オニゴーリの絶対零度で凍りついた湖を、ジュンくんのゴウカザルが火炎放射で溶かしていく。
それを視界の隅に捉えながら、私はユキメノコとオニゴーリに改めてお礼を伝えた。私たちを、それになによりエイチ湖とそこに生きるポケモンたちを救ってくれてありがとう。
彼らは私の声に小さく頷いて、それから2体で何かを鳴き交わす。ユキメノコがオニゴーリの少し寂しそうな声に応えるように頬を優しく撫でると、彼はその鋭くつり上がった目を閉じて長く鳴き、それからくるりと踵を返して217番道路へ戻って行った。
……どうしてだか、ユキメノコを残して。
彼女はオニゴーリの背中が雪の中に消えるまで見送ってから、すっとこちらに向き直った。そして、私のことを真っ直ぐに見上げる。氷のように透き通った瞳に、私のきょとんとした顔が映り込む。
ユキメノコは高く澄んだ声で短く2度鳴いて、それからどういうわけだか私の方にふうっと冷たい息を吹きかけた。また何か彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうかと身構えそうになった私の脳裏に、ふと昨夜の洞窟での彼女の様子がよぎった。すやすやと眠るユキワラシたちのことを慈しむように歌いながら、冷たい吐息を彼らに吹きかけていたユキメノコ。
もしかしてこれは、彼女なりの親愛のしるしなのだろうか。そう思い至った私は、彼女の冷たい吐息を正面から受け止めた。私の髪がその風にふわりと舞う。それは確かに冷たいが、とても優しい風だった。それにつられるように、私の口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
ユキメノコはそんな私を見上げてからすっと視線を下に逸らし、着物の袖に似た手で口元を隠した。そして、北風のような声で小さく鳴く。
彼女が何と言ったのかはわからない。しかし、彼女のその声と仕草が、オニゴーリを見送って私を見上げてくれたその瞳が、私のこの言葉を待っているような気がした。
「……ねえ、よかったら、私といっしょに行かない?」
このユキメノコがどんなふうに生きてきて、どう人間と関わってきたのか、それは分からない。でも、人間を憎むように睨みつけていたはずの彼女がこうして静かに私の言葉の続きを待っているのには、きっと理由があるはずだ。
私は彼女が望む言葉を選びながら、頭の片隅で自分が旅に出た時のことを思い出す。どうしてかはわからないけれど、足元から駆け上がってくる衝動が『旅に出ろ』って私のことを急かしていたのをよく覚えている。あの衝動の正体は今もよくわからないままだけど……ひとつはっきり言えるのは、私はあの日旅に出てよかったということだ。
「もちろん、ここに帰りたくなったらいつ私と別れてもいい。
もしもユキメノコさえよかったら、これからも私のことをさっきみたいに助けて欲しいの」
旅立ちに必要なのは旅に出たいという強い気持ちと、それをそっと後押ししてくれる優しい誰かの手助けだ。
私はなんだかんだ言いながら旅立ちの準備を細かに手伝ってくれたデンジのことを思い出しながらそっと微笑む。見送る役目だった彼とは少し立場が違うけれど……でも、あんな風に誰かの決意を後押しできたなら、私も少しは大人になれたよって胸を張ってナギサに帰ることができる気がする。
私はあの日彼から貰った優しさと勇気を思い出しながら、ユキメノコに向かってそっと手を伸ばした。
「だから、さ。いっしょに行こう」
ほとんど確信を持ってそう言った私の視線の先で、ユキメノコは氷のようなその眼差しをとろけさせて目を閉じる。そしてたおやかな動作で小さく一度頷くと、私の手をそっと取ってくれた。彼女の持っていた鈴がりんと優しい音を立てる。私は彼女との旅路がこの鈴の音のように優しく軽やかなものになることを祈りながら、ユキメノコの手をそっと握った。
私はユキメノコのことをボールに収めてからジュンくんの方に歩み寄る。彼のゴウカザルはすごい火力で湖の氷をあっという間に溶かしてしまったようで、その湖面は穏やかな表情に戻っていた。
しかし湖を守っていた神様がいないせいか、北から吹く風は少しずつ強く、そして冷たくなっている。ジュンくんも気候の変化を敏感に感じ取っているようで、「さ、もう湖に用もないし早く帰ろうぜ!」と言ってゴウカザルの背中に掴まった。
