シンジ湖ってどんな所だろう。期待に胸を躍らせながら201番道路を西へ西へと歩いていると、不意に高く鋭い鳥ポケモンの声が私の耳に突き刺さった。
釣られてそちらを振り返る、と同時に、私は眼前に灰色の物体が迫っているのに気付いて悲鳴を上げた。反射的に頭を抱えるようにしてその場にしゃがみ込んで、かたく目を閉ざす。その次の瞬間、すぐ頭上をなにかが、ざっ、とすごい速さで通り過ぎて行ったのを、空気の流れから感じ取る。
私は一旦危機が去ったと解釈し、やや恐る恐る目を開けた。そして、なにかが去って行ったであろう方向に視線を向ける。
そこにいたのは、灰色の小さな鳥ポケモンだった。宙を旋回しながら、こちらに睨みをきかせている。少し考えてから、私はあれがムックルという名前のポケモンであることを思い出した。シンオウ地方ではごく一般的な鳥ポケモンで、学校の友達の中にはペットにしている子もいたっけ……。
私が呑気にそんなことを思い出している間に、ムックルは旋回のために水平に保っていた体をぐっと持ち上げて、力強く羽ばたき、再びこちらに向かって急降下してきた。
ペットにされていたムックルとは、目付きも体つきもまるで違う。普段は可愛らしい印象を与えるあの嘴も、当たればきっと痛いだけでは済まないはずだ。
これが野生のポケモンなんだ。私は深い感慨を抱きながら、ベルトに装着されたモンスターボールに手を伸ばす。
首の裏がざわざわと騒がしい。危険と隣合わせの旅なのに、野生のポケモンに襲われているのに、今の私を突き動かすのは恐怖ではない。足の裏から駆け上がってくる高揚感が、不思議と気持ちよかった。生まれて初めてのポケモンバトル。私はその興奮のままに、ボールを放った。
ぱっ、とまばゆい光が走り、ゴースが現れる。
彼はこちらに向かってくるムックルを認めて全てを悟ったらしい、ぐっと険しい表情で私とムックルの間に体を差し込んだ。
「ゴース、」
私は彼に技を指示しようとして、ふと、ゴースがどんな技を使えるのか全く知らないことに気付いた。
そうこうしているうちに、ムックルはどんどん近付いてくる。私は慌てふためきながら言った。
「と、とにかく攻撃よ!」
するとゴースは、その大きく裂けた口を開いて、べろりと長い舌を出した。
そしてムックルの顔を正面から舐めあげた。
――ように見えた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。ゴースの舌で舐める攻撃がムックルに当たったと思った瞬間、ムックルはその攻撃ごとゴースをすり抜けてしまったのだ。
ムックルはそのまま私に向かって急降下してきたので、私は再び悲鳴を上げて地面にしゃがみ込むことになってしまった。
私を捉え損ねたムックルはもう一度上空へ飛び上がり、今度は突然現れたゴースに狙いを定めるように彼を睨みつける。
私はもう一度ゴースに攻撃を命じたが、やはり結果は同じだった。ムックルの体当たりも、ゴースの舌で舐める攻撃も、互いに相手をすり抜けてしまって当たらない。
私の耳に、ナナカマド博士の言葉が甦る。ゴーストタイプの攻撃がノーマルタイプに当たらないというのは、こういうことだったのか。
途方に暮れそうになった私は、もうひとつ、博士の言葉を思い出す。ポケモントレーナの必需品であるトレーナーカードと一緒に、役に立つだろう、と言って私にくれた技マシン。
私は慌てて鞄を開けてそれを取り出した。
『技マシン27 恩返し』という大きな表記のその下に書かれた、『技タイプ ノーマル』という文字を見た私は、即座に技マシンを開封しながら叫んだ。
「ゴース、こっち来て!」
私の声に従い、彼は空気抵抗を感じさせない動きですうっとこちらに近付いてくる。
その背後にゴースを追ってくるムックルを見て、私は作業のペースを上げた。急いでケースを開けて、技マシンを取り出す。うっすらと白い色を帯びたディスク状のそれを手にしたままゴースを見ると、彼は不敵な笑みを浮かべて私と、私の右手にある技マシンを交互に見比べていた。
「ムックルに勝ちたい?」
私の簡潔な問いに、彼は表情を変えることなくこくりとひとつ頷いた。
この子は私の言葉をきちんと理解して頷いたのだろうか。そもそも、今の動作は肯定であったのだろうか?
様々な疑問が浮かんだのは刹那、私の思考は鋭い鳴き声によってすぐに現実に引き戻される。
こちらに向かって突っ込んでくるムックルが、ゴースの曖昧な輪郭の向こうに見えた。時間がない。
ゴースが、一度小さく鳴いた。場違いに柔らかな声だった。それでいいよと、言われた気がした。
私は昔、デンジが技マシンを使っていたときのことを懸命に思い出す。確か、ディスクをランターンの額に――
私は意を決して、ディスクをゴースの額に押し当てた。
白いディスクが、鋭い白光を放つ。ゴースは何かを受け入れるようにすっと瞼を閉じて、
光がおさまると同時にぱちりと目を開いた。その間、僅か3秒程。ゴースは強く一声鳴いて、ひらりと高く飛び上がってゆく。
ムックルがゴースを追って軌道を変える。私の目の前で力強く羽ばたいて体勢を整え、大空へと舞い上がった。
巻き起こされた風塵から顔を腕で庇いながら、私は頭上を見上げる。
ゴースは上空を漂いながら、向かってくるムックルを真っ直ぐに見据えていた。
その瞳に溢れんばかりの自信が輝いているのを見た私は、自分にできるたったひとつのことを確信した。彼が待っているであろう言葉を、精一杯叫んだ。
「ゴース、恩返し!」
決着はあっけないものだった。
恩返しを正面から受けたムックルは悲鳴を上げるように高く鳴いて、林の中に逃げていった。
私はバトルの余韻を感じながら、浅い呼吸を繰り返す。極度に緊張していた精神がだんだんと緩んでいくに従って、風の音や森の鮮やかな緑が私の意識に戻ってきた。
ゴースが嬉しそうに鳴きながら私の頬に擦り寄ってきた瞬間、ああ勝ったんだな、と思った。
生まれて初めてのポケモンバトルだった。
ナギサでコリンクと遊んでいた頃の私は、自分がバトルをするなんて夢にも思っていなかった気がする。私にはポケモンバトルや冒険よりも読書や家事の方がお似合いだと、ずっと頑なにそう思っていた。
何故自分が旅に出なければならないと感じたのか、まだその理由はわからない。
しかし、今感じているこの気持ちは、きっと私が求めているものに繋がっている。
「ゴース、ありがとう」
私がそう言ってゴースに笑いかけると、彼は大きく裂けている口を更に大きく開いて、誇らしげに笑った。
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