断崖をよじ登ってきたせいですっかり息が上がっていたが、今はそれを気にしている時ではない。私は懸命に脳に酸素を送りながら、彼らの姿を目で追う。
「ゴウカザル、火炎車だ!」
「スカタンク、辻斬り」
ジュンくんの声を受けて、彼のゴウカザルが激しい炎を纏った。そのまま湖畔の雪を溶かしながら相手に向かって突進していく。
その先にいたスカタンクと、彼に辻斬りを指示したギンガ団の女性に見覚えがあった。忘れるはずのない妖艶な笑み。ハクタイのアジトで戦ったスカタンクと、幹部のジュピターさんだった。
その瞬間、私の脳裏にスカタンクと会敵したときの記憶が蘇った。ゴースではなく私に向かって勢いよく辻斬りを放ったスカタンク。その爛々と輝く眼差しと、鋭い爪――
これはまた私の杞憂かもしれない。でも、そうではないかもしれない。
だとしたら、私がこうしてここまで来たのは全てこの一瞬のためだと思った。
私の意図を察したゴーストは、既に私のことを追い越してエイチ湖の方へ飛び出していた。
私はその背中に、彼の待っているであろう言葉を投げかける。
「シャドーパンチ!」
私の声がエイチ湖のほとりに響き渡ったのと、スカタンクがその巨体を巧みに操ってゴウカザルの火炎車を躱したのが、ほぼ同時。
次の瞬間、スカタンクは後ろ足に力を込めるとものすごい勢いでジュンくんに向かって辻斬りを放った。事態を察知して急ブレーキをかけたゴウカザルが、何とかスカタンクを止めようと踵を返してこちらに駆け出す。スカタンクと目が合ったであろうジュンくんの背中がぎりっと緊張する。
間に合え。そんな私の心の声に応えるように、ジュンくんの目の前にゴーストが躍り出た。突如目の前に現れた闇色の背中に驚いたジュンくんが1歩後ずさったのと対照的に、ゴーストはその体を右腕と同時に前に突き出す。
スカタンクの眼がぎゅるっと動いて、ゴーストの攻撃の軌道を確認する。そして、彼は辻斬りの軌道を即座に左へ逸らしてゴーストの攻撃を避けた。その爪の先がジュンくんの頬のほんの先をかすめていく。
スカタンクの爪の軌跡がジュンくんから外れたのを見ながら、私は小さく息をついた。
まだギンガ団の幹部が目の前にいる状況ではあるけれど、とりあえず、最悪の事態は避けられたと思ったからだ。
自分の目の前をかすめていった爪の軌跡を視線で追ったジュンくんは、そのまま視線を左後ろに流す。そうして初めてその向こうに私がいたことに気付いたようで、その琥珀色の目を見開いて私の名前を呼んだ。
彼の視線を追うように、ジュピターさんがその赤紫色の瞳をこちらに向ける。
そして、私の姿を認めてこう言った。
「あら、あなた……ハクタイで会ったわね」
ジュピターさんはそう言いながら、その双眸をすっと細める。つい先程、ジュンくんとバトルをしていた時に浮かべていた嗜虐的な笑みが消え去って、私のことを探るような眼差しがこちらに向けられた。
彼女は真意の読めない瞳で私を見つめながら続けた。
「もうギンガ団に関わるなって言わなかったかしら?」
そう言いながら、彼女は手で合図をしてスカタンクを呼び戻した。スカタンクはジュピターさんのもとに戻ると、その尻尾を私の方に向ける。いつでもお前を攻撃できるぞ、という意思表示だった。その敵意を痛いほど感じながら、私は彼女とは反対にこちらに近付いて来ようとしていたゴーストを手で制した。
大丈夫。そこにいて。
ゴーストは少し戸惑ったようではあったが、私の意志を尊重してその場で静止してくれた。
ジュピターさんの弓なりに整えられた眉が、訝しげに持ち上げられる。私が彼女の意図をはかりかねているように、彼女もまた私の考えていることがわからずに戸惑っているのだと思う。
話せばわかり合える、というのは、暗碧の眼差しで世界を見つめるあの人に言わせれば今まで幸せに生きてきた私の幻想なのかもしれない。
でも、話してみないと、そのきっかけすら得られない。リッシ湖、シンジ湖と、ギンガ団の幹部と対話をしようとして、私はその全てに失敗してきた。たぶん、これが最後のチャンスなのだと思う。
対話の意志を示すために、私は腰のホルダーの留め具を外してそれを雪の上にそっと落とした。敵対する気はないことを示すには、こうするしかないと思ったのだ。
私の背後でジュンくんが焦ったような声を上げる。そして雪を蹴ってゴウカザルと一緒に私のことを守ろうと駆け出してくれたのだが。
「ジュンくん、お願い」
私は小さく振り返って彼の視線を受け止めると、短くそう懇願した。お願い、これがきっと最後の機会なのだ。
危ないのは分かっている。でも、こんな無茶ができるのは、背後にジュンくんが控えてくれている今しかないように思えた。
あの人に繋がるかもしれない細い糸を離さないためなら、どんなことでもしたかった。どうか私のやりたいようにやらせてほしい。
私の思っていることがどれだけ彼に通じたのかはわからない。
ただ、結果としてジュンくんはいつも猪突猛進なその足を止めてくれた。