「ほら、ナマエも早くロッククライムしろよ。遅れたら罰金100万円な!」
私は彼にそう言われてはじめて、必死に登ってきたあの断崖を、今度は下らなければならないことを思い出した。
私は試しに崖の端に立って、切り立った崖下を見下ろしてみる。結構な高さと、雪の積もった不安定な足場。切羽つまっていたとはいえよく登ってきたな、と他人事のように感心しながら、さてどうやってこれを下りようかと頭を悩ませた。しかし考えたところで良案が浮かぶわけもなく。私は早々に観念して、来たときと同じように自らの足でこの断崖を下りることにした。少し出っ張った岩に右足をかけて、そこに体重をかけようとした、まさにその時。
「ななな、なにやってんだよ! ナマエ!」
ふと顔を上げたらしいジュンくんの慌てたような声が、エイチ湖のほとりにこだました。
私は右足を崖から出しかけた体勢のまま、まだキッサキジムに挑んでいないこととロッククライムを使えるポケモンがいないことを手短に説明する。
「はあ? じゃあお前、どうやってこの崖を登ったんだよ」
「え……自力で」
「嘘ついたらマジで罰金100万円だぞ」
「う、嘘じゃないよ! 上でポケモンバトルの爆発が見えて、きっとジュンくんとギンガ団だって思ったら体が動いて、なんか登れたんだよね」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
ジュンくんはいまいち信じてないような微妙な視線を私に向けていたけれど、一応は私の言うことを本当だと思うことにしてくれたらしい。ゴウカザルに指示して、下りかけた斜面をもう一度登って私のところへやって来た。
「ほら、乗れよ」
いっしょにゴウカザルの背中に乗って下りようと言って、彼は私の方にその手を差し出す。
私が一緒に乗っても大丈夫か心配で、私が「重くないかな?」とためらうと、ジュンくんは自信たっぷりに「オレのゴウカザルなら大丈夫だって。なんたって鍛え方が違うからな!」と言ってにっと笑った。それに応えるようにゴウカザルが頼もしい声で鳴く。
「じゃあ、お願いします」
私はそう言って、おずおずとジュンくんの手を取る。彼はその左手にぐっと力を込めて私のことを引き上げてくれた。
ゴウカザルの背中は思っていたよりも逞しくて広くて、それになにより温かった。雪の断崖を登ったときにびしょ濡れになってしまっていた手袋を外していた私の手に、炎ポケモン特有の高い体温がじんわりと染み渡っていく。
思わず深いため息をついて眦を緩めた私を「しっかり掴まってろよ!」と叱咤してから、ジュンくんはゴウカザルに崖を下るように指示を出した。ゴウカザルは軽やかな身のこなしで崖をひょいひょいと下りていき、あっという間に崖の麓にたどり着いた。
「ありがとう、ジュンくんとゴウカザルのおかげで助かった」
ゴウカザルの背中からぴょんと飛び降りた私の足元で雪が舞う。それが北風に散ってゆくのを感じながら、私はジュンくんとゴウカザルにお礼を述べた。ジュンくんは「ま、このくらいなんでもないし。な!」とゴウカザルと一緒にまんざらでもなさそうに笑う。それから、「あ、そうだ」と思い出したように声を上げて、自身の両手から手袋を素早く外した。それを私の手の中にほとんど押し付けるように差し出す。
「これ貸してやる」
それはジュンくんにぴったりな元気な印象のオレンジ色が眩しい手袋だった。私はその手袋と、これを渡してくれた男の子のことを交互に見つめる。
たぶん、私のことをゴウカザルの背中に引き上げた時に私の手が手袋をしていないことに気付いたのだろう。その気持ちは嬉しいけれど、でも。
「ジュンくんがさむ……」
寒いんじゃないの? という言葉は、彼の「風邪ひいたら罰金1000万円な!」という慌ただしい声に遮られて届かなかった。
「早くつけろって。のんびりしてると置いてくぞ!」
私の背中をばしっと叩いて、彼はそのまま雪を巻き上げながら駆け出した。
「あ、待ってよ!」
私は彼の背中を追いながら慌てて手袋をはめる。優しいぬくもりが残った手袋は、ジュンくんの元気を私に分けてくれるような気がして。疲れていた体が少し軽くなるのを感じながら、私はキッサキシティを目指して走るジュンくんのことを追いかけた。
[ 203/209]← →