小走りにやって来た私に、ジュンくんは自分の隣の椅子を示して早く座るように促した。私はその椅子に座ってからジュンくんに小さく頭を下げる。
「お、お待たせしました」
「よし、じゃあかけようぜ!」
私は彼の快活な声に「うん」と頷いてから、博士から預かっていた研究所の番号を書き付けたメモを取り出した。番号を押す指がわずかに震えるのは、この電話がきちんと繋がるかどうか不安で少しだけ緊張しているからかもしれない。
少し前、マサゴからキッサキのポケモンセンターに電話をかけた時はあまりの悪天候のせいで繋がらなかったけれど、今日はどうだろう。さっきポケモンセンターに入った時に待合室のテレビから聞こえてきた天気予報では、停滞していた今年一番の寒波は昨日をピークに北の海上へ少しずつ戻っていっていると言っていたけど……。
数回のコール音の後に画面は明転した。よかった、繋がった。
画面の向こうにいたのはコウキくんのお父さんだった。彼は少し疲れた声で「はい、ナナカマド研究所です」と言いながら通話の相手を確認し、私とジュンくんだということに気付いてその顔いっぱいに笑みを浮かべた。彼はすぐさま私たちの名前を呼んで、その勢いのまま立ち上がる。
「ナマエちゃん! ジュンくん!
よかった、無事だったんだね。博士は奥にいるからすぐに代わろう! ちょっと待っててね」
彼が画面の右側へ消えていく一瞬の間に、その白衣にくしゃくしゃした皺がいくつもついているのが画面越しに見えた。
たぶん研究所は今、神様のいなくなってしまったシンジ湖とリッシ湖の調査で大忙しなんだろう。電話に出たコウキくんのお父さんの疲れた様子からそれが容易に窺えた。そんな中でも私たちからの連絡を心から喜んでくれたのは、素直に嬉しかった。
無人になった画面の向こうから、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。かと思ったら、すぐにコウキくんのお父さんが去っていった方向からナナカマド博士とコウキくんが現れた。
博士は私とジュンくんの名前をゆっくり呼んで、それから「無事でよかった」と言ってその厳めしい眉の下の瞳を和らげてくれた。
「無事に決まってんだろ、じーさん!」
そう言って笑ったジュンくんにつられるように、博士とコウキくんの顔にも笑顔が広がる。
安堵したようにふうっと息をついたコウキくんが、「それで、エイチ湖はどうだった?」と少しだけ声のトーンを落として尋ねた。私とジュンくんは視線だけで顔を見合わせてから、そこで起こったことをありのままに説明した。
キッサキジムを制覇したその足でジュンくんがエイチ湖に向かったこと。そこでギンガ団に出会ったこと。遅れて現れた私と共闘してギンガ団が湖を爆破することは避けられたが、知識の神様――ユクシーはギンガ団に連れ去られてしまったこと。
ナナカマド博士は目を閉じて大きく二回頷いてから、「そうか。わかった」と言った。それからゆっくりと目を開けて私とジュンくんの方を真っ直ぐに見ながら「危険に巻き込んでしまって、本当に悪かった」と厳格な口調で謝罪をした。
たまたま危険なことをしていたギンガ団が居合わせただけで、まっとうに湖の調査をしようとしていた博士が謝る必要なんてないのに。そう思った私とジュンくんが口々にそう言うと、博士は少し厳しい調子で「それでもだ」と口を開いた。
「私の指示で湖に行ったきみたちが危ない目に遭ったことに変わりはない。研究の責任者は私だ。私にはきみたちの安全を確保する義務がある。それが出来ないなら調査をしてはいけなかったんだ」
この厳しい口調は私たちではなく博士自身に向けられているのだということに、私は少し遅れて気が付いた。今回の件でヒカリちゃんやジュンくん、私の無事を聞いて誰よりも博士が安堵していたように見えていたのは、博士が強い責任感でもって私たちの無事を祈ってくれていたからだったんだ。
私もコウキくんも、いつもは騒がしいジュンくんでさえも、博士のこの言葉を静かに、そして重く受け止めていた。いつか私たちが大きくなったら、責任のある立場になることもあるかもしれない。その時は、きっと今日のことを思い出すだろう。誰よりも私たちのことを考えてくれていた博士の優しい眼差しと、その奥に隠れていた強い責任感を。
「ひとつ言っておくが、きみたちの実力を過小評価しているわけではないぞ。
今回の調査には確かに問題があったが、その課題が解決されればまたきみたちに研究を手伝ってもらいたいと思っている」
そう言って博士は、今回の問題点を分析して滔々と語った。
有事に備えて複数人、最低でもふたり一組で行動すべきだったこと。エイチ湖周辺の天候と通信状態も確認すべきだったこと。ギンガ団のようなシンオウを取り巻く社会情勢も考慮すべきだったこと、などなど。
かつて204番道路でギンガ団の下っ端団員に彼らの行動の問題点を指摘した時と同じ口調で淀みなく話し続ける博士。私とコウキくんはそれをうんうんと真剣に聞いていたのだけれど、ついに痺れを切らしたジュンくんが「わかったわかった、わかったよ!」と大きな声を上げてそれを遮った。
「じーさんの気持ちはよーくわかった! オレはじーさんが安心して調査を任せられるようにもっともっと強くなる! それでいーだろ!?」
画面の向こうのナナカマド博士が、唐突なジュンくんの言葉にその厳めしい眼差しをきょとんと見開いたのは刹那。博士はすぐにその豊かな口髭の下の口角を持ち上げて、実に愉快そうに声を上げて笑った。
「そう、ジュンの言う通りだな。
私のつまらん話はこのくらいにしておこう」
コウキくんが画面の向こうで「博士の話はつまらなくなんかないですよ!」と小さく抗議の声を上げる。博士は優しい眼差しで助手のその言葉を制してから、私たちの方に向き直った。
「ジュン、ナマエ。いろいろあったが……これからもよろしく頼むぞ」
キッサキのポケモンセンターに、ジュンくんと私の返事が勢いよく響き渡る。私たちのその様子を見て博士は感慨深そうに瞑目して、大きく一度首肯したのだった。
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