画面の向こうのデンジは、かかってきた番号がポケモンセンターでないことをばっちり追求してきた。
シンジ湖に長居し過ぎた私は、辺りが既に真っ暗なのを理由にマサゴタウンに戻るのをあきらめ、フタバタウンにやって来た(夜の旅は避けるべし、というのが旅人の心得なのだという)。

しかし来てみて驚いたのだが、この街にはポケモンセンターがなかった。旅の宿はポケモンセンター、という旅人の心得は、早くも形骸化してしまったらしい。
私はダメもとで一般の民家の扉を叩き(余談だが、ものすごい勇気が必要だった)、なんとか二軒目で今夜の宿を得ることが出来たのだった。

シンジ湖で見知らぬ男と話していたせいでポケモンセンターに辿り着けなかった、なんて言ったら過保護な彼は今すぐ迎えに来て旅を中止にしてしまいかねない。私は野生のポケモンとのバトルに夢中になり、帰りの時間を考慮に入れていなかったと嘘をついた。ついでに、明日からは気をつけますと心からの反省も織り交ぜた。
デンジは小さく溜息をついてから、明日の連絡は必ずポケモンセンターからするようよくよく釘をさした。私は「はぁい」とひとつよい返事を返してから、
本当は言いたくて堪らなかったけれど、今思い出したという風を装って、ゴースの話題を切り出す。私がポケモンを持ったことをデンジも喜んでくれているようで、画面越しにゴースを披露すると、彼は目を細めてはっきりとした笑みを形作った。デンジが笑ったことが嬉しくて私も笑顔になる。
互いに笑顔のままお休みを言い合って、電話を切った。

「恋人?」

背後から、急に声がかかる。
私がばっとそちらを振り返ると、そこにはにこにこ微笑みながら私の返事を待つこの家の女主人の顔があった。

私が「か、家族です」と言うと、彼女は「あら、そうだったの。ごめんなさいね」とにこにこしたまま言った。

家数の多くないフタバタウンで一軒目の家主に宿を断られたとき、私は野宿を覚悟した。どうせダメで元々だと気合を入れ直して訪ねた二軒目の家主は、艶やかな黒髪の美しい妙齢の女性だった。彼女は私が旅人で宿に窮していることを告げると、二つ返事で家に上げてくれたのだ。
後に夕食の席で聞いたのだが、彼女には娘さんがいて、その子もつい今日の朝、この家を旅立って行ったのだという。我が子もどこかで誰かのお世話になっているかもしれないからね、と彼女はたおやかに微笑んだ。見ている私の心までほんのり温かくなるような、優しい目元が私の記憶に印象深く刻まれる。

「お風呂、沸かしてあるからね。明日も早いんでしょ?」

まるで自分の娘に言うかのように、彼女は私にそう言ってくれた。私はそれがなんだか嬉しくて、照れたように笑いながら彼女に礼を述べた。




他人の家とは思えないくらいぐっすり眠っていたようで、翌朝の寝覚めはとてもよかった。
私はお借りした客間のソファベッドを整えてから、荷物を持ってキッチンへ向かう。

「おはようございます」

台所に立つ華奢な背中に声をかけると、彼女は振り返ってにっこり笑った。

「おはよう。よく眠れた?」
「はい、おかげさまで」
「よかったわ」

そう言うと彼女は、再び調理台に向き直る。
私はその背中に何か手伝えることはないかと尋ねる。一宿一飯の礼は忘れるべからず、というのは旅人の心得……ではなく、一般常識だ。

彼女は食器棚からお皿とコップを二つずつ出すよう私に頼んだ。
私がそれらを食卓に並べると、彼女はフライパンとポットを持って台所からやって来て、お皿に目玉焼きと彩りのよい生野菜を盛り付け、コップにはあたたかい紅茶を手際よく注いだ。私がコップから立ち上る蒸気の香りにうっとりしている間に、彼女はフライパンとポットを台所に戻し、代わりにパンの入ったバスケットとフォークを二本持って来る。バスケットを机の中央に置き、フォークのうち一本を私に手渡して、朝食の支度は終わった。

私は両手を合わせてから食事をいただく。とろりととろける半熟の目玉焼きは本当に奇跡の出来栄えで、私は出された朝食をぺろりとたいらげてしまった。

せめてこれくらいはやらせてくださいと申し出た食器洗いを終わらせてリビングに行くと、彼女は小さな木の箱を持って待っていた。
少し神妙な顔で、彼女は切り出した。

「これは私のものなんだけど、いつか娘に渡そうと思っていたの。
なのにあの子ったら、急に家を出て行っちゃうから、……私もすっかり忘れちゃってたのよね」

そう言って微笑む彼女の口元には、愛情とさみしさの入り混じった複雑な陰影が刻まれていた。私は黙ったまま、その陰影を見ながら思った、私はこれを見たことがある。記憶を探るまでもなく、私のたったひとりの家族の顔が脳裏に浮かんだ。
彼女は手にしていた上等そうな桐の箱をこちらに差し出す。そして、こう言った。

「よかったら、娘に届けてくれないかしら」

昨日見せてもらった、リビングの写真立てを思い出す。娘さんの姿は私の記憶にばっちり刻まれていた。母親譲りの豊かな黒髪と大きな瞳が印象的な可愛らしい女の子。
返事は決まっていた。

「任せてください」
「ありがとう! ヒカリはコンテスト大好きだから、ヨスガ辺りで会えるんじゃないかと思うの」

受け取った箱は軽かったが、同時に預かった気持ちは計り知れない重さがある。私はそのお届けものを、丁寧に鞄にしまった。

「本当に、ありがとうございました」
「いいえ。ナマエちゃんも気をつけて」

玄関まで送ってくれたヒカリちゃんのお母さんにもう一度頭を下げて、私は昨日来た道を戻るように歩き出した。


[ 8/209]



ALICE+