チルタリスは、その柔らかな翼で力強く羽ばたいて、晴れた空を東へ進んでいった。
地図と磁石で方位を確認したヒカリちゃんがチルタリスに声をかけると、彼は歌うような声で返事をする。その響きの美しさに耳を傾けているうちに、あっという間にヨスガシティに着いた。
明日のコンテストに備えるため、ヒカリちゃんはポケモンたちと最終調整に入った。体の調子や技のコンディションを念入りに確認していく。
私はそんな彼女たちを励まそうと、空いた時間でポフィン料理ハウスを訪れた。ヒカリちゃんのポケモンの好みがわからなかったので、手持ちのきのみで様々な味のポフィンを作った。
私の計画では夕食の後にサプライズで渡すつもりだったのだけれど、結果から言うとそれは失敗に終わった。ヒカリちゃんのミミロルの優れた嗅覚が、鞄に忍ばせたポフィンをすぐに見つけてしまったからだ。
食後のデザートのつもりが練習後のご褒美になってしまったけれど、これはこれでよかったのだと思う。一生懸命練習をしてお腹がペコペコだったヒカリちゃんのポケモンたち。空腹は最高の調味料というけれど、まさにその通りで、彼らは私のポフィンを本当においしそうに食べてくれた。
その日の夜は早めに休んで、翌日。ヒカリちゃんは万全の状態でコンテストに臨んだ。
今回彼女が挑戦するのはハイパーランク。マスターランクを目指す新進気鋭のコーディネーターたちがしのぎを削り合う、最も競争の激しいランクである。
聞けば、ハイパーランクは一度優勝して最高位のマスターランクに進んだものの、そこで思うように結果が出せなかったコーディネーターたちの出戻りも少なくないのだという。他のランクよりも挑戦者の絶対数が多い中で優勝するのは並大抵のことではない。そのため、なかなか優勝できずにハイパーランクでトップコーディネーターを諦める人も珍しくないのだそうだ。
ヒカリちゃんは並み居る猛者の中、第一審査をポッチャマの堂々とした演技で三位通過した。
しかしバトル形式の第二審査で惜しくも敗れてしまい、今回は優勝することはできなかった。
審査を終えドレスを脱いだ彼女が、客席で待っていた私のところに戻ってくる。
ヒカリちゃんはごくいつも通りの明るい笑顔で「またダメだった」と言い、私の隣に腰かける。その眦が少し赤いのに気が付いた私は、しかし普段通り振る舞う彼女の気持ちを無下にしたくなくて、「次があるよ」となるべく明るい笑顔で返す。
ヒカリちゃんは大きく、そして深く頷いてから、私に他にも試してみたい技の組み合わせがあることを教えてくれた。本当は落ち込みそうなはずなのに、もう次の大会を見据えているヒカリちゃんの笑顔が眩しくて。なんだか私の方が元気をもらっているな。そう思いながら、私は彼女の話をずっと聞いていた。
ポケモンセンターですっかり元気になったポッチャマたちのボールを受け取って、私たちはマスターランクのコンテストバトルに沸くヨスガシティを後にする。
マスターランクのコンテストを見なくていいのかとヒカリちゃんに尋ねると、彼女は少し真剣な表情で考えてから、「……うん、今日はやめておく」と言った。今は外からの刺激を取り入れるよりも、自分たちのことを深く考えたい時期らしい。
「今から出発すれば、日暮れ前にリッシ湖のほとりに着けるよ。
近くで一晩過ごして、明日の朝いちばんで湖を調べよう!」
私は彼女の提案に「うん」と頷いて、フワライドを呼び出す。今日のシンオウ地方は、昨日と打って変わって東へ風が吹いていた。今日なら、フワライドに乗って湖を目指せる。
私たちはそれぞれ自分のポケモンに乗って空を飛んでゆく。ノモセシティを過ぎてなおも東へ進むと、砂浜を望む高台に築かれたホテルグランドレイクの白い建物群が見えてきた。夕日を浴びて赤く輝くグランドレイクを見て、ヒカリちゃんが「きれい」と呟く。それに応えるように鳴いたチルタリスの美しい囀りが、シンオウの夕焼け空に溶けて消えた。
私は少し高度を落として辺りを見渡す。ホテル群から少し外れたところに今夜の宿を作るのに丁度よさそうな木陰を見つけて、ヒカリちゃんとそこに下りた。
