何度目かの階段を登った先で、目の前に広がった光景に私は言葉を失った。
ギンガ団の名に違わぬ宇宙が、そこに広がっていたからだ。私の目線の先で幾つもの星が瞬き、寄り集まったそれらが銀河を形成して、緩やかな円周軌道を描くようにゆっくりと移動してゆく。

私はその宇宙に目を凝らして、それが壁に施された装飾の一部であることに気付く。
このフロアは、壁全体が巨大な映像パネルで埋められていた。そこに広大な宇宙を映し出しているようだ。

私はその宇宙に吸い込まれそうになるのを堪えながら、灰色の床を踏みしめてゆっくりと進んでいく。
大きな黄色い機械の横を通り抜けて少し行った所で、私は視線の先にひとりの男を見付けた。ギンガ団の下っ端でも、研究員でもない、濃いカーキ色のツナギを着た、恰幅のよさそうな男が床に座り込んでいた。
私は思わず歩みを早めた。男のツナギの所々に自転車油のシミがあるのを認めて、私は彼が目的の人物であると確信した。

私は自転車屋の主人に声をかけようとしたのだが、ふと、彼の向こうに数人のギンガ団員がいるのが目に入って足を止めた。彼らは自転車屋の主人を揃いの髪型で威圧しながら、口々にこんなことを言っていた。

「いい加減にしなさい」
「全てのポケモンはギンガ団のものだ」
「まだ痛めつけられたいのか!?」

ビルの一階にあった待合室にいた男が、『あの自転車屋のように痛い目に遭わせるぞ』と私を脅していたのを思い出す。
私は背中に冷たいものを感じて駆け出した。

と同時に、下っ端たちが自転車屋の主人に向かって手を上げた。
私はとっさに「ゴース!」と叫んだ。私の意図を理解した彼は、ギンガ団の男たちの足元目掛けてナイトヘッドを放つ。突然進路を妨害された男たちは、咄嗟にこちらを振り返った。私を認めた男たちは、攻撃の標的を私に変えたらしい、こちらに向かってじりじりとその距離を詰めてくる。

ギンガ団の下っ端たちは、何かあればまずポケモンを繰り出してきていたのに、なぜか彼らはそれをしようとしない。
疑問に思った私は彼らのベルトに視線をやって、その理由を理解した。彼らはポケモンを持っていないのだ。

「お子様がこんなところにいちゃだめじゃないか」

その口角を不敵に持ち上げながら、彼らが近付いてくる。
ゴースが低く鳴いてその輪郭を膨張させようとしたのを、私は目で制した。ソノオの光景が蘇る。ゴースに人殺しをさせるなんて、私は絶対に嫌だった。

男たちの手が伸びてくる。
なんとか逃れようと抵抗したが、それも虚しく私は髪の毛を捕まれてしまった。そのまま乱暴に床に引き倒される。

自転車屋の主人がはっとしてこちらに駆け寄ってきた。その顔は痛々しく腫れ上がっていた。服についている赤いシミは、どうやら自転車油によるものだけではなさそうだ。
自分の心配なんかしないで私に「大丈夫か?」と声をかけた彼は、そのまま下っ端たちをぎっと睨みつける。そして、「女の子に手を上げるんじゃない!」と怒鳴りつけた。
下っ端のひとりが「うるさいですよ」と言って彼の横腹をあっさりと蹴りあげる。彼はそのまま倒れ伏してしまった。私の脳がびりっと震えた。ここでは私の常識は通じない、頭ではそう理解していたはずなのに、私はこの状況にうまく対応出来ないでいた。

私は何をしにここに来たのだろう。
助けにきたはずの自転車屋の主人に守られ、水色の髪の男のことは何一つわからないままだ。ハンサムさんには、気をつけろと言われていた。厄介事は避けろよと再三言っていたデンジの顔が思い浮かぶ。

男たちが再び私に向けてその手を伸ばしてくる。
ゴースが相手を威嚇するように鋭く鳴いた瞬間、私の中で何かが弾けた。

こちらに差し向けられた手に、私は思わず噛みついた。
男の短い悲鳴が上がる。私はそのまま立ち上がって、別の男に猛然と突進をした。虚を突かれた彼がよろめいた瞬間、別の男に後ろから羽交い締めにされた。肩がめりめりと軋み、僅かに足が浮く。私は両肩の痛みをはっきりと感じながら、両足を前に振って反動をつけてそのまま強く後ろに、つまり、私を羽交い締めにしている男の脛に打ち付けた。ぐっ、と呻くような音が耳元で聞こえて、私の体が自由になる。
私はそのまま男たちと距離をとり、彼らを睨みすえた。彼らは信じられないものを見るような目付きで私を見ていた。

今まで、誰かに手を上げたことなんてなかった。
暴力はよくない。喧嘩をしないで話し合いで解決しなさい。学校ではそう教えられてきたし、私もそれを信じていた。もちろん、今でもそれは正しいと思っている。でも。
傷だらけの自転車屋の主人。デンジと交わした無事に帰るという約束。それから、満足に自分のことも守れないくせに二度とゴースに人を傷付けさせたくないという我儘な思い。

私の中の大切なものを守るためには、時には体を張って戦わなければならないのだということを、私は知った。
今までゴースは、そうやって私を守ってくれていたんだね。どくんどくんと大きく脈打つ鼓動を感じながら、私は覚悟を決める。

私の中で荒々しく猛っていた闘志は次第に落ち着いてゆき、しかし完全に消えることなく静かな炎になって私の胸の奥で燃えつづけた。
私が男たちに向かって一歩踏み出すと、彼らは何かに気圧されるように一歩、確かに後ずさった。

その時だった。
「あなたたち、下がりなさい」という、ハスキーな女性の声が響いた。
声のした方を振り向く。部屋の奥から、バイオレットの鮮やかな髪の毛を優雅に結い上げた妙齢の女性が現れた。彼女はマロウがかった瞳で私に意味深な視線を投げかけ、かと思えば、下っ端たちに鋭い視線を向けて「聞こえなかったの? 下がりなさい」と冷たく言い放った。

下っ端たちは、この女性の言葉に弾かれるように去って行った。

彼女の背後には鋼鉄製の檻があり、中にはピッピとミミロルが囚われている。
私の背後で倒れていた自転車屋の主人はいつの間にかその上体を持ち上げて、檻の中のピッピを見つめていた。その唇が声を出さずに二度、合わさって、離れたのを、私は確かに見た。


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