかる。もうすぐ、爪が届く――。

「――戻れ」

唐突に、あの人の声が静かに響いた。
同時にマニューラの腕がぴたりと止まる。その爪先は私の眉間の数ミリ手前で静止していた。
静寂の張りつめた洞窟で、私の鼓動の音だけが耳元で鳴っている。

マニューラは私から目を離すことなく数歩後ずさる。そして、そのまま大きくジャンプをして男の脇に戻った。
マニューラは離れたが、私の緊張は解かれなかった。なぜなら、あの男の眼差しがこちらに注がれていたからだ。彼は両手を体の後ろで組んだまま、その首を僅かに傾げてみせる。そしてこう言った。

「なぜこの不完全な世界を守ろうとする」

その声には、先程までおばあさんと会話をしていたときのような冷たい拒絶の響きはない。ただ純粋に私の目的を問うている、そんな声色だった。
私は彼の瞳を真っ直ぐに見ながら、こう答えた。自分で思っていたよりも、力強い声だった。

「不完全な世界を守りたいんじゃない。あなたの望む世界を守りたいんです」

その瞬間、男の双眸が僅かに見開かれたような気がした。男はすうっとゆっくり息を吸い込み、微かに肩を上下させる。そして。

「……哀れだな」

感情の読み取れない声でそう呟いてから、なにか思案をするようにゆっくりと瞼を閉じ、そして開く。そこにはもう先程のような表情のゆらぎはなかったが、代わりにこけた頬が僅かに持ち上がり、そこに笑みにも似た歪みが走った。

「それが間違いであることを、いずれ教えてやろう」

あの日、シンジ湖ではじめて出会ったときと同じ瞳が、そこにあった。さえざえと冷たく、しかしなぜか私を惹きつけてやまない、破壊的な瞳。なにを思っているのかわからない湖面の様な瞳の真ん中に、僅かに目尻をまどろませたような表情の私が小さく映り込んでいた。
碧い瞳の中の私と目が合ったのは刹那。男は無傷のマニューラをボールに戻すと、その首を僅かに動かしておばあさんの方を見遣る。そして、「長老、」ともったいぶった前置きをしてからこう続けた。

「お前の態度で知りたいことは分かった。
時間と空間の2匹が揃えば誰にも止められない。そういうことだな」

鋭い眼差しでそう言い残し、彼はさっと踵を返す。
そしてもうこちらには視線も寄越さず、そのまま壁画の洞窟を後にしたのだった。


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