シンジ湖が目の前に広がった瞬間、私は自分の中に静かな感動が満ちてゆくのをはっきりと感じた。
水底が見えるほど透き通った湖面が、太陽の光を反射してきらきらと輝く。湖の周囲に茂る木々はその葉に白い雪を薄く積もらせており、気温はマサゴタウンと比べてぐっと低くなったように感じた。コートの襟をしっかり合わせて大きく息を吸い込めば、肺の奥の奥まで冷たい空気で清められてゆくような清々しい気持ちになる。静かな空気はぴんとはりつめていながら、しかし流れる時間はとてもたおやかで。
どことなく厳かな雰囲気のあるシンジ湖を、私はとても気に入った。

「ゴース、出ておいで」

ベルトのボールホルダーに収まっているゴースのボールをちょこんと触ると、彼は待ってましたとばかりに飛び出してきた。
数回の戦闘で疲れていないか心配だったけれど、彼は私のまわりをふわふわと漂ってから、高らかに一声鳴いた。よかった、大丈夫みたい。まあ、相手の攻撃はノーマルタイプの技ばかりでぜんぜん当たってないようだったから、元気なのは至極当然のことのような気もした。
それに、もしかしたらこのゴースは、普通のポケモンよりも少し強いのかもしれない。別れ際に、コウキくんがそのことをそっと教えてくれたのだった(「ポケモンの強さには個体差があって、同じ種族でも個性があるんだ。ゴースは普通あんな所に、それも昼間に出現したりしない。もしかしたら、ナマエちゃんのゴースはちょっと特別なのかもしれないね」)。
コウキくんのことを思い出したら、ゴースを捕まえた時のことが頭の中で蘇った。私の方を笑顔で見つめていたあなた。私がゆっくり後ずさると、置いて行かないでと言うようにこちらに飛び出してきたあなた。
とっさに捕まえてしまったけれど……。

「ねえ、私でよかったの?」

そう尋ねると、彼は大きな舌で私をぺろりと一舐めした。冷たい舌の感覚に背中がぞわりと粟立ったが、不思議と不快感はない。むしろ、頭の芯がすっと冷えて不安や迷いが消えていくような気がした。
……そっか。私でよかったんだね。言葉は通じないけれど、何となくそう言ってくれた気がした。

ゴースはそのまま湖の上空を滑るように遊びはじめた。
私はそれを微笑んで眺めていたのだが、ふと、湖の奥に視線を滑らせて初めて、そこに人がいることに気が付いた。
私の位置からではその背中しか見えないけれど、背格好はとても立派な大人の男性のものだった。薄い水色の短い髪が重力に逆らうように生えている。厳かに佇み湖を眺めているだけなのに、その背中は高圧的な空気を纏っていた。

世界中の全ての人が善人なわけではない。怪しい人物は極力避けるようにとデンジには口酸っぱく言われていたし、私もそれはその通りだと思っている。旅に危険はつきものだが、しかし必要以上のリスクを負う必要もない。
だから私は、ここで少しゴースと遊んで、日が暮れないうちにマサゴタウンへ帰るべきなのだ。頭ではそう理解しているのに、何故か私の足はあの男の元へ向かってゆく。吸い寄せられるように歩み寄り、湖面を凝視する男の隣にやや距離をとって並んだ。

「こんにちは、」

ありきたりな挨拶を投げかけると、その男は緩慢な動作でこちらを振り返った。その緩慢さが、男の威圧感を更に加速させた。
男の鋭い視線が私を射抜く。ひどい三白眼で、その眼窩は暗く落ち窪んでいる。しかし、よく見ればその瞳は私と、そしてデンジと同じ見慣れた深い碧を湛えていた。私がこの男に気を許すのにこれ以上の理由はいらなかった。

「綺麗な湖ですね」

視線がぶつかり合う。
この人は、私達が同じ色の瞳で世界を見ていることに気付いただろうか。

「ここにはよく来るんですか?」

私がそう尋ねると、視線はすっと逸らされた。彼は唇をかたく引き結んだまま、再び湖を見つめる。仕方なく、私も視線を湖面に戻した。太陽が僅かに傾き始めたのだろう、純白だった反射光が、少しずつその色温度を下げてゆく。
答えは返って来なくても仕方がないと思っていたので、「いや、」という小さな声が聞こえたときに私は思わず彼の方を振り返ってしまった。

「一度、見ておこうと思っただけだ」

思わず耳を傾けてしまう不思議な声だった。
低すぎず、高すぎず、明るすぎず、暗すぎず、すんなりと聞けてしまう天性の声。それに聞き惚れると同時に私は、その声から感情が全く感じ取れないことに気付いた。どういう気持ちでこの湖を見ているのか、その声からは想像できない。

「……流れる時間、……広がる空間、いずれ全てが私のものになる」

それは、今までにも世界を手に入れようとし、そして散っていった者たちが口にしてきたであろう言葉だった。彼らは、後の世の凡人たちに狂人と蔑まれる。狂人と天才の言葉は、一般人には理解出来ないからだ。
私の目の前で、この男はその唇を歪めて確かに笑った。いや或いは、笑みにも似た引き攣りなのかもしれない。そのこけた頬が僅かに持ち上がる。

「君は想像できるか?」

笑みにも似た歪みの中、しかしそこだけはさえざえと冷たい小さな瞳の中に私が映り込む。
私は与えられた時間と空間の中でしか生きることは出来ない。しかし、それを超越できる力がもしもあったなら。それを想像した私は、ゆっくりと喉を揺らす。

「……それは、素晴らしいかもしれない」

瞼の裏にこびりついて剥がれないルクシオにだって会えるし、ずっとずっと別れないでいられるのだ。

「かも、ではない。素晴らしいのさ」

橙色の長い光が、私たちの影を湖面に落とす。光を遮られた深い浅黄色のシルエットが二つ、揺れる。

「その日を待っていろ」

破壊的な微笑みを残して、彼は湖を去って行った。

私はゆっくりと闇が近付いて来る中で、小さな声でゴースを呼んだ。
彼はすぐにやって来て、私の腕にその額を擦り寄せる。コリンクが去った闇からやって来たゴース。もしも世界が私の思う通りになるのだとしたら、私はきっとあなたとは出会えなかっただろう。

それは、素晴らしいかもしれない。
でもとても、愚かかもしれない。

私は日がすっかり暮れるまで、しばらく暗い湖を眺めていた。


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