あの人が去った洞窟に時間の流れが戻ってきたのは、おばあさんが「大丈夫じゃったか?」と私を心配する声をかけてくれてからだった。
私は「はい……」と呟くようにこぼしてから、はっとゴーストのことを思い出す。極度の緊張から解放されて萎えたような感じのする脚をなんとか動かして、彼のもとに駆け付けた。
名前を呼ぶと、微かに返事があった。私が彼の輪郭をそっとなぞると、ゴーストは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。うっすら開けた目で私を見て、小さく一言鳴いて、しかしすぐに再び瞼を閉じた。もう目を開けていることも億劫なのだろう。彼は消耗しきっていた。
圧倒的な力の差。戦術も、気迫も、何もかもが及ばない。――完敗だった。
こんなになるまで戦ってくれてありがとう。実力不足のトレーナーで本当にごめんなさい。
そう思いながらもう一度ガスの輪郭を撫でてから、私は本当に久しぶりに彼のことをボールに戻した。
ゴーストの入ったボールを腰のホルダーに直す。ボールの重さなんてほとんど感じないはずなのに、少しだけ体が重いような気がして。私はそんな自分に小さく顔をしかめてから、両足に力を込めて立ち上がった。少しでも早くポケモンセンターに行って、ゴーストを診てもらわなければならなかった。
と、その前に、おばあさんに壁画を見せてもらったお礼を言わないと。いつでも駆け出せるように爪先にエネルギーを留めたまま、おばあさんの方を振り返る。そして手短にお礼を述べて走り出そうとしたのだが。
私の足は、その場に縫い留められてしまった。急ぐ私のことを、おばあさんがなんとも言えない複雑そうな色の瞳で見つめていたことに気付いたからだ。
バトルで負けてしまった私に気を遣ってくれているのかもしれないし、マニューラの攻撃の前に飛び出した私の危うさを咎めようとしているのかもしれない。或いは、世界を変えようとする男の言葉を否定しない私に、世界の理を守る立場として思うところがあるのかもしれない。
少し間を置いて、彼女はこう呟いた。
「このシンオウの時間と空間には、多くの人々と多くのポケモンたちの思いが詰まっておる」
彼女の言葉は正しい。そう思いながら私は頷いた。彼女はやや語気を強めて続けた。
「素晴らしい世界じゃ」
私はもう一度頷いた。彼女の気持ちに応えるように、強く、深く、首肯した。
おばあさんはそんな私になにか語りかけようと口を開きかけ、――しかし、やめた。何か重みのある言葉や、或いはもしかしたらあの人にぶつけたような厳しい言葉を予期していた私は、やや面食らいながら、唇を引き結んだおばあさんを見つめる。
彼女は視線を伏して、何かを忘れようとするように小さく頭を振った。それに合わせて彼女の白髪をまとめている簪の飾り石がきらりと光る。
「……その気持ちを忘れず、精進しなさい。シンオウの神々の加護があるじゃろう」
押し止めた言葉の代わりに短くそう言った彼女は、そのまま眼元を和らげて瞑目する。その瞼の向こうに見ているのは、シンオウ神話の神髄だろうか。それとも、もっと別のなにかだろうか。
私がその答えを見つけるより先に、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げる。そして、「さあ、戻ろうか」と洞窟の出口へ私を促したのだった。
おばあさんは壁画の入り口の重そうな石の扉に鍵をかけると、お守りを届けてくれたことと壁画を守ってくれたことにお礼を述べてから、自宅の方へゆっくりと戻って行った。
私はその後ろ姿を見送ってから、もう一度壁画の洞窟の方を見やり、それからようやくポケモンセンターを目指して歩き始めた。
ゴーストのいない帰路は久しぶりで、なんだか落ち着かない。
次第に歩調は早くなり、気付いた時には私は両腕を思いっきり振って走っていた。高原の空気は薄くて、すぐに息があがる。
息を切らして駆けこんできた私を、ジョーイさんは穏やかな口調でなだめてくれた。
「ゴーストは私が責任をもって元気にします。だからあなたも、そんな顔をしないで」
彼女の自信と優しさに満ちた言葉が、私の気持ちを少し落ち着けてくれた。
私はゴーストのボールをジョーイさんに預けて深々と頭を下げてから、少し考えて、今日はもうポケモンセンターの宿泊室に戻ることにした。ふさぎ込むわけではないが……、ひとりになりたい気分だった。ひとりになって、考えたいことがあった。
壁画の前で、あの水色の髪の男に向けられた眼差しが脳裏に蘇る。マニューラの前に飛び出した私に向けられた、真意を問うような眼差し。今までずっと彼の瞳の奥を知ろうとしてきた私と同じように、彼も私のことを知ろうとしてくれたのだとしたら。
……うまくいかないことも多いけど、でも。少しずつ前に進めているよね?
私は胸の中に蟠ったなんとも言えない気持ちを大きく吐き出すと、そっと立ち上がって部屋の窓を大きく開けた。
すると、どこか遠くの方から、ムクバードとムックルの親子が楽し気げに鳴き交わす声が聞こえてきた。そのあまりに生き生きとした声に胸を突かれて。思わず見上げた空は、気が遠くなるくらいに高くて青くて、美しかった。
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