雪の中の慣れない道のりにすっかり疲れきっていた私は、今日はもう216番道路のロッジで早めに休むことにした。管理人さんに一泊分の宿泊料を支払って、早速山小屋に上がらせてもらう。
なんとこのロッジには、小さいがお湯に浸かれる浴室があった。私が数日をかけてテンガン山を抜けてきたことを見抜いた管理人さんは、すぐにお風呂を沸かして、更に洗濯乾燥機も貸してくれた。薪で温めたお風呂に入って、清潔な洋服に袖を通すと、大自然の中から文明の中に帰ってきたことを実感する。
ひとまず無事にここまで来られたことに安堵していると、談話スペースの方からいい匂いが漂って来た。その瞬間、私のお腹がぎゅるると鳴った。けたけたと笑ったゴーストをちょっとだけねめつけてから、しかし自身の欲求に逆らえず、私は談話スペースの方を覗き込む。
談話スペースには、暖炉の投げかける暖かな明かりが満ちていた。その真ん中で、管理人さんが暖炉の火でスープを作ってくれているところだった。
「おお、上がったか。はじめての雪山、大変だったろう。少し早いが食事にするといい」
精悍な顔つきを和らげて微笑んだ管理人さんの優しい言葉に甘えて、すぐにスープをごちそうになった。この雪山の木から削り出したお椀にたっぷり注がれたスープはマトマとクラボでちょっとだけピリ辛な味付けをされていて、私の体を芯から温めてくれた。久しぶりの温かい食事に、思わず頬が緩む。
「お、美味しい……!」
「そりゃよかった。おかわりもあるから欲しかったら言ってくれ」
なにからなにまでありがとうございます、と私が頭を下げると、管理人さんは軽く肩をすくめてから「まあ、お代も貰ってるからね」と言って、それから茶目っ気のある笑みを浮かべた。私はそれにつられるように笑ってからもう一度お礼を述べて、食事を再開する。
ゴーストたちと一緒に温かな食事をゆっくりと味わっていると、216番道路で修行やスキーをしていたトレーナーたちが今夜の宿を求めて続々とロッジを尋ねてきた。彼らは慣れた様子で雪に濡れた服を暖炉の近くにかけて、管理人さんのスープを口に運ぶ。
私は彼らと同席させてもらい、他愛のない話をしながら雪山での振る舞いについて様々なアドバイスをもらった。
例えば、つい先程、みんなが暖炉の近くに服をかけていたのもそうだ。雪で濡れた服が翌日に出発するまでに乾いていないと、濡れた服を着て無駄に体温を失うことになってしまうのだという。それを聞いた私は、鞄の脇にたたんで置いていた防寒着を取りに行く。いくら防水とはいえ溶けた雪の水分で少し湿っていたそれを、彼らに倣って暖炉の近くにかけた。
「217番道路は特に雪深いから、気を付けて進むこと。でもって、もし天候が悪かったらすぐに引き返した方がいいわ。冬山で大切なのは、進む勇気よりも戻る勇気よ」
「もし引き返すのも難しかったら、その場でビバークをした方がいい」
スキーを履いて雪山の縦走もするというスキーヤーのナツキさんとフジヤさんが教えてくれた、ビバークという聞き慣れない言葉。それに私が首を傾げると、彼らは顔を見合わせてからロッジの管理人さんに声をかけた。
「ねえユキヒロさん、あれある?」と尋ねられた管理人さんは、「ああ、あるよ」と言って奥の棚から竹網籠を取り出してこちらに差し出す。受け取ったナツキさんは、中から1枚のディスクを取り出すと、それを私に手渡した。見覚えのある、茶色い光沢のあるディスク。あれは、技マシンではないだろうか?
「雪山に行くなら、穴を掘るを使えるポケモンがいた方がいいよ」
ビバークというのは、悪天候などで後にも先にも進めなくなった時に、洞窟などで緊急的に一夜を明かすことらしい。近くに洞窟などの物陰がないときは、自分で休む場所を整えなければならない。もちろんそんな事態にはならないに越したことはないが、万が一の事態になった時にビバークができたかどうかは生還率に直結するのだそうだ。
私はその場でフジヤさんたちに頼み込んで、ビバークについての知識を分けてもらった。つい先日コウキくんと交わした、無事に帰るという約束。そのためにも、できることは何でもしておきたいと思ったのだ。
穴を掘るを覚えたゴルダックと一緒にビバーク用の雪洞の掘り方を聞いていると時間はあっという間に過ぎていった。私はナツキさんとフジヤさんにお礼とおやすみの挨拶をしてからロッジの広間で寝袋にもぐり込むと、明日に備えて早めに就寝した。
朝になると、216番道路は昨日の雪模様が嘘のように晴れていた。ロッジの管理人さんは表のウッドデッキでタバコをくゆらせながら「寒波がきてるはずなんだが……こんなこともあるんだな」と言って淡い水色の空を見上げていた。
私は朝食と、それからサンドイッチの簡単なお弁当まで用意してくれた管理人さんに何度もお礼を言ってから、屋根に雪の積もったロッジを出発した。
ロッジを出て少し行くと、雪に埋もれた木製の看板が辛うじて頭を覗かせているのを見つけた。雪を払って文字を確認する。エイチ湖やキッサキの方に行くには、ここで北に進路を変える必要があるようだ。
昨日タウンマップで確認したところによると、ここから先は217番道路になるのだが……私の目の前に見渡す限りに広がっているのは、針葉樹の森だった。どうやらこれからはこの森の中を北上していくようだ。
217番道路は雪があまりに深く降り積もっているため、木々の幹は見えなくなってしまっていた。幹を数メートル雪の中に埋めてなお葉を茂らせている森の木々の生命力に感動すると同時に、いつもは手を伸ばしても届かないはずの梢が目の高さにあることに不思議な感覚を覚える。
試しに手近にあった木の枝に触れてみると、積もっていた雪が枝の揺れに合わせて舞い、そのままはらはらと散って消えていった。
つい先日、ミオの街にいた時にも雪が降っていたけれど、港町の雪とは明らかにその質が違っていた。海沿いの街に降る雪は湿度を含んだぼたん雪だったが、極寒の雪林に積もる雪はさらさらと乾いた粉状の雪だった。氷点下の世界の中では降り積もってからも雪が解けることがないせいで、雪が塊のようにならずいつまでもさらさらとしているのだろう。
私はそれから数回ほど梢を揺らして雪がぱっと舞う様を眺めていたのだが、ふとゴーストの様子が気になって手を止めた。いつもなら私と一緒になって雪遊びをしそうな彼の飄々とした声が、聞こえてこない。
ちらりと見遣った先のゴーストは、初めて見るであろう雪の森を静かな眼差しで見つめていた。
その少し真剣な横顔が、初めて見る絶景に浮かれていた私の気持ちを引き締めてくれた気がした。
どこまでも続く、美しい雪の森。日差しを受けて輝く純白と深い緑が描く芸術の様な景色は、しかし一歩間違えば旅人の命なんて簡単に奪ってしまう。そのことをゴーストのおかげで思い出すことができたのだ。
足がすくむような感覚がするのは、きっと寒いからではない。雄大な自然の前に、私は本当にちっぽけだ。そのことが少しだけ恐ろしく、でも同時に、とても大切なことのように思えて。この気持ちを忘れないように胸の奥にとどめておかなければならないと思ったのだ。
少しの恐怖心を抱えたまま、私はゴーストに「さ、行こうか」と静かに声をかける。そしてワカンをつけた足を大きく一歩踏み出した。
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