217番道路は、今まで旅をしてきた中で最も静かな場所だった。
厚く降り積もった雪が、私の息遣いはもちろん、野生のポケモンが時折たてるかすかな物音までも吸い込んでしまうからだ。

森の木々の向こうに、巨大な木のうろの影に、ポケモンの気配はあるような気がする。しかし彼らの声や足音は雪に吸い込まれるように消えてしまって、どこにいるのか、或いは本当にいるのかさえもわからなかった。
ゴーストが黙り込んでしまうと、本当にこの場には私ひとりしかいないような静寂が満ちる。

人の気配が全くないことも、静けさの一因かもしれない。
ここは昨日通ってきた216番道路と比べてもあまりに雪深く、またロッジゆきまみれのような拠点となる山小屋もない。今までの道路と違って、人が気軽に立ち入れる場所ではないのだろう。
217番道路に足を踏み入れるのはキッサキシティを目指す旅人か、どうしてもこの雪原の中で修行をしたいという酔狂なトレーナーに限られる。その酔狂なトレーナーも216番道路との分岐のあたりで数人に会ったのが最後で、それ以降は人影を見ていない。

私が雪を踏む音と、時折吹く風の音だけが、私の鼓膜を揺らす全てだった。
この少し寂しくて、でもどこか心地よい静寂を体いっぱいに感じながら、私はエイチ湖を目指して進んでいく。

森を北に行くにつれて、雪の深さはどんどん増していった。ワカンをつけていても体が雪に沈み込むことは避けられなくなってくる。
雪山用の道具をつけていてこうなのだから、もしも準備が充分でなかったら体が全部埋まってしまっていてもおかしくない。私は雪山用品を勧めてくれた店員さんに心の中で感謝しながら、ミオで買った伸縮型のピッケルを取り出した。その柄を伸ばしてストックのようにすると、それで体の前の雪を一段掻き落としてステップ状にしてから進むという、つい昨日ロッジで聞いたばかりの方法でゆっくりと、しかし着実に前へ進んだ。




お昼は、丁度ふとももほどの高さのところに張り出していた針葉樹の太い枝に腰かけて、ロッジの管理人さんにいただいたサンドイッチを食べた(この枝も本当なら手の届かない高さにあるのだろうが、雪が高く積もっているおかげで簡単に座ることができた)。
鞄に昼食を入れて歩くと凍っちまうから気をつけなよ、と半ば冗談めかして笑っていた彼の言葉に従って懐に入れていたサンドイッチは無事だったのだが、特に気にすることなく鞄に入れていた水のボトルはなんと内部の液体が外側から凍り始めていた。

「本当にこんなふうになるんだ……」

私は管理人さんの言葉を思い出しながら、氷点下の雪山の恐ろしさを改めて感じる。それから少し考えて、鞄の中身を少し整理することにした。携帯食料や水のボトルはなるべく鞄の布地越しに私の体に触れる位置に入れ直す。果たしてこれにどれほど意味があるかはわからないが、どんなことでもやらないよりはやった方がいい。

少し時間をかけて鞄の中身を整理してから、私は雪上の旅を再開した。
昨日ロッジで聞いたところによると、217番道路の中ほどを過ぎたあたりに避難小屋があるらしい。今日はその避難小屋で一泊するつもりだった。慣れた人なら一息にエイチ湖まで抜けることもできるらしいが、私は雪山初心者だし無理は禁物だ。今日は建物の中でちゃんと休んで、明日エイチ湖を目指そう。

――この時の私は、それが最も安全な計画だと信じて疑わなかった。

しかし、結果としてそれは誤りだった。
できる限り早くエイチ湖に行って、ジュンくんの無事を確かめないと。自分でも意識していなかったその焦りは、しかし確実に私の判断に影響を与えていたのだと思う。
これだけ準備をしてきたんだし、今日は避難小屋まで行けるだろう。そう決めつけて、自然の中を行くうえで最も考慮しないといけないものをすっかり忘れてしまっていた。つまり、旅人としてその肌身で感じなければならない天候のことを全く気にとめていなかったのである。

予兆はいくつかあったように思う。
あれは確かお昼の休憩の後、30分ほど歩いた頃のことだった。今まで静まり返っていた217番道路に、ふと強い風の音が響き渡った。それは、私の進行方向、すなわちキッサキ方面から吹いてきた冷たい風だった。積もっていた粉雪を巻き上げながらこちらに向かってきた突風に、ゴーグルをつけていなかった私は慌てて腕で顔をかばう。
ごおっと駆け抜けたその風に圧倒されたのは一瞬。風が去ってしまえば、また辺りに静寂が戻ってきた。私はゴーストと顔を見合わせて少し肩をすくめてから、何事もなかったように足を進めた。

今にして思えば、私はその風になにかを感じなければいけなかった。
或いは、これまで快晴だった空に北の方から雲が流れてきていたことや、それまでかすかにあった野生のポケモンの気配が全くなくなっていたことに、もっと敏感になるべきだった。
何かひとつでも異変を感じ取っていれば、私はスキーヤーのナツキさんの「大切なのは、進む勇気よりも戻る勇気よ」という言葉をもっと早く思い出していたことだろう。少なくとも、猛吹雪で身動きが取れなくなる前に。

いくつかの予兆を見逃していた私にとって、天気が変わったのは本当に一瞬のことだった。
なんだか空が暗いな、と思って空を見上げた時にはもう雪が降り出していた。私が鞄からゴーグルを引っぱり出している間に雪と風は強くなり、晴れていた217番道路はあっという間に吹雪に変わってしまったのだ。

そうなって始めて、私は様々なことを思い出した。今は今年一番の寒波が来ていたこと。変わりつつあった天気の予兆。引き返す勇気を説いてくれたナツキさんの声。
――しかし、もう遅い。私は吹きすさぶ吹雪の中で大きな後悔を感じていた。あの時ああしていれば、という考えがいくつも浮かんでは消えていく。そうして半ば呆然として吹雪の中に立ち尽くしていたのだが。

そんな私の耳に、風の音の向こうからゴーストの声が届いた。突然に悪くなってしまった視界のせいで、私のことを見失ってしまったのだろう。いつも余裕を見せて私のことを助けてくれる彼の、少し切羽詰まったような声。声の限りに私を探してくれているのだとすぐにわかった。

ゴーストが懸命に私のことを呼ぶその声が、私にやるべきことを思い出させてくれた。

びゅうびゅうと吹く風が入ってこないように防寒着のチャックを首元いっぱいまで引き上げながら、私はゴーストの声がした方へ大きく一歩、足を踏み出す。
鞄から出したばかりのゴーグルを確かな手つきで装着してから、私は自分が次にするべきことについて頭をフル回転させて考えた。

そう、後悔はいつでもできる。
今はこの吹雪の中をゴーストたちと生き延びることを考えないと。


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