木々のアーチを抜けた先に、もうひとりの男はいた。
彼はこの花畑の持ち主と思われる中年の男性に向かって声を荒げていた。甘いミツを寄越すように言っていること、それをポケモンの乱獲に使用するつもりでいることが、彼の口から明らかになる。
「俺はギンガ団だ! その気になればこんな花畑一瞬で消し去れるんだ! 命が惜しかったらさっさとミツを持って来い!!」
少し上擦った声で男はそう早口にまくし立てる。その語尾からはどうしようもない焦りが滲み出ていた。私は直感的に、この男には花畑を消し去ることなんてできないのだろうと思った。花畑の主人もそれを感じているのか、目の前の男の大声に戸惑ってはいるが、それに従うような様子は見られない。それが更にギンガ団員の焦りを加速させてゆく。
「あの、」
私がそう呼びかけると、ギンガ団の男はびくりと肩を震わせてこちらを振り向いた。
私の姿を認めたその顔に、はっきりと狼狽の色が浮かんだ。薄い唇が僅かに動き、口の中でもごもごと独り言を呟く。断片的に「なんで」とか「あいつは」という言葉が聞き取れたので、私は先程の男を倒してきた事を簡潔に伝えた。
すると男はぐっと苦虫を噛み潰したような表情を作り、ベルトから持っていたモンスターボールを全て取り出して、その全てを一気にこちらに投げ付けるように放った。
モンスターボールがぱっくりと口を開け、中から光が飛び出してくる。私も応戦すべくモンスターボールに手を伸ばそうとした、
その瞬間だった。
体に大きな衝撃が走った。一瞬、息が詰まる。次いで、体の自由がきかないことに気付いた。
私の頭が高速で回転する。目の前の男が投げたモンスターボールはまだポケモンを出し終えていない。ならば、なぜ。
その時、耳元でつい先程まで聞いていた男の不敵な笑い声が聞こえた。私は瞬時に状況を理解する。最悪だと思った。
私は背後から、つい先程倒したはずのあの男に羽交い締めにされていた。ボールには手が届かず、ポケモンを出すことも出来ない。
しかも、私の自由を奪うだけでは満足しなかったこの男は、その腕を私の首まわりに回してぎゅうぎゅうと締め付け始めた。なんとか逃れようと足掻いてみるが、大人の男の力に敵う筈もなく。
私の背後に現れた男を見て、先程まで狼狽えていた男の顔に僅かな余裕がうまれた。まずい。
私の正面に現れた3体のズバット。彼らは主人から指示が下されれば真っ直ぐに私を襲うだろう。いや、それよりも首を絞められている私が意識を失う方が先かもしれない。
「はは、残念だったな」
耳元で愉快そうな声が響く。男の低い笑い声に交じって、高い耳鳴りが聞こえてきた。
どうしよう、どうすれば、
目のないズバットたちに睨まれた私は、思わずぎゅっとかたく目を閉じた。
一瞬の後、
聞こえてきたのは男の微かな呻き声だった。
次いで、かたく締め付けられていた首が自由になる。
私は大きく咳込みながら酸素を取り込む。
とりあえず、危機のうちひとつは去った。
視線の先のズバットたちとその主人は、茫然とした表情で私の背後を見詰めていた。
一体どうしたというのか。彼等の視線に釣られて振り返った私は、我が目を疑った。
そこには、ボールから出した覚えのないゴースがいたのだ。
彼はそのガス状の体を大きく膨張させて、私の首を絞めていた男をすっかり包み込んでいた。男の顔がみるみる苦しみに染まってゆく。
ゴースの体は猛毒のガスで出来ている。
そのことを思い出した私の喉から、ひゅう、と息が漏れた。
やめて、と言ったつもりだったのだが、きつく絞められていた喉は空気をうまく音に変えることができなかったらしい。
男ががくっと膝をつく。
私は咄嗟に地面を強く蹴っていた。そのまま男に体当たりの要領でぶつかって、ゴースの体の中から男を弾き出した。私は勢い余って男の上に倒れ混んでしまったのだが、それはかえってよかったかもしれない。ゴースは私を危険に巻き込みかねないと判断したのか、それとも私の意思を察したのか、それ以上男に危害を加えようとはしなかった。
