局所的な地震は比較的短い時間で収まった。揺れの引いたシンジ湖に戻ってきた静寂の中で辺りを見渡せば、ブニャットもニャルマーも、それから私たちを取り囲んでいたギンガ団員たちも、目を回してその場に倒れ伏していた。
木の近くにいたマーズさんは幹に掴まってなんとか転倒はまぬがれていたが、突然のことに驚きは隠せないようで、勝気な印象の双眸を目いっぱいに見開いて、肩で浅い呼吸を繰り返している。
そんな彼女に追い打ちをかけるように、上空からすっかり衰弱したゴルバットがふらふらと舞い戻ってきた。何とかマーズさんの足元に降り立ち、そしてそのままばたりと力尽きる。マーズさんの眉間に深い皺が刻まれる。
小さくない舌打ちをした彼女の向こうに、例の小型艇から大型のヘリコプターに荷物を運んでいたギンガ団員と白衣の研究員たちの姿が見えた。彼らも地震に足を取られて立往生してしまっていたらしい。
私が見ている先で、ヘリコプターの手前でうずくまる彼らの手元から直径数十センチ程の硬そうなケースがこぼれ落ちた。その半透明の表面の向こうに生き物をかたどったような輪郭と、淡いピンク色が見えたのは一瞬。彼らがそれを隠すように拾い上げたのと同時に、私は地面を蹴って駆け出していた。
あれが湖のポケモンなのだと思った。ギンガ団がどんな手を使って彼を捉えたのかはわからない。ただ、狭いケースに押し込められたその輪郭がぐったりと項垂れて動く様子がなかったことは、私の焦燥を駆り立てた。あのポケモンは無事なんだろうか。それを確かめなければならないと強く思った。
「お前たち! 早く運び込め!」
マーズさんの怒声と同時に、背後で彼女がボールからポケモンを繰り出した音が私を追ってくる。私は振り返ることなく「サマヨール、お願い!」と私の背中を任せた。彼の乾いた鳴き声に重なるように、空中戦を制したゴーストの声が降ってくる。彼のその猛々しい声にびくりと肩を震わせてから、下っ端団員たちはヘリコプター目指して一目散に駆け出した。
何人かのギンガ団員は私の目の前に立ちふさがり、腰のホルダーからボールを抜き出す。私は足を止めることなくゴルダックを繰り出すと、彼がボールの光を散らして地面を踏みしめるより先に彼の脇を走り抜けた。そして背後の彼に届くように力を込めて「念力!」と叫ぶ。
私の目の前にギンガ団のポケモンたちが現れたその瞬間、ボールから飛び出したばかりのゴルダックの念力が彼らの動きを止めた。私はデルビルとゴルバットの牙の間をすり抜けてギンガ団の下っ端たちの方へ向かって行く。
私を止めるために駆け寄ってこようとした男たちの足元に、上空から放たれたゴーストのナイトヘッドが炸裂した。思わず腕で顔を覆って足を止めた彼らに目もくれず、私は例のケースを運ぶ団員の背中を追う。
その背中に指先が届こうとした瞬間、私の体に大きな力がかかった。私の右腕を捕まえてぐっと後ろに引いていたのはマーズさんだった。彼女は裾が大きく広がったデザインのスカートを大胆に揺らして左足を引くと、そのまま力任せに私を引き倒した。
転倒していく視線の先で、例のピンク色のポケモンの頭が僅かに動いた気がした。私が精一杯差し伸ばした左手に反応するように、半透明のケースの向こうで小さな手がこちらに向かって差し伸ばされる。その指が半透明のケースにぴたりと張り付いたその瞬間、私の胸に今まで感じたことのない気持ちが湧きあがってきた。
なんだろう、これ。泣きたいような気がするのに、涙はぜんぜん出てこない。怒って叫び出したいような気がするのに、声が出ない。楽しい気持ちを誰かと共有したいのに、隣には誰もいない。どうしようもなく虚しいような気がするのに、ただ前に進むことをやめられない――。
その感情の終わりは唐突にやって来た。マーズさんに引っ張られてバランスを崩した私は、そのままの勢いでシンジ湖のほとりに突っ伏すように転んでしまったのだ。踏み固められた雪の上で、私は上半身だけを素早く持ち上げてマーズさんの方を見遣る。
彼女は肩で息をしながら私のことを睨みつけていた。
「こんなことって、ありえない!」
そう言った彼女の背後で、湖のポケモンの入ったケースを持った研究員がヘリコプターに駆け込んだ。次の瞬間、プロペラが回り始める。
マーズさんの近くにいた団員が、狼狽えながらまだ全員が撤収できていないことを自らの上司に告げる。すると彼女はその赤い瞳に激しい怒りを燃やしながら「間に合わない者は置いて行く!」と言い切った。
それから彼女は私の方に向き直ると、自らを落ち着けるようにゆっくりと息を吸って、吐き出した。
「……勝負に勝ったくらいでいい気にならないことね。
発電所でも、ここでも。あたしは、ギンガ団は負けてない!」
彼女の言いたいことは分かった。ポケモン勝負の勝敗と、ギンガ団の果たすべき目的は全く別だと言いたいのだろう。個々の勝負で負けていても、彼女は与えられた役割を毎度きちんとこなしている。結果、彼らは理想の世界へ近付いている。
確かにその通りだと思った。彼女に勝ちはしたけれど、私はなにも出来なかった。湖のポケモンも助けられなかったし、あの人のことも遠いままだ。
「確かにその通りです。……でも、諦めません」
私はそんな彼女に努めて静かな調子でそう言った。本心だった。またなにもできないかもしれないけれど、それでも私はあの人に会いたいのだ。嫌われてもいい。拒絶されてもいい。あの人の目指すもののために、私にできることがあればなんだってしたい。
「ふん、自分は正しいんだって顔しちゃって。あたしの、あの人のジャマばかりしてるくせに!」
静謐な夜明けのシンジ湖に、彼女の苛立ちを含んだ声が響き渡った。ヘリコプターの起こす風が静かな湖面を波立たせるように吹き渡る。
その赤い髪を大胆に風に遊ばせるマーズさんを見ながら、私は思った。彼女の言った『あの人』というのは、きっと私の追っている男と同じ人だと。彼女の深紅の瞳の、私への憎悪の向こうで激しく煌めく熱い光。それがどうやっても断つことのできない私からあの人への思いに、あまりにも似ていたから。
「……自分が正しいなんて、思ってない」
本当に私が正しい選択を出来ているのなら、もうとっくにあの碧い瞳の奥にあるものにたどり着けているはずだ。それが、どうだろう。私は間違えてばかりで、ついにはあの人の敵になってしまった。でも、
「あの人の邪魔をしたいなんて思ったこともない」
彼女の前で私の本心が次々とこぼれ落ちるのは、きっと彼女に信じて欲しかったからだ。誰にどう思われてもいい。ただ私とよく似た輝きの瞳であの人のことを見つめる彼女にだけは、私のことを理解してほしかったのだと思う。
懇願するような気持ちで見つめた先の彼女が、弓なりの眉を僅かに持ち上げて私の方に訝しむような視線を送ったのは刹那。
彼女は次の瞬間、私から視線を外すと軽い身のこなしでヘリコプターに乗り込んだ。そして中の操縦者に「出して!」と声をかける。それから彼女はもうこちらのことは振り返りもしなかった。ヘリコプターの轟音と旋風をだけを残して、朝日の昇り始めたテンガン山の向こうに颯爽と消えていった。
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