ハクタイの森の入口が見えてきた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
私は今夜は野宿を覚悟していたのだが、ハクタイの森の入口の手前に民家が一件ぽつんと建っているのを見つけて、ダメもとで宿をお願いしてみることにした。

扉を叩くと、中からひとりの老女が現れた。ふわりとした白髪と、皺はあるが浅く日に焼けた健康そうな肌、それに、深い緑色の瞳が印象的な女性だった。
私が旅のトレーナーであることを告げると、彼女は上品な笑みを浮かべて、喜んで宿を提供してくれた。

家の中は、決して広くはないが、暖かい空気に包まれたとても素敵な空間だった。暖炉からの優しい光を受けて、調度品が柔らかく輝いている。ゴースは暖炉が気になるのか、煌々と燃える火に見入り、ぱちぱちと薪が爆ぜる音に合わせて微かに体を揺らしはじめた。
暖炉の他に、机の上に火の点ったランプがひとつ置かれている。暖炉のへりにはやかんや小さな鍋がかけられているのを見つけた。もしかしたら、この家にはガスや電気が通っていないのかもしれない。

暖炉から壁に視線を転じると、そこに飾られている沢山の写真が目を引いた。
彼女の許可を得て、額に入れられた写真を一枚ずつ見させてもらった。この宿に泊まった旅人と老女の写真が、年代順に並んでいる。時代を遡るにつれて段々と若くなってゆく彼女は、きっと多くの旅人を癒してきたに違いない笑顔でそこに写っていた。

「どれも素敵な写真ですね」と素直に感想を述べると、彼女は「ありがとう」と照れたように笑う。私を迎えてくれた時とはちょっと違う、目尻と眉尻の下がったかわいらしい印象の笑顔だった。

暖炉の近くに飾られた最後の一枚は、それまでの写真と毛色が違っていた。
一辺が40センチはありそうな大きなもので、10人ほどの人が大きな洋館の前に並んで笑顔を浮かべていた。微かにセピアがかったモノクロ写真は、それがとても昔のものであることを窺わせる。他のものよりも細かな細工の額縁も私の目を引いた。この写真が彼女にとって特別な一枚であることが、一目でわかった。

老女に写真の詳細について尋ねると、彼女は懐かしそうに目を細めながらゆっくりと口を開いた。

「それはね、私が昔……お勤めしていたお屋敷の写真なのよ」

彼女の視線に釣られるように、私も写真に注目する。
写真の真ん中には立派な髭を蓄えた初老の男性が、その左右には顔付きのよく似た幼い男女の子どもがぴんと背筋を伸ばして立っていた。更にそれを取り囲むように、幾人もの使用人が写っている。
真ん中の男性が洋館の主人なのだろう。左右の幼いふたりは身なりもきちんとしているので主人の子供か、あるいは孫なのかもしれない。

「左の方に、ハウスメイドに隠れるように写ってる子供がいるでしょう。それが私なの」

使用人たちの中に隠れるようにして、幼い彼女は写っていた。洋館の主の子供たちと同じくらいの歳頃だろうか。

「もしかして、このメイドさんは、お母さんですか?」

写真の少女が隠れているハウスメイドを指してそう尋ねると、彼女は穏やかに笑ってそれを肯定した。

「そう。でも私は、旦那様のお子さんたちと歳も近かったから、勤めていたというより、一緒に遊んでいただけなんだけどね」

そう言って彼女は写真を見つめた。モノクロのそれは、彼女の記憶の中で今でも色鮮やかに動き出すのだろう。
暖炉の光を受け止めて、老女の瞳が深い森を思わせるような青緑色に煌めく。その瞳は、今はどこにも焦点を結んでいなかった。昔の記憶の一片を心の奥で眺めているのだと思う。なにも映さない瞳は磨かれた宝石のようで、ただただ美しかった。

彼女はそのまま三回ほどまばたきをして、おもむろに写真から視線を外した。
老女を見つめていた私の顔をじっと見て(私、どんな顔をしているのだろう)、上品に微笑んで言った。

「さあ、お話はおしまい。晩御飯にしましょう」

彼女の目尻の皺が、一段と深くなる。
今の私にはとても追い付けない、非常に優しい笑みだった。





翌朝、朝食の支度を手伝いながら尋ねてみたのだが、この家は本当に電気もガスも、水道さえも引いていないらしい。
水は全て裏にある井戸と溶かした雪で賄い、風呂は薪で温める。私も昨晩、薪を割って風呂釜で燃やす手伝いをした。薪で沸かしたお風呂は、自分で沸かしたせいもあってか、なんだかいつもよりも体が温まるような気がした。

私は、一晩泊めてもらったお礼になにか手伝えることはないかと尋ねて、少しばかり掃除と、畑仕事の手伝いをさせてもらった。電気が来ていないので、もちろん掃除機もない。久しぶりにほうきとちりとりを使うのは、学校を思い出して少し楽しかった。
畑仕事に至っては、生まれてはじめての経験だった。昨日の夕食も、今日の朝食も、その材料のほとんどは家の裏庭にあるこの畑でとれたものだという。冬の畑は、一見すると寂しそうに見える。しかし、彼女が雪に鍬を入れると、そこから様々な根菜が顔を出した。聞けば、シンオウには土囲いと呼ばれる雪中貯蔵が昔から伝わっているらしい。冬が来る前に穴を掘って、保存しておく野菜を入れ、藁をかけておく。するとそこに雪が積もって天然の保存庫になるのだそうだ。
私も雪の中から野菜を掘り出すのを手伝った。柔らかそうに見える雪も、慣れない鍬で掻き分けるのは一苦労だった。彼女が振る舞ってくれたスープも、こうして掘り出した野菜を使っていたのだろう。そのことに気付いた私は、白い息を吐きながら黙々と作業を続けた。

「……冬のシンオウで生きるのって、本当は大変なんですね」

雪をかけて埋め戻した畑を見ながら、私はぽつりとそうつぶやいた。疲労と尊敬の入り交じった口調に、彼女は少し苦笑気味に笑った。

「もっとも、今はみんな機械でやるんだろうけどねぇ……。私、機械が苦手なのよね」

私の脳裏に、彼女の家の様子が思い出される。
暖炉にランプ、ほうき、それから薪のお風呂。テレビや冷蔵庫は当然のようになかったし、きちんと見てはいないけれどきっと家のどこかに洗濯板があるのだろう。

「やあね。私って古い人間なのかしらね」

老女は野菜の入った籠(これも彼女の手作りなのだそうだ)を抱えながら、冗談めかして笑う。でも、私は、彼女は決して古い人間ではないと思った。
機械を使わないことは、使えないこととは違う。

私はなるべく穏やかに笑って、彼女に「そんなことないと思います」と言う。少し生意気だろうか、とも思ったが、でもこの気持ちはどうしても伝えたかった。

「私の知らなかったシンオウの冬の生活や、古いもののあたたかさ、たくさん教えてもらいました」

ありがとうございました、と頭を下げる。
あなたに出会わなければ、私はなにも知らずに機械と暮らす生き方を続けただろう。それは、機械を使わない生活を知った上で機械と共に生きることと、全く違う。自分で生き方を選べることは、とても豊かなことのはずだ。

「……こちらこそ、感じたことを丁寧に伝えてくれてとても嬉しいわ。ナマエさん、ありがとう」

落ち着いた声でそう言って、彼女も微笑んでくれた。
その背後で、巨大なハクタイの森が微かにざわめいたような気がした。


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