そのかわり、3体のズバットたちにナイトヘッドを浴びせかけ、彼らを瞬時に戦闘不能にしてしまった。ズバットの持ち主は彼らをボールに素早く仕舞うと、咳込む男を放置して脱兎のごとき勢いで花畑を去って行った。
私は残された男の背中をさする。掌に男の体温を感じて、私の眦に思わず涙が滲んだ。この人は、あと少しで死んでいたかもしれない。その事実がとても恐ろしかった。
ちらとゴースを見遣ると、彼はいつも通りの顔でそこに浮かんでいた。私はゴースに救われた。本当は彼を誉めて、お礼のひとつでも言わなければならないのだろうが、唇が強張って動かなかった。
「あの、これ……」
不意に、声がかかる。
そちらを振り返ると、花畑の主人が鈍い銀色に輝くなにかをこちらに差し出していた。
「さっきの奴が落として行ったみたいなんだけど……」
それは頭の部分に橙色の球体が付いた、大きな鍵のように見えた。
だが、どこの鍵か分からない。この鍵の先にギンガ団の秘密があるに違いないのに、私はまたそこに辿り着けないのか。
そんなの、嫌だ。
私はギンガ団の男の脇に膝をつく。僅かに呼吸の落ち着いてきたその顔を真っ直ぐに見詰めて言った。
「これ、どこの鍵か教えてください」
男が閉じていた瞼を微かに持ち上げる。
「お願いします」
男はあの人を小馬鹿にするような笑みを浮かべて、小さな声で言った。
「聞いてどうする?」
「会いたい人がいます」
「……ギンガ団の幹部か」
「わからない」
男の笑みが深くなった。本物の愚者を目にしたかのように、愉快そうに顔を歪める。
「でも、会いたいの」
私がそう呟くように言うと、男の唇の端から、確かにふっと笑いがこぼれた。
「笑われても何も言えません。
自分でもどうかしてると思うもの」
私の唇からも、いささか自嘲的ではあったが、笑みがこぼれるのがわかった。
「かわいい顔して、恐ろしい娘じゃねえか」
私はそれを誉め言葉として受け取ることにした。
にっこりと笑顔を返せば、彼は観念したように小さく息を吐き出して、「谷間の発電所だ」と言って再び目を閉じた。
苦しいのだろう。
せめて安らかに逝こうとしているのだ。私のルクシオもそうだった。最期は苦しみから逃れようとそっと目を閉じて、
そんなの、もう二度と御免だった。
私はギンガ団の男の手を取ると、彼の無事を祈るように握りしめる。
そのまま花畑の主人に向き直り、この近くに病院はないかと尋ねた。
「私、この人を連れていきます!」
私のその言葉に驚いたのは、花畑の主人ではなくギンガ団の男だった。
今しがた静かに閉じたばかりの目をぱっと開いて、「はあ?」と怪訝そうな声をあげ、私の手を振り払った。
一方の花畑の主人は、私の提案にやや面食らったようにその目をしばたかせつつも診療所をやっている知人がいることを教えてくれる。
「気持ちはわかるが……きみの力じゃ運ぶのは無理だろう。とりあえず私からそいつに連絡してみよう」と言って、携帯通信端末から診療所に電話をかけてくれた。
「おい、よせ、」
と男は焦ったように言ったが、体で反抗するだけの力はないようで。そのまま再び目を閉じる。
苦しいはずなのにどうしてこの人は治療を嫌がるんだろう。考えたけれど、私にはこの人の気持ちは分からなかった。なんと言っていいかわからないまま私は口を開く。
「ごめんなさい、やめません」
私は男の手を握り直して続けた、「私はあなたに元気になってほしいんです」
そんな元気がなかったからか、それとも私の言葉を受け入れてくれたからかはわからないが、今度は手は振り払われなかった。
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