連日の波乗りの稽古ですっかり疲れてしまっていた私は、自分の体調と相談して、今日はコトブキシティへ引き返して早めに休み、明日218番道路を越えることにした。
文句ひとつ言わずに波乗りの練習に付き合ってくれたゴルダックをジョーイさんに預けてから、就寝の支度を整えてベッドに入った。水中でたっぷり運動した疲労から、睡魔はすぐにやって来た。枕元をふよふよと飛ぶゴーストにおやすみを言って、私はそのまま眠りについた。
はじめは、夢だと思った。
暗闇の向こうでゴーストの声が聞こえる。声を潜めて囁くような声が耳に心地よい。
それを聞きながら私は、次第にこれが夢でないことに気付きはじめる。重い瞼を僅かに持ち上げる。暗闇に目が慣れて、ここがコトブキシティのポケモンセンターのベッドの中であることを思い出した。
今、何時だろう。
辺りにはまだ漆黒の闇が満ちている。ポケッチに手を伸ばすことが億劫で時間は確認しなかったけれど、たぶん深夜2時とか3時とか、まだまだ眠っていなければならない時間であることは明白だった。
私は開きかけていた瞼をそっと閉じる。
そして、微かに聞こえるゴーストの声を子守歌にもう一度眠りの中に帰っていこうとしたのだが。
私の意識が眠りの中に落ちてゆくのを、なにかが引きとめた。
なんだろう、なにか、引っかかる。
鈍い思考で少し考えて、ふと、私はこの違和感の正体がゴーストの声であることに気が付いた。
今夜、この部屋には私とゴーストしか泊まっていないはずだ。私は眠っていて彼は今ひとりきりのはずなのに、彼は何故声を上げているのだろう。独り言? にしては、そのリズムが一定な気がした。話して、黙って、また話して、黙って。まるで誰かと会話をしているような。
誰かと会話をしているような。
その瞬間、眠気でぼんやりする頭の中に、懐かしい記憶が蘇ってきた。あれは確か、この旅を始めたばかりの頃。クロガネシティからソノオタウンに向かう途中、コトブキシティの公園でゴースとコダックと一緒に休息をとったときのことだ。木陰で本を読んでいた私の足もとでじゃれていたゴース。その動きと視線のやり方が、まるで見えない誰かと遊んでいるかのようで、私は少し怖かったのを覚えている――
私は重い瞼をもう一度持ち上げて、ゴーストの姿を探した。独り言か、はたまた野生のポケモンがそこにいるのか。なんでもいいから、彼の声の理由を確かめたかった。それを知って、なんだ大した理由じゃないじゃないかって安心して眠りたかった。
薄いレースのカーテンをすかして入ってくる月明かりの中に、見慣れたガスの横顔が見えた。彼は今も話して黙ってを規則的に繰り返している。その言葉尻のニュアンスを少しずつ変化させながら、なにもないはずの一点を見つめて、まるで誰かと会話をするかのように言葉を紡ぐ。
ゴーストの視線の先を見ながら私は考える。あの日もそうだった。そこに、なにかいるのか。私には見えない何かが、ゴーストポケモンのきみには見えているの?
ねえゴースト、それがなんなのか教えてくれない?
そこになにがいるのか、私にはわからないけれど。でも、どうしてだろう、とても大切なもののような気がして仕方がないんだ。
「……ゴースト、」
寝ぼけていておぼつかない口調で彼を呼ぶ。ゴーストははっとしたようにこちらを振り返ってから、さっきまで見つめていたなにかの方に視線を戻した。それから二言、三言と言葉を交わして、私の方に向き直る。そして、次の瞬間、彼の目が赤黒く光った気がした。
気がした、というのは、私がその瞬間に眠気に負けてしまったせいで、それ以降の出来事をよく覚えていないからだ。急速に意識を手放しながら、私はどうしてだか少しの寂しさを感じていた。
翌朝目覚めたとき、ゴーストの姿は昨夜のまどろみの中で見た窓際にあった。ただ、見えない何かの気配はもうない。
淡い朝の日差しを浴びながらこちらを見つめるゴーストの表情は、いつもと寸分違わない飄々とした笑顔だった。
「……おはよう」
つられるように少し口角を持ち上げてそう言うと、ゴーストははっきりした声で鳴いて私の方へすうっと近寄って来る。
私は彼に促されるままベッドから起き上がると、小さく伸びをしてからカーテンを開けた。冬のシンオウらしい重い雲が立ち込めた空が、灰色に輝いている。
動き出したいつも通りの朝の中で、私は掴みかけていた昨晩の違和感の輪郭がそっと崩れてゆくのを感じていた。
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