ムクバードが届けてくれた鞄を携えて、東へ歩いていく。ハクタイシティとテンガン山を結ぶ211番道路を目指す途中で、私はポケモン像の前を通りかかった。
かつてここであの碧い瞳の男に出会った時のことがふと脳裏をよぎって、私は思わず足を止めてしまう。見上げた先のポケモン像は、ハクタイの高台からこの街を、そしてその向こうに広がるシンオウの西側を見下ろしているようで。私はその視線の先にある人々とポケモンたちの営みを想像しながら、あの人の言葉を思い返した。
心という曖昧で不完全なもののせいで、この世界からは争いがなくならない。
争いのない完全な世界を創る。そのための時間と空間の二重螺旋。
もしも、あの人が争いの種となる心がない世界を『完全な世界』と呼んでいるのだとしたら。
ミオ図書館でその可能性に気付いてから、私は何度かそのことについて考えていた。しかし彼の言う心のない世界を、私はうまく想像できないでいる。そこで私は、ゴーストは、世界中の人とポケモンは、そして何よりあの人は、満ち足りて生きていけるのだろうか。
――わからない。だが、わかりたい。あの人のことを。
ポケモン像の前で立ち止まった私に、ずっと私のことを一番近くで見てくれているゴーストが小さく声をかけてくれた。私の考えていることなんかお見通しなんだろう、彼は落ち着き払った声で私に問いかける。どうして立ち止まっているんだ? と。目指すエイチ湖には、ギンガ団がいるかもしれない。そして彼らは、あの水色の髪の男に繋がっているかもしれないぞ。
私はその場でゆっくりと深呼吸をしてから、ゴーストの方に視線を投げかける。
そして、観念したように小さく笑った。
まったく、ゴーストの言う通りだった。はじめて出会った時から変わらないあの人の瞳と言葉が今でも私を惹きつけてやまないのだということを、私は改めて実感する。
あの人がギンガ団のボスだとわかっても、ギンガ団に関わることがどれだけ危険だとしても、そしてあの人にどんなに拒絶されたとしても、私はあの人への歩みを止められない。その言葉と瞳の奥にあるものを、私は知りたいのだ。立ち止まっている暇はない。
「ごめん、行こうか」
私は努めて軽い調子でそう言うと、テンガン山に向けてその爪先を向け直す。そして重い気持ちを振り切るように地面を強く蹴ると、私はそのままポケモン像から211番道路に続く石段を駆け下りた。
シンオウ地方を東西に分断するテンガン山。そのハクタイ側の山体は、東に向かって大きく切れ込んでいる。登り勾配の道を進んでいくと、道の左右を囲んでいる山は次第に高くなっていった。ハクタイのあちこちで見られた白い幹の木がいつの間にか見られなくなり、代わりに南北東の三方向を高い岩肌に囲まれた低地の中で昼間に届くわずかな日差しを浴びて育つ背の低い草むらが私たちの目の前に現れた。
草むらをかき分けて進んでいると、不意に北側の岩肌に小さな洞穴が開いているのを見つけた。ふつりと湧きあがった好奇心のまま、私はその洞穴に足を踏み入れようとする。
そんな私に、背後から「おい、だめだぞ!」という威勢のいい声がかけられた。
振り返って見ると、そこには忍者のような恰好をした少年がいた。彼は足音のしない独特の足取りでこちらに近付いてくると、洞穴の入り口付近の地面を指差して「これ、リングマの足跡」と言った。
彼に促されるまま足元を見た私は、そうしてはじめてこの洞穴の入り口に無数に残された大きな足跡に気が付いた。
聞けば、リングマは冬になると丁度このくらいの洞穴の中で冬眠をするのだという。彼らは冬ごもりに備えて快適な寝床を作るために自分のねぐらへ枝葉を大量に運ぶので、その玄関口にはたくさんの足跡が残るのだそうだ。リングマの生息している地域では、山道を行くときに足跡のたくさんある洞穴を見つけても決して近付かないように小さな頃から教えられる。理由は簡単。
「冬眠のジャマをされたリングマは怖いんだ」
足跡からも分かる、鋭い爪のあと。万が一眠りを妨げられて腹を立てたリングマに狭い巣穴の中で襲われてはひとたまりもないだろう。
それに、もしもリングマを起こした張本人が運よく襲われなかったとしても、真冬に目覚めたリングマは食料を求めて人里に下り、そこで街の人々やポケモンを襲うかもしれない。その原因が人にあったとしても、人を襲うポケモンは駆除対象になってしまう。人とポケモンの不幸な事故を避けるためにも、リングマのいる冬山では足元に注意を向けなければならないのだそうだ。
「そうだったんだ。教えてくれてありがとう」
「いいよ。これから気を付けてくれればね」
カントー地方にいる憧れのトレーナーのようになるために、トレーニングをしにハクタイから毎日この高台にやって来るのだという少年。彼はしっかりとした口調でそう言うと、首に巻いたスカーフを揺らして草むらの方へ素早く駆け去っていった。
私は低く腰を落とした独特の走り方で去っていった少年のことを見送ってから、洞穴の方に向き直った。危うく自分が犯すところだった過ちを思いながら、そっと洞穴の奥を見遣る。暗い闇が満ちるこの奥で丸くなって眠っているであろうリングマの姿を思い浮かべてから、私はそっとその場をあとにした。
リングマが眠っていそうな場所には近寄らないようにしながら、211番道路を東へ進んでいく。
テンガン山の影に入っていくにつれて草むらが途切れていき、代わりに目の前には道を横断する深い谷が現れた。谷底には、飛沫をあげて流れていく清流が小さく見える。タウンマップを見るに、どうやらこの川は万年雪を頂くテンガン山のキッサキ連峰の方から絶えず流れ込んできているようだ。その冷たく激しい流れが大地を削り、複雑で荒い地形を生み出しているのだろう。
谷にかけられた丸木橋を渡れば、テンガン山の山体に大きくあいた洞窟の入り口はすぐそこだ。
私はそこで会ったやまおとこさんにキッサキ方面への道順を尋ねる。テンガン山を知り尽くしている彼は、灯りを頼りに東へ進んでいくと赤い印のある岩があることを教えてくれた。いつ誰がつけたのかはわからないが、それがキッサキ方面への目印になっているのだという。
「その印を左に曲がって道なりに下っていくと霧の立ち込める湖があるから、それを右手に見ながら直進しな。あとは、ま、行けばわかる」
私は快く道を教えてくれたやまおとこさんにお礼を言ってから、テンガン山に向き直る。首を痛いくらい上に向けても、その山頂は見えない。
カンナギで時間と空間の神様の巨大な壁画を見た時のことが頭の奥に蘇る。2体のポケモンの首が交差する様子が巨大なテンガン山のように見えて。もしかしてあの神様は今もテンガン山にいるのではないか、と考えたのだけれど……。
見上げた先のテンガン山は本当に巨大で、広大で。このどこかに伝説の神様がいたとしても不思議じゃない。そう思わせる力が、テンガン山にはあった。
私はこの山のどこかにいるかもしれない神様に、深く一度お辞儀をする。どうか、無事に山を抜けられますように。そう祈ってから、私とゴーストは二度目のテンガン山踏破に向けて洞窟へ足を踏み入れた。
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