ありがとう。目を伏せて感謝の意を示してから、私はジュピターさんに向き直る。
彼女は少しだけ首を傾けて、こちらに探る様な視線を向けていた。その首の角度が、私が会いたいと願ってやまない彼らのボスの姿を私に思い出させたのは刹那。私はエイチ湖の澄んだ空気をすうっと肺に取り込んで息を落ち着けると、先程の彼女の言葉を受けてこう口にした。
「……ギンガ団に関わるべきじゃないっていうのは、なんとなくわかってるんです」
私の口からもれる白い吐息が、エイチ湖の湖畔に消えていく。ジュピターさんはそれを見送ってから、私の言葉の続きを待つように意味深長な眼差しをこちらに投げかけた。
ギンガ団の幹部が私の言葉を待ってくれている。これはここまで旅をしてきて初めてのことだった。どうして彼女が私の話を聞く気になってくれたのか、それはわからないけれど……私はこの稀有な機会を逃さないように、慎重に言葉を選ぶ。
「私はたぶん危ない目にあうし、ギンガ団の人たちは私がいると……きっと、邪魔で、仕事がはかどらない。たぶん、お互いにいいことがないんだとは思います。
でも、私の会いたい人がギンガ団にいるんです。どれだけ邪魔だって思われても、拒まれても。会って、話して、私はあの人のことを知りたい」
出会った時から私のことを惹きつけてやまないその瞳を思い出すたびに、頭の片隅に蘇る言葉がある。
『心があるせいで、争いがなくならない』
『争いをなくすための、時間と空間の二重螺旋』
時間と空間の二重螺旋、というのがシンオウ神話に語られる時間と空間の神様のことなのだとしたら、そこから導かれる答えはひとつだ。私はミオの図書館で神話の知識を得てからずっと考えていた仮説を、ジュピターさんに投げかける。
「あの人は、不完全な心があるせいで争いがなくならないって言っていた。争いをなくすための時間と空間の二重螺旋だとも。
ギンガ団が創ろうとしているのって、もしかして心のない世界なの……?」
私が意を決してそう問いかけると、ジュピターさんはその美しい切れ長の双眸を見開いた。それから囁くような声で「……そう言ったの? ボスが」と私に問い返す。
私はあの人のことを誰とはあえて言わなかったけれど、ジュピターさんにそれが誰なのか、なんとなく伝わっていたようだ。
「アカギという人があなたたちのボスなら、そうです」
「……」
ジュピターさんは私の言葉に否定も肯定も返さなかった。ただその瞳を伏して、何かを考えるように眉間に皺を寄せる。
私たちの間を、湖の奥から吹いてきた冷たい風がひゅうと駆け抜けていく。それに前髪を遊ばせたジュピターさんは、それからゆっくりと視線を持ち上げて真っ直ぐに私を見た。赤紫の瞳に気高い光を宿して、彼女は言った。
「私は、すべての人とポケモンのためにギンガ団が正しい世界を創るのだというボスの言葉を信じているわ。
だからね、あなたが何と言おうとあなたはボスの、私たちの敵なの」
鋭い声でそう言った彼女。私はその眼差しを正面から受け止めて、嘆息の漏れそうになった唇を強く引き結んだ。まただめだった。最後のチャンスだったのに。その落胆を顔に出さないように奥歯を噛みしめながら、両の拳をぎゅっと握りしめる。
そんな時だった。気高い瞳で沈黙を守っていたジュピターさんが、その口角を少しだけ持ち上げて薄い笑みを浮かべたのは。
私が彼女のその笑みの意味をはかりかねている間に、彼女はおもむろにその懐から小さなカードを取り出した。そしてそれを私の足元に向かって放る。それは緩やかな放物線を描いて私の足元の雪に音もなく突き立った。
半ば呆然と見つめた先のジュピターさんの瞳は、エイチ湖のほとりに積もった雪の照り返しを取り込んで不思議な輝きを宿していた。
白銀の光を受けてきらきらと輝いているようでいて、しかし同時に深淵を覗き込んでいるかのように暗い色も垣間見える複雑な瞳で、彼女はこう続けた。
「……でも、あなたの見てきたものも真実なんでしょうね。
だから今回だけ手を貸してあげる。覚悟があるなら、トバリのアジトに行きなさい」
拾い上げたそれは、カード型の鍵のようだった。彼女の言葉から察するに、これはトバリのアジトの、かつて私がその近くまで行って中に入ることを諦めた建物の鍵なのだろう。
私はカードキーを握りしめながらジュピターさんを見つめて「……どうして?」と問いかける。あの人への道が繋がったことは嬉しいが……彼女の言った通り、私はギンガ団の敵だ。どうしてジュピターさんは私のことを手助けしてくれたのだろう。
彼女は風に乱れた前髪を優雅な手つきで直しながら、どこか遠くを見るようにその瞳を細める。私の方をぼんやりと見てはいるが、その瞳に映っているのはきっと私ではないのだろう。彼女は私には分からない何かを見つめながら、素っ気ない声でこう言った。
「ただの気まぐれよ」
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