今までリッシ湖に来たことはなかったけれど、その美しさなら写真でよく知っていた。
しかし、眼下に広がる剥き出しの土の大地は、記憶の中のそれとは似ても似つかない。

思わず「どうして」と呟いたあたしの隣で、ナマエちゃんは荒い息遣いで呼吸をしていたのだけれど。次の瞬間、崖のふちを蹴って、彼女は飛んだ。
その時の彼女の横顔を、あたしはきっと一生忘れないだろう。怒りとも悲しみとも少し違う、なんとも言えない激情に満ちた瞳が暗闇の中で輝いていた。その口元はぎゅっと引き結ばれていて、今にもこぼれ落ちそうな感情をこらえているに違いなかった。いつも穏やかで優しい彼女のその強張った表情が、なんだか少し恐ろしく、しかし同時にとても悲しく感じられた。

あたしはほとんど反射的にナマエちゃんの名前を呼ぶ。しかし彼女は振り返らなかった。
その激情に身を焦がしながら、フワライドの力を借りて怪しげな集団の真ん中に躍り出る。そして、ゴーストとフワライドにてきぱきと指示を出して、怪しげな集団とポケモンバトルを始めてしまった。

ナマエちゃんのポケモンはとても強かった。タイプの相性の上では不利なはずのデルビルやニャルマーをも簡単に圧倒する。
勝っているはずなのに、ポケモンに指示を送る彼女の目元は苦しそうに歪んでいて。それに気付いたあたしはほとんど衝動的にチルタリスの背に飛び乗って崖を下りていた。

コンテストに負けてしまったあたしの虚勢にたぶん気付きながら、しかしそれを受け入れて笑ってくれたナマエちゃん。森中に響いた轟音に取り乱したあたしの手をぎゅっと握って落ち着かせてくれたナマエちゃん。本当に優しい彼女のあんな苦しそうな眼差しを、あたしは放っておけなかったのだ。

かつて湖の湖底であったであろう大地には、あちこちに浅い水たまりがあり、その近くではコイキングが力なく跳ねていた。
またクレーターのふちでは消え残った火が草地で燻るように燃えている。

「……チルタリス、ポッチャマとゴルダックを呼んできて」

たぶん、もうじき彼らの力が必要になるはずだから。チルタリスはその美しい声で短く頷くと、今来た道を戻って森の中に消えてゆく。
あたしは彼の背中を見送ってから、ナマエちゃんの方に向き直った。彼女はあっという間に浅葱色の髪の集団を蹴散らすと、湖底にあった山の方に歩いていく。そして彼女は、その山に走っていた亀裂の向こうにゆらりと消えていった。

あたしは彼女を追って湖底の洞窟に駆けこんだ。
洞窟の中には、がらんどうのような空間が広がっていた。辺りを見渡して、すぐに白いコートを着た彼女の背中を見つける。
あたしは慌てて彼女のもとに駆け寄ろうとしたのだが、その足はすぐに止まってしまった。
彼女の背中の向こうに、ナマエちゃんのことを鋭い眼差しで見つめる紺色の髪の男の人がいて、なにやら彼女と剣呑な雰囲気で言葉を交わしていることに気付いたからだ。

男は静かな、しかし敵意を隠さない声でこう言った。

「お前の顔なら知っている」

それにナマエちゃんは無言で答えた。男は続けた。

「ハクタイのギンガ団アジトに乗り込んできた子供だな。
ジュピターの報告は既に団員全員に共有されているぞ」

ギンガ団、という言葉に聞き覚えがあった。たしか、ノモセの大湿原で爆破事件を起こした犯人かもしれないって、つい最近見たお昼のニュース番組で言っていた記憶がある。表向きは新エネルギー開発を行う企業ということになっているけれど、他にも他人のポケモンを奪ったり、暴力事件を起こしたりしているかもしれないということで、ここのところ噂になっている集団じゃなかっただろうか。

そんな組織の人が、ナマエちゃんのことを知っていると言って敵意を剥き出しにしている。これは、一体どういう状況なんだろう?
状況についていけないあたしの視線の先で、これまで黙っていたナマエちゃんがおもむろに口を開く。

「ここで、なにをしていたんですか?」

その声は静かだが、無視することを許さない強い響きを内包していた。彼女は続けた。

「あなたたちが目指す争いのない世界って、どんな世界なんですか?
リッシ湖やその森、そこに住むポケモンたちを傷付けることを、あの人は望んでいるんですか?」

あの人、というのが誰のことをさすのかはわからない。しかし、その言葉は男の琴線に触れたようだ。彼は整った顔を嫌悪に歪ませて「知ったふうな口をきかないでもらいたい」と言い、それからそのままの口調ではっきりとこう言い切った。

「これは全てボスの指示だ」

男はそれから、腰のホルダーからボールを抜き出す。そして、「あと、私が受けた指示はもうひとつある」と付け加えて、その口角を不敵に持ち上げた。

「ゴーストを連れた子供と出会ったら、その子供が二度と私の前に現れることがないようにしろ。……そう言われている」

今までどんな口調で何を言われても反応しなかったナマエちゃんの肩が、微かに震えた。

「……そうですか」

ナマエちゃんは気丈な声で男にそう返事をする。ただ、その背中だけは饒舌に彼女の気持ちを物語っている気がした。その背中に、大きな悲しみがのしかかっているのを確かに見た気がしたのだ。

その向こうで、男のボールがぱっくりと割れて中から眩い光と共にドクロッグを吐き出した。喉の毒袋をごぼごぼと鳴らすドクロッグ。その危機感を煽る音が、あたしの焦りを加速させてゆく。

ナマエちゃんが、これまでどういう旅をしてきたのかはわからない。その中でギンガ団とどう関わってきたのか、想像もつかない。
ただ、彼女が悲しんでいるなら、その気持ちに寄り添いたいと思った。彼女があたしにしてくれたように、その手を握ってあげたいと思ったのだ。

あたしはギンガ団に対する恐怖とか、これまでの彼女の旅路に対する少しの疑念とか、そんな一切を振りほどくように地面を蹴って彼女のもとへ駆け寄る。そして、彼女の隣に並びながら、何かに耐えるように固く握られた拳を左手でそっと握った。
その瞬間、驚いた彼女が弾かれたようにこちらを振り返る。今は驚きの表情を形作ってはいるけれど、あたしは彼女の睫毛が少しの湿気を孕んで重く輝いているのを見逃さなかった。

ドクロッグが急に現れたあたしを見て、警戒するようにごぼごぼと鳴く。それと同時に紺色の髪の男が、こちらを値踏みするように眺めながら、腰からもうひとつボールを抜き出した。おそらく、あたしをナマエちゃんの仲間、すなわち自分と敵対するトレーナーとみなしたようだ。複数人を相手にするためにゴルバットを追加で繰り出して、技を指示するためにその唇を開こうとしている。
あたしと彼女に許された時間は多くないらしい。お願い、泣かないで。ただただそう思いながら、あたしは彼女の手を握る左手に力を込める。

それは、ポケッチで確認すればおそらくほんの数秒にも満たない僅かな時間だったのだと思う。極度の緊張で何倍にも引き伸ばされた時間の中で、ナマエちゃんは固く握っていた拳をそっとほどく。そして、あたしの手をきゅっと握り返してくれた。

「ありがとう、ヒカリちゃん」

静かな、しかしはっきりとした声があたしの鼓膜をそっと揺らす。そこに先程までの胸を裂くような悲しみの響きがないことに安堵したあたしは、腰のホルダーからボールを抜き出しながら彼女の手を握り返すことで、それに応えた。


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