意を決して開いた最後の扉の先には、
拍子抜けする程になにもない空間が広がっていた。剥げかけたタイルの床が広がっているだけで、あとはなにもない。窓から差し込む残陽が、くすんだ床に弱い陰影を作っていた。

私はそこに何も無かったことに短絡的な安心を覚えつつ、同時に、これでは物音の正体が全く掴めないことにも気付いた。が、私は風か、或いは私が気付いていないだけで洋館の中に入り込んでいるポケモンがいるに違いないと無理に自分を納得させる。

弱い光を辛うじて取り込む窓に近付き、外を眺めてみると、正面からは見えなかった裏庭がそこに広がっていることに気付いた。
裏庭もやはり荒れ野と化していた。背の高い雑草があちこちに繁みをつくり、植樹されたらしい木々の枝は伸び放題だ。そんな裏庭で一際目を引いたのは、小さな池の存在だった。池に流入する川は見当たらないので、これは人工的に作られたものなのだろう。湖面には枯れ葉や水草が静止したまま浮いていた。時間の流れを感じさせない、少し不思議な風景だった。

私はふと、その池のそばに、雑草に隠れるようにして佇む灰色の石を見付けた。
倒れないようにその土台部分が少しだけ土に埋められた、滑らかな立方体に研磨された石……。

その見覚えのある形に、私は戦慄を覚えた。
あれは、お墓ではないか?
よく見れば、石の表面に何か字を彫っているようにも見える。

私が窓から遠ざかるように1歩後ずさった瞬間、
突然扉の向こうから足音が聞こえてきた。ポケモンのものではない、靴で床を踏み締めて、軽い足取りで駆けてゆくような人間の足音。

もしもそれがこちらに近付いてきていたとしたら、私はなすすべもなくこの場で震えていたことだろう。幸か不幸かその足音は、向こう側へ遠ざかってゆくものだった。
弾かれるようにそちらに体を向けた私は、駆け去ってゆく足音を追って何も考えずに扉を開けて廊下に出た。なんでもいい、その影を見て、私は何かを納得したかった。

視線の先には、なにもいなかった。
ただ、とたとたと軽やかな足音が響き続けていた。それは長い尾を引くように廊下に反響し、消えた。
首筋が、ぞくり、と冷たくなった。

「ゴース!」

私は大声を上げて走り出した。
だめだ、ナタネさんには申し訳ないけれど、調査は中止だ。とにかく、早くここを出たかった。盛大な足音をたてながら洋館を探し回り、やっと見付けた彼は一階の食堂であの絵画を見つめていた。
どうやらポケモン博士だったらしいこの洋館の主と、双子の幼い子供達の絵。三人は揃いの深いフォレストグリーンの瞳で、私達を見つめていた。

「ゴース、行くよ」

私は彼の背中にそう投げかけて、踵を返そうとしたのだが。

「……ゴース?」

彼は、何故か絵画を見つめたまま動こうとしない。
今まで彼は私をからかうように悪戯をすることはあったが、私を無視したことは一度も無かった。

どうしてだかもう一度彼に声をかけることが出来ない私の背後から、ふと、聞き慣れたゴースの鳴き声が聞こえてきた。
振り返った視線の先には、私が探していた見慣れた笑顔。

……ならば、あの絵画を見つめるゴースは誰? ややぎこちなくそちらに顔を向けると、空に浮かぶガスの体がゆっくりとこちらを振り返った。

それは野生のゴースだった。
私のゴースよりもやや大きめの口がぱっと開いて、そこから甲高い鳴き声が響く。
先程の謎の足音も相まってその声に怖気づいてしまった私は、野生のゴースに背中を向けて、一目散に駆け出した。私のゴースがそれに続いたのが気配でわかった。
きっと彼は、私が彼の縄張りである洋館を侵したことを怒っているに違ない。そういう時は潔く立ち去れば、野生のポケモンが必要以上に私たちを襲うことはない。私はそれを旅の間に学んでいた。

すっかり暗くなってしまった洋館のエントランスホールを駆け抜け、私は玄関扉の前にたどり着いた。
私はそれを勢いよく引き開けて外に飛び出そうとしたのだが、何故か扉は開かなかった。「え?」と呟くように小さな声が私の口から漏れる。再度扉を引いたが、はやり開かない。焦りから、私は乱暴に扉を押し引きしたが、扉は無音のままぴくりとも動かなかった。

呆然とする私の横で、ゴースの鋭い鳴き声がした。
それにつられて背後を振り返ると、先程のゴースがこちらに向かって空を滑るように近付いて来ていた。その双眸が、黒く爛々と輝いている。黒い眼差しが私とゴースを正面から捉えていた。

……なるほど、彼を倒さないと逃げられないということか。
私が野生のゴースに向き直ると同時に、私のゴースがぱっと飛び出して行く。

二匹は一瞬の睨み合いの後、どちらからともなくナイトヘッドを放った。
正面からぶつかったふたつの黒い光線。刹那の競り合いは、私のゴースに軍配が上がった。ナイトヘッドの命中した相手に、彼はすいっと近付いて、舌でべろりと舐めあげる。効果は抜群。私のゴースが一睨みすると、彼は悔しそうな表情を残して、その場にすっと消えるように闇に溶けていった。

私はゴースに労いの言葉をかけてから、再び扉に向き直る。
これで黒い眼差しの効果は切れた。私は扉を勢いよく引き、
しかし何故か動かないままのそれに、愕然とした。

どうして、と心の中で呟いてから、私はモミさんやナタネさんの言葉を思い出す。幽霊屋敷、という言葉の響きが、私の頭の中で急に現実味を帯びてゆく。

ゴースに私から離れないように念を押してから、鞄の中にしまってあった懐中電灯を取り出した。日が暮れてしまったせいで徐々に暗くなってゆく洋館の中に灯った一筋の光は、私を少し安心させた。

堅牢な扉の前でしばらく悩んだ私は、とりあえず立ち上がる。
この扉が開かないのは、あのゴースの黒い眼差しのせいではないようだ。古い扉だもの、何かのきっかけで歪んで開かなくなってしまったのだろう。私は僅かに感じていた恐怖を吐き出して、決意を固めるように鋭く息を吸い込んだ。
となれば、だ。なにも正面玄関から出なければならない理由はどこにもない。食堂に大きな窓がいくつも並んでいたことを思い出した私は、一階の奥部に向かって歩き始めた。

食堂入り口の扉の脇にある石像は、暗闇の中からもその存在感を放ってくる。私はそれを何とかやり過ごして、がらんと広い食堂にたどり着いた。
懐中電灯の明かりを奥に差し向け窓を照らし出そうとした私は、
懐中電灯の光が通過する刹那、何かの影を食堂の中央に見た……ような気がした。

首筋がひやりと冷たくなるのを感じながら、私はよせばいいのに懐中電灯をそちらに差し向ける。
テーブル中央の上空、私の顔の高さの位置に浮かび上がったのは、人の両足だった。

私は思わず悲鳴を上げそうになるのを、なんとか堪えた。
早鐘のように鳴る心臓を押さえ付けながら、理性を総動員して先日読んだ本の一端を必死に思い出す。ゴーストタイプのポケモンの中でも、ゴースのようにガス状の体を持つ者は、その輪郭を操って人間に化けることがあるらしい。
それを思い出すと、心臓はいくらか落ち着いた。懐中電灯の明かりをゆっくりと上に滑らせると、そこに人の背中が浮かび上がる。つい先程私たちに向かってきたゴースがいたのと同じ場所で、食堂にかけられた大きな絵画を見つめている背中。
もしかしてこれは、先程のゴースが化けているのではないか? そう思った私は、ゴースに小さくナイトヘッドを命じた。化けたゴースに攻撃を当てると、驚いて変化がとけるのだと、その本には書かれていた。

ゴースは、私の命令通りにやや弱めのナイトヘッドを放ったし、それは寸分違わず懐中電灯に照らされる背中に向かって飛んだ。そこまでは私の予想通りだった。

だが、闇色の光線がその背中に命中することはなかった。
いや、正確に言うと、光線は正確に背中を捉えていた。だが彼のナイトヘッドは、その背中をすり抜けて、正面の壁に当たり、消えたのだ。

ナイトヘッドがすり抜ける。
それは、つまり、相手がゴーストポケモンではないことを示していた。

小刻みに震える懐中電灯の光の中で、宙に浮かぶ背中がゆっくりとこちらを振り返る。ほんのすこし右手首を捻って懐中電灯を逸らすだけでそれを見なくて済むと頭では分かっているのに、体は恐怖のあまり言うことをきかない。振り向かないで、という私の願いも空しく、ぐるり、とありえない角度でその首が捩じれた。
照らし出されたのは、豊かな白い口髭を蓄えた顎のライン。それから、本来ならば目玉がある筈の場所に渦巻くフォレストグリーンの闇。

今度は、悲鳴を堪える必要がなかった。
恐怖のあまり呼吸が止まってしまっていたから。

今、ゴースはどんな顔をしているだろう。
そんなことを思いながら、私はこの宙に浮かぶ初老の男の暗い眼窩から、そしてその体を透かして後ろに見える絵画の男の、同じフォレストグリーンをした深い瞳から、目を逸らせないでいた。


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