ハンサムさんの背中を見送ってから私は、小さくひとつため息をついた。一段落して緊張の糸が切れたせいか、慌ただしかった今日いちにちの記憶が蘇ってくる。ハンサムさんは私のことを立派なトレーナーだと言ってくれたけれど……それは、違う。私はぜんぜん立派なんかじゃない。
私のことを労うように、あるいは、慰めるかのように、私の首筋に寄り添うゴース。こんなにも優しいこの子は、私を守るために、ソノオの花畑でギンガ団の男を危うく殺しかけた。もしも私が本当に立派なトレーナーだったなら、あんなことには絶対にならなかったはずだ。
私は、本当にどうしようもない未熟者だ。今になってようやく、旅なんてやめておけと言っていたデンジの言葉の意味が分かった気がする。旅が危険と隣り合わせだということは、理解していたつもりだった。どんなに危険なことがあっても、切り抜けてみせると、思っていた。
けれど、それは違った。私が危険に陥ったとき、危ない目に遭うのは私だけではないのだ。そして私に何かがあったときに辛い思いをするのも私だけではない。
発電所の扉の前で立ちすくんだまま黙り込んでしまった私を不審に思ったのか、ゴースが小さく鳴いた。どうかした? と言うように、私の顔を覗きこむ。
私はそれに「ごめんね、ちょっと考え事してたの」と返して、彼を安心させるために笑みを浮かべた。それから、重たくなった感情を無理矢理振り払うように、大きく伸びをする。考えなければならないことは山積みだけど、考え込んだ顔をしてこれ以上ゴースに心配をかけるのはやめよう。
今日のところはとりあえずソノオに戻る。そして一晩ゆっくり休んで、これからのことはまた明日考ることにしよう。疲労のせいで少し重たい足を動かして、私がソノオに向かって踏み出しかけた瞬間、
ゴースがいきなり高らかな鳴き声を上げて、勢いよく上空に飛び上がった。
突然のことに驚いた私は、彼に釣られて視線を上げる。
そこには、たくさんのフワンテがいた。思わず目を奪われた私の唇から、感動を含んだため息が漏れる。
薄い水色から濃い橙へダイナミックなグラデーションを描くシンオウの夕焼け空を、ふわりふわりと風に流されてゆくフワンテたち。群れでの移動なのだろうか、皆がテンガン山の向こうを目指して、暗くなってゆく東の空へゆっくりと、しかし確実に、昇ってゆく。
山肌に並ぶ発電所の大きな風車の作る乱気流で遊びながらのんびり漂泊するフワンテたちの中に、ゴースが飛び込んでゆく。普通、野生のポケモンはゲットされたポケモンに対して大なり小なり敵意を燃やすものなのだが、彼らの場合は同じゴーストタイプ同士気が合うのか、一緒にくるくると踊るように戯れ始めた。
ゴースやフワンテが楽しそうに遊んでいるその様子は、落ち込んでしまっていた私の心をじんわりと温めてくれた。もしかしたら、ゴースにはさっきの私の作り笑いなんてお見通しだったのかもしれない。私を元気付けようとしてくれているの? 本当に、彼はなんて優しいんだろう。
ついさっきまで自分の胸を支配していた重苦しい感情が綺麗に消えてゆくのを感じながら、私は湧き上がってくる感謝と愛しさのままに、ゆっくりと双眸を細めた。日が暮れるまでしばらく、私は空で遊ぶ彼らを静かに見つめていた。
ほとんどのフワンテが山の向こうに行ってしまった頃、ゴースは満足げな笑みを浮かべてふわふわとこちらに戻ってきたのだが、
私はゴースの隣に一匹のフワンテがいることに気付き、小さくない驚きを覚えた。もしかして、ふたりは仲良くなってしまったのかしら。
ゴースに理由を尋ねるべく、私は彼に両手を差し出してこちらに来るように促したのだが、その右手にフワンテの、これは手なのだろうか、二本の紐状の部位がやんわりと絡み付いた。
「わ、ちょっと、君!」
私が慌てて右手を引っ込めようとすると、フワンテは更にしっかりと腕を絡めてきた。
そんな私の脳裏に、昔デンジと一緒に見た真夏の心霊特番のワンシーンが唐突に蘇った。夕方、丁度あたりが薄暗くなる頃、風船と間違えてフワンテを持っていた子供が消えてしまったという都市伝説。今の今までさっぱり忘れていられたのに、蘇ってきた記憶は当時感じた恐怖までをばっちり再現してくれるから、たちが悪い。
さーっと血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
テレビコトブキの心霊番組はお気に入りで放送される度によく観ていたけど、あくまでも好きなだけであって、決して怖いのが得意なわけではないのだ。
「ほ、ほら、離れてよお願いだから」
なんとかフワンテを剥がそうと右手を振り回してみたが、フワンテの頭がゆらゆらと揺れるだけで一向に離れる気配はない。
それを見ていたゴースが、高らかに声をあげて私を笑った。君は私が消えてもいいの? というようにじとっとした視線をゴースに送ったが、流石は人を脅かして喜ぶゴーストタイプとでも言うべきが、彼はけらけらと笑い続けた。……もしかしてこの子、私のことを元気付けようとしてくれてたわけじゃなかったのかもしれない。私をからかうために、こうなるとわかっててわざとやった?
いや、今は追求するまい。
とにかく、身の安全を確保することが重要だ。私は自由な左手を駆使して鞄を探り、捜し当てたそれを掴んで勢いよく引っ張り出した。
「ほら、わかる? これ、モンスターボール!」
薄暗い中でもはっきりと存在を主張する紅白のそれをフワンテの目の前に突き出して、言った、「離れないとゲットしちゃうよ、ほら」
先日ナナカマド博士たちを恐喝していたギンガ団を批難しておいてこういうことをするのはなんだか気が進まないが、……程度の違いということで自分を無理矢理納得させた。
徐々にフワンテの顔にボールを近付けてゆき、プレッシャーを与える。しかし、フワンテはまん丸の瞳をしばたかせるばかりで、一向に離れてゆく気配はない。沈んでゆく太陽の残光を受けて光るフワンテ独特のてろりとした質感が、迫ってくる夕闇の中で徐々に失われてゆく。けらけら笑うゴース、ボールをきょとんと見つめるフワンテ、そんなゴーストポケモンに挟まれて、私の焦りだけが加速してゆく。
「早く離れないと本当にゲットしちゃうよ、ほら!ほら!」
「それで本当にゲットしたのか」
テレビ電話の画面の中で少し呆れたように笑うデンジに、私はややうなだれて頷いた。
彼に披露するためにボールから出したフワンテは、待ってましたと言わんばかりにまた私の右腕に絡み付く。
――私、このままだと本当にいつか消えてしまうかもしれない。
その時を思って私は、深いため息をついた。
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