ふたりでテントを張って、携帯食料で簡単に夕食を済ませる。そして、明日に備えて早めに就寝の支度をしたのだけれど……。ポケモンのことや、それぞれの旅のことを話していると、あっという間に時間が過ぎていって、ついつい夜更かしをしてしまった。いい加減にもう寝なきゃね、と言って訪れた沈黙は、しかしこれもあまり長くは続かなかった。
「ねえ、ええっと、あのさ、」と少しくすぐったそうな声でヒカリちゃんが私に話しかける。
私は目を閉じたまま「なあに?」と彼女の言葉の続きを促した。彼女はそれからもう少しもじもじした後に、誰が聞いているわけでもないのに声を潜めて、私にこう尋ねかけた。
「ナマエちゃんって、好きな人とかいる?」
可愛らしく跳ね上がった語尾が、私の耳をくすぐった。閉じていた瞼がぱっと持ち上がって、反射的に声の主を探す。光を細く絞った懐中電灯の向こうで、ヒカリちゃんの大きな瞳がこちらに興味深げな眼差しを投げかけていた。薄暗い中でも彼女の頬が紅潮しているのがわかる。どこまでも可愛らしい女の子の表情に、なんだか私の方が思わずどきっとしてしまう。
全く想像していなかった質問に、私は「ええっと……」と口ごもってしまった。女の子の友達と一緒に過ごす夜にこっそりする話として、こういう話題は最適なんだろうけど……まさか、この旅の中で自分にそれが訪れるなんて、思っていなかったのだ。
私は慌てて答えを探す。好きな人、と聞いて一番に思い浮かんだのは故郷のデンジの姿だった。でもこれはたぶん、ヒカリちゃんの求めている「好き」とは少し意味合いが違うのだと思う。
今度は旅の中で出会ってきた人たちを思い浮かべていく。でもそれはどれも私がヒカリちゃんに感じる友人としての好意によく似た感情ばかりだ。なかなかいい回答が思い浮かばなくて「うーん」と唸る私に、ヒカリちゃんはじれったそうにこう言った。
「ちょっと他の人とは違うなーとか、もう一度会いたいなーとか思う人、いない?」
もう一度会いたい人。そう言われた私の脳裏に浮かんだのは、もちろんあの人の姿だった。落ち窪んだ暗い眼差しと、不健康にこけた頬。威圧的な口調で世界を創り変えると言い放つ、碧い瞳の男。
「好き」ってきっと、胸いっぱいに幸せが広がるような甘酸っぱい気持ちのことをいうんだと思う。
あの人に会う度に、私の胸は嬉しい気持ちと悲しい気持ちがない交ぜになった複雑な感情でいっぱいになるから、これもまたヒカリちゃんのいう「好き」とは少し違う気がしたけれど。私が出会ってきた人の中で、今ここで「好き」と言いたい人は、あの人以外にいない気もした。
「好き、っていうのとは違うかもしれないけど……もう一度会いたい人ならいるよ」
ヒカリちゃんは勢いよく食いついてきて、どんな人かとか、どんなところに惹かれているのかを次々に尋ねてくる。
どうして私があの人に会いたいと思うのか、それは自分でもよくわからない。でも、会いたい理由を強いて言うなら、きっとこうだ。
「どこに惹かれてるのかはわからないけど、でも、私はあの人にまた会わないといけないといけないって強く思うの」
初めてあの人に会った時から感じている、ある種の義務感にも似た衝動。
あの人に会いたい。会って、あの瞳の奥にあるものに触れたい。
その感情の正体も、その先にある結末も知らないまま、私はただその衝動のまま旅を続けている。
ヒカリちゃんは「なにそれ運命!? すごいすごい!」と言って、その瞳をきらきらと輝かせる。
運命、という耳障りのいい言葉は、私とあの人の関係にはいささかもったいない気がして。私は「うーん、どうだろう」と少し笑って、「それより、ヒカリちゃんはどうなの? 好きな人、いるの?」とそれとなく話題を切り替えた。
ヒカリちゃんは「えー? あたしー?」とまんざらでもなさそうな口調で言って、その笑みを更に深くする。楽しそうで、幸せそうな、見ているこちらまで楽しくなる愛らしい笑顔。
……あの人と会って、話して、あの人のことをもっと知れたら、私も今のヒカリちゃんみたいな表情であの人のことを語れる日が来るんだろうか。
私はうまく想像できないその時を思い描きながら、ヒカリちゃんの明るい声に耳を傾けていた。
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