先に動いたのは、初老の男。
首だけを捩じってこちらを見下ろしていた彼は、しばしの後、興味を失ったかのようにふっと顔を逸らした。
そしてそのまま、左側にすうっと滑るように移動してゆく。重さを感じさせないその動きに思わず視線を奪われたのは刹那。
私は慌てて懐中電灯を動かして男の向かった先を照らし出したが、もうどこにも男はいなかった。どくり、と心臓が思い出したように大きく鼓動する。
私は弾かれたように踵を返して駆け出した。もはや窓から出ようなどという考えは忘れてしまっていた。一秒でも早く、この場所を離れたかった。食堂の壁に掛けられた肖像画の初老の紳士の深緑色の眼差しが、ただただ不気味で堪らなかったからだ。
私は認めた。あれは、ポケモンでも、人間でもない。
モミさんの、そしてナタネさんの言っていた、幽霊屋敷という噂は本当だったのだ。ゴーストタイプのポケモンの仕業ではない、本当の、ゆうれい。
だが私には逃げ場がない。開かない大扉の前で呆然と立ち尽くす私は、背後から追ってくる不気味なポケモン像の視線に耐えかねて二階へ駆け上がる。
静まり返った洋館にぎしぎしと慌ただしい音を響かせながら二階に辿り着いた私は、目の前にあった扉に駆け込み、ゴースが後に続いたことを確認して勢いよく扉を閉めた。
荒い呼吸が落ち着いて、ようやく静寂が戻ってくる。脇に控えるゴースを見遣ると、普段はにやにやと掴み所のない笑みを浮かべている彼が、いつになく張りつめた眼差しで扉の向こうを見詰めていた。なにかいるの? と尋ねようとした私は、その質問があまりに馬鹿げていることに気付いて、僅かに言葉を選び直して震える声を喉の奥から押し出した。
「なにが、いるの?」
私がおずおずと尋ねかけても、彼は低く鳴くだけで。……あまりにも当たり前のことだけれど、今ばかりは彼と言葉を交わせないことがもどかしかった。
「なにかあったら、すぐ教えてね?」
私が震える声でゴースにそう懇願すると、緊張した面持ちを僅かに緩め、彼は私を落ち着けるように小さく頷いてくれた。おかげで、少し余裕が生まれた。私はおずおずと懐中電灯で辺りを照らして、周囲を確認する。壁際に並ぶ本棚、重厚な造りの机と、うずたかく積まれた本。ここは書斎だった。先程食堂に現れたこの屋敷の主が使っていたであろう、書斎。
あのフォレストグリーンの闇が渦巻く暗い眼窩を向けられた瞬間の何とも言えない感覚がフラッシュバックする。私は恐怖を振り払うように頭を左右に振って、自分を元気付けた。大丈夫。努めてゆっくり呼吸をしながら胸の中で数回そう呟くと、少しは気持ちが落ち着いた。
それから私は、おもむろに机の上にあった本を手に取った。何もしないでいるよりも、何かに集中した方が恐怖は薄れるような気がしたのだ。
私は壁際に積まれた本のホコリを払い、そこに腰を下ろす。そして、難しい言葉が並ぶ本を開いた。懐中電灯の明かりでページを照らしながら、ゆっくりと読み進めていく。
私が手に取った本は、かつてポケモン学会が発行していた内輪向けの冊子のようだった。全国各地で新しいポケモンの発見が相次いでいる、という旨の文章の中に、達筆な文字でいくつものメモが書き込まれていた。新しいポケモンを発見する際の心得や、それにかける情熱が手書きの文字で記されている。当時のポケモン学会の流行は、どうやら新種のポケモンの発見であったらしい。そして、ここの主人も、そのご多分に漏れずそれを研究対象としていたようだ。
私は先程目にした手紙にあった、論文を催促する一文を思い出す。なんとなく、この屋敷の主人の輪郭が見えてきた気がした。新しいポケモンの発見を目指す彼、なかなか進まない研究と、学会からの圧力。
どこか先行きの怪しい推測に溜息を落とした瞬間、漠然と本に滑らせていた視線がある走り書きに絡め取られた。
『孫のロボットの中に新種を発見』
これまでの静謐な文字とは違う、荒々しい興奮を感じさせる筆跡だった。
ロボット、という単語に私は反応した。真新しい記憶の中に、その言葉があったからだ。おそらく子供たちの寝室とおぼしき部屋にあった、ページの破り取られた日記帳。たどたどしい文字で綴られた、おもちゃのロボットと友達になったという子供らしい文章。目にしたときは特に違和感を覚えることもなかったその文章が、今はこの洋館の謎を解くのに非常に重要な手掛かりのように感じられた。
私ははたと本を閉じる。そうして初めて、この本の裏表紙にも荒々しい筆跡の走り書きがされていたことに気付いた。
湿気のせいでインクが滲んでしまっているのか、判然としない文字もあったが、『あんな得体の知れ…………に モ……を持って行かれるとは』と書かれているらしいことが、なんとか読み取れた。
ロボットの中のポケモン。
少年が友達になったおもちゃのロボット。
それから、この洋館の主人が失ってしまった、『モ……』というなにか。
先ほど幽霊を目撃した時の衝撃は胸の中で今もまだとぐろを巻いているが、それよりも、この洋館の謎を解きたい気持ちの方が勝ってしまっていた。私は自身を落ち着けるように大きく一度深呼吸をする。
肺に入ってきたのはホコリっぽい古い空気ではあったが、それでも決意は固まった。まだちょっと怖いけれど、ニャルマーをも殺す好奇心というやつに、私が敵うはずがない。
本から視線を上げた先のゴースは、やはり扉の向こうを見つめている。
そこに、なにがいるの? 私が扉の向こうに行きたいと思っているって言ったら、あなたはどんな反応をする?
見つめる先のゴースが、私の心を読んだようにこちらを向いて、にやりと笑った。
流石ゴーストタイプ。私が怖がることには大賛成のようだ。
私は本を置いて立ち上がる。
ゆっくりと開けた扉の先に、蠢く多数の闇があるのを確かに見て、私の鼓動がその激しさを増した。
扉の隙間からゴースがするりと滑り出して、闇と私の間に立ちはだかる。こちらに視線を向けた野生のゴースたちに、私のナイトが高く威嚇の声を上げた。
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