幻想的な217番道路の朝をしっかりと記憶に留めて、私はユキメノコの棲み処を後にする。
別れ際、私はふと思い出して、モミさんから貰った鈴を鞄から取り出した。つい先日、私とリーシャンの縁を結んでくれた特別な鈴。私はそれをちりんと鳴らすと、ユキメノコに差し出した。
「昨日は本当にありがとう。もしよかったら、貰ってくれないかな?」
私とリーシャンの縁を結んでくれたように、この鈴が彼女と誰かの縁を結んでくれればいいなと思った。
今回私がユキメノコに助けられたように、いつか彼女を助けてくれるかもしれない誰かとの縁をこの鈴が結んでくれるといい。
ユキメノコは氷のように澄んだ瞳で、何も言わずに鈴を見つめる。……もしかして、余計なお世話だっただろうか。そう思った私が彼女に謝って鈴をしまおうとした瞬間、ユキメノコは小さな、しかしはっきりした声で短く鳴くと、私の手からその鈴をそっと受け取ってくれた。
一瞬触れた彼女の指先は氷ポケモンらしく心底冷たかったが、私の心には彼女が触れたところからじわりとした暖かさが広がっていった。はじめは私のことをあれだけ拒絶していた彼女が私の手から鈴を受け取ってくれたことが、とても嬉しかった。
ユキメノコはその手の中で鈴を転がす。澄んだ音が辺りに響き、それに呼応するようにユキメノコの眦が少しだけ緩んだ。
気に入ってもらえたならなによりだ。私は最後にユキメノコにもう一度感謝と、それから別れを告げて、しんしんと雪の降り続く217番道路に足を踏み出した。
それからは、昨日の反省も踏まえて天気の様子を見ながら北へ進んだ。
朝は薄かった雪雲は、また次第に厚くなりざんざんと雪を吐き出し始める。このままだとまた吹雪で視界を閉ざされてしまうかも、と思った矢先、ずっと続いていた針葉樹の森が不意に途切れた。森が終わったのだろうか。そう思いながら辺りを見渡して、私は自分がかき分けて進んだ雪の下からみずみずしい緑色の草葉が覗いていることに気が付いた。
緑の葉が見えているということは、このすぐ下に大地があるということだ。何メートルも雪が積もっている217番道路の最も雪深い部分を越え、私はいつの間にかエイチ湖のほとりに差しかかっていたようだ。
湖のほとりを北へ進むにつれて、雪の降り方がだんだんと穏やかになっていく。次第に積もる雪も薄くなり、ところどころに背の低い草むらが見えるようになった。まるでこの湖の周辺だけが見えない力に守られているような安寧な雰囲気が漂っている。
これもこの先にいる湖の神様の力なのだろうか。そんなことを考えながらなおも歩き、私はついに雪の積もる斜面の前にたどり着いた。
私は先日タウンマップで確認した道を頭の中に描く。たしか、ここを右折して東に進むとキッサキシティがある。そして、東へは行かず、この険しい斜面を登りきるとエイチ湖があるのだ。
湖は目と鼻の先だ。しかし、今はまだそこにたどり着くことはできない。
この斜面を登るには秘伝技のロッククライムが必要なのだということは、ミオシティで雪山登山の道具を売ってくれた店員さんから教えてもらって知っていた。ここには北の海からテンガン山に向かって冷たい北風がずっと吹いている。その凍える風の中では、飛行ポケモンはトレーナーを乗せてうまく飛ぶことができないのだ。だから、湖を訪れるにはこの斜面を登らなければならない。
もちろん登山の上級者はこの斜面を自ら登ることもできるのだろう。でも私のような旅のトレーナーは、滑落の危険もあるので素直にポケモンの力を借りるべきなのだと思う。
テンガン山を抜け、雪深い山間の道を進み、吹雪の217番道路を抜けてもまだたどり着くことができない秘境の湖。私はその湖面を頭の片隅に思い浮かべながら首を持ち上げて、この断崖のてっぺんを見上げる。
その時だった。エイチ湖の方を見上げた私の視線の先で、けたたましいポケモンの鳴き声が弾けた。次の瞬間、低い爆発音と黒煙が上がる。
おそらくあれは、ポケモン同士の技がぶつかった衝撃波だ。この上で誰かがポケモンバトルをしているのだとすぐにわかった。
神聖な湖でポケモンバトルをしなければならない状況といえばひとつ。きっと、この先にギンガ団がいる。そしてギンガ団と戦っているのは彼に違いないという確信があった。ノモセの湿原で出会った、太陽のような金の髪と笑顔が眩しい男の子。
「ジュンくんだ……!」
その瞬間、私の胸に「ジュンのことをお願いね」と言ったヒカリちゃんの瞳の色がふっと浮かんだ。たまに憎まれ口をきくこともあるけれど、世界でたった一人の大切な幼馴染を心から心配していた彼女の不安げな眼差し。
ギンガ団に会って一連の湖襲撃の真意を問いたい思いと、ジュンくんの無事を確かめたい気持ちが、私の中で同時に跳ねた。
私は激しいポケモンバトルの残響を聞きながら、きょろきょろと周囲を見渡す。すぐ右手側の斜面に、足場になりそうな凹凸があった。幸いなことにその凹凸はこの断崖のてっぺんまで途切れることなく続いている。
こうなったら、私のやるべきことはひとつだと思った。決意を固めるように短く息を吸って、吐き出すと、鞄からアイゼンを取り出してワカンと付け替えた。斜面の雪にアイゼンの棘を突き立てるようにして感触を確かめる。……うん、大丈夫。これなら滑らない。
私はこの崖の頂上を見上げると、湧き上がってくる衝動のまま、その斜面を登り始めた。
両手でしっかりと岩を掴み、くぼみに足をかけ、雪の断崖を登っていく。
次第に手袋に雪の水気が染み込んできて指の感覚がなくなってきても、私は登るのを止めなかった。ここで足を止めたら、きっと下を見てしまう。そうすればあまりの高さに怖気づいてもう後にも先にも進めなくなってしまうかもしれないし、なにより。ジュンくんとヒカリちゃん、それから私のために、一刻も早くエイチ湖にたどり着きたかったのだ。
私を突き動かしたその高揚感は、最後まで私に力をくれた。なんとか斜面を登りきった私は、高台のふちを右手で掴む。右手と踏ん張ったままの左足に力を込めて、体をぐっと持ち上げた。すぐさま崖のふちに左肘をかけるようにして取り付く。両手と腹筋に力を込める。
そのまま転がり込むようにして辿り着いたエイチ湖の高台。一面の銀世界の真ん中にあったのは、極寒の環境下でも凍ることなく滔々とした水を湛える湖。それから、そのほとりでポケモンを戦わせるふたつの人影だった。
私に背中を向けている少年の、その柔らかそうな金の髪が北風に揺れている。
ジュンくんだった。彼の無事を確認して小さく安堵したのは刹那。すぐにジュンくんが彼の手持ちと思しきゴウカザルに「火炎車だ!」と指示を飛ばしたことで、私の意識は再び一気に緊張する。
そう、彼の無事を確認するだけが、私がここに来た目的じゃない。
ジュンくんの視線の先にいるギンガ団。彼らの暴挙から湖を守るため、そして私の目指す碧い瞳の男の手がかりを探るために、私はその姿を求めて視線を走らせた。
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