二階中央の子供部屋、つまり、最後にゴースと一緒にいた部屋の扉を開けた瞬間、私はそこに広がっていた光景に絶句することしかできなかった。
子供部屋いっぱいに、ゴースの群れ。それが、私が扉を開けた瞬間に一斉にこちらを向いたのだ。
私めがけて、ゴースの群れが飛びかかってくる。前には野生のゴース、後ろにはいたずら好きなゴーストポケモン。どちらにも進めない状況の中で私は、なんとか打開策を考えようとしたのだが、どうにも妙案は浮かんでこない。
そのまま迫るポケモンたちをなすすべなく見つめていたのだが。
不意に、ゴースの群れの中から一際高い声が上がった。それを聞いた野生のゴースたちの動きが、一瞬鈍る。その隙をついて、群れの中から一匹のゴースが飛び出してきた。彼は私をかばうように彼らの前に立ちふさがると、また強い調子で鳴く。
見間違えることのないその背中。私は足元から湧き上がってくる感動のままに、頼れる彼のことを呼んだ。
「ゴース!」
私のゴースが、ちらりとこちらを振り返る。見慣れた余裕の笑みが、無性に懐かしかった。「ゴース、」ともう一度彼を呼ぶ。彼は野生のゴースたちに何やら釘を刺すように二、三なにかを言ってから、ようやくこちらを振り返った。
野生のゴースの群れは、どうやら彼にすっかり服従してしまっているようだった。私がいない間になにがあったのかは分からないが、野生のゴースたちは彼に言われるがまま部屋の隅の方に寄り集まって、静かにこちらの様子をうかがっている。
「……あなた、なんでそんなボスみたいになってるの」
こぼれる笑みを隠さずにそう言うと、彼は誇らしそうに一声鳴いた。そして私のまわりをふわふわと漂う。
褒めてもらいたがっているのだということを察した私は、彼に向かって両手を差し伸べた。そして、ガスで出来た曖昧な輪郭を撫でる。すると彼は生意気な瞳を僅かに細めて、小さく満足げな声を漏らした。
「ありがとう」
私がそう言うと、彼はやや鋭く鳴く。当然だ、と言っているような気がした。私は、また彼に助けられてしまったなあ、と小さく反省する。私が少し俯くと、それをどう解釈したのか、ゴースは私の頬のあたりにすり寄ってきた。
