エイチ湖へと向かうことになった私は、最後にその段取りをヒカリちゃんと相談する。
私はヒカリちゃんからギャロップを借りて慌ててここまで駆けてきたので、鞄やテントなどの荷物一式をそのままリッシ湖近くの森の中に置いてきてしまっていたのだ。

私の荷物をまとめてくれていたヒカリちゃんは、それをムクバード便に預けることを提案してくれた。私はムクバード便を使ったことはなかったけれど、ふたつ返事でそれをお願いする。
テレビ番組の合間に流れる『お急ぎのお荷物ならムクバード便!』というCMソングは、シンオウの人なら誰もが口ずさむことができるだろう。手紙はムックル便、荷物はムクバード便。それはシンオウで暮らす私たちにとってごく自然な選択肢だった。
少し考えて、受取先はハクタイシティのポケモンセンターにしてもらうことにした。今日から明日にかけては南からの風が吹くと天気予報で言っていた。少し休んでからハクタイを目指して出発すれば、フワライドに乗って明日にはハクタイに着けるだろう。そこで荷物を受け取ってテンガン山に向かうのが、エイチ湖への最短ルートだ。

ヒカリちゃんのギャロップは、しばらくナナカマド博士の所で預かってもらうことになった。ヒカリちゃんは湖の件が一段落するまではリッシ湖に残って作業を手伝いたいのだという。痛ましい姿の湖を一日でも早くもとに戻してあげたいというのはもちろんのこと、彼女にはもうひとつ湖に残りたい理由があるようだ。

「それにね、マキシさんは水タイプのジムリーダーでしょ? いっしょにいると、ポッチャマの演技にもなにか刺激がもらえそうな気がするの!」

そう言ってにっこりと笑う彼女のたくましさに励まされるように私も笑う。それから私たちはお互いの無事とこれからの成長を誓い合って、電話を切った。

私は博士とコウキくんに挨拶をしてから、足早にマサゴタウンのポケモンセンターに向かった。昨晩から本当によく頑張ってくれた手持ちのポケモンたちをジョーイさんに預けると、手早くシャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。




お昼過ぎにセットしていたポケッチのけたたましい音で私は起床した。本当はまだもう少し寝ていたかったけれど、ここで自分に甘えてしまうと生活のリズムがおかしなことになってしまうからと自分を叱咤して、なんとかベッドから起き上がった。

日課のランニングを終えてジョーイさんからモンスターボールを受け取る。ボールからフワライドを出して風向きを見ていたところで、コウキくんとばったり出くわした。どうやら彼も自宅で少し仮眠をとって、ちょうど研究所に行くところだったらしい。彼は上空からふわふわと下りてきたフワライドを見て、「風向きはどう?」と私に尋ねた。

「うん、予報通りハクタイシティに向かって風が吹いてるみたい。これならフワライドでひとっ飛びだよ」

私が笑みを浮かべてそう言うと、コウキくんは「そっか。よかった」と言っていつものように穏やかに笑ってくれた。

私はそのままフワライドに上昇するようお願いする。彼は軽い空気を吸い込んでみるみる大きくなると、その手をしっかりと組んで私が座るための場所を作ってくれた。

私は最後に「じゃあ、行ってくるね」と言ってコウキくんに手を振ると、彼に背中を向けてフワライドに乗ろうとした。
しかし、それは叶わなかった。フワライドに乗ろうとした私の手を、コウキくんがぱっと捕まえて引いたので。

思わず振り返った先のコウキくんは、赤いハンチング帽を目深にかぶって少しだけ俯いていた。いつも穏やかな笑みを浮かべている口元が上等そうな白いマフラーに隠れていて、今だけはその表情をすっかり隠してしまっている。

私がすぐには乗らないことを悟ったフワライドが、しゅーっという音をたてて軽い空気を抜いていく。私はそれをぼんやりと聞きながらコウキくんのことを見つめていた。

しばしの沈黙の後、口を開いたのはコウキくんだった。

「……ナマエちゃんがやらなくちゃいけないのかな?」

小さな、しかしはっきりとした声で、彼はそう呟いた。何のことだかわからなかった私が「え?」と小さく疑問の言葉を口にすると、彼は意を決するように鋭く息を吸ってから「エイチ湖のこと」と言った。

「だって、どう考えても危ないよ。
ヒカリちゃんやジュンくんのためなのはわかる。でもそのためにナマエちゃんが危険な目に遭う必要はないと思うんだ」

私の手を握る彼の手が小さく震えている。彼は俯いたまま続けた。

「もう警察に任せようよ。万が一ナマエちゃんになにかあったら、僕は……」

コウキくんはそこで言葉を切った。その代わりに、彼の手の力が少しだけ強くなる。
彼のあたたかな掌から、私のことを心から心配してくれているのだということが伝わってくる。私は彼のその言葉に、故郷のデンジのことを思い出していた。
旅なんかやめて帰ってこいと言っていた彼。あの頃は、まるで信頼されていないみたいで帰って来いと言われるのが嫌だった。でも、今ならわかる。どんなに信じたいと思っても消えることのない心配から、待つ側はそう口にしないではいられないのだと思う。

私は少し考えてから、空いていた右手で彼の手を包み込む。ヒカリちゃんの掌が私の心を照らしてくれたように、私の気持ちが少しでも伝わることを祈りながら私は言葉を選んだ。

「ありがとう。コウキくん。私のこと止めてくれて。
コウキくんが私のことを大切に思ってくれてるんだってわかって、とても嬉しかった」

こうして私のことを止めてくれる人がいるから、私は立ち止まって考えることができる。
私は本当にこの道を行かないといけないんだろうか? こんなに私のことを大切に思ってくれている人のことを置き去りにしてまで続けるべき旅なんだろうか?
目を閉じて考える。旅立ちの衝動と、目指す暗碧の瞳の男。危ないかもしれないことはわかっている。私のことを大切に思ってくれる人のことを考えると、本当にこの答えでいいのか、いつも少し迷う。
……でも。それでも私は、私の始めたこの旅を最後まで続けなければいけないと思うのだ。

「でも、私は行きたいの。誰かのためじゃない、私のために旅を続けたい」

私はそっと目を開ける。顔を上げてこちらを見ていた彼の漆黒の瞳と私の視線が交錯した。
彼の瞳が心配で揺らいでいるのがわかる。私はどうしても彼に安心してもらいたくて、なんとか言葉を紡ぎながらゆっくりとした口調で続けた。

「だからね、約束させてほしい。ちゃんと戻ってくるって。
コウキくんが、みんなが私のことを大切に思ってくれているのがわかるから。私、自分を大切にしなきゃいけないって思うの。……だから、本当に危ないことはしないし、絶対に帰ってきます」

私の言葉が、どれほど彼に伝わったかはわからない。ただ彼はその漆黒の瞳をそっと閉じると、ふうっと長い息をついて、それから両手を解いて私の手を握り直した。一瞬だけ優しく私の手を握ると、そっとその手を離す。
そうして私に「わかったよ、ナマエちゃん」と言ってはにかむように笑ったコウキくんは、もういつもの彼だった。

「気を付けて行って来てね。マサゴで待ってるから」

おだやかにそう言って手を振る彼に、私も右手を振って応える。

「うん。行ってきます」

そのままフワライドに乗って、ハクタイの空を目指して飛び立った。コウキくんは私が見えなくなるまでずっと、私のことを見送ってくれていた。私もつい先程まで私の手を握っていた彼の掌の暖かさを思い出しながら、マサゴの街が見えなくなるまで彼のことを見つめていた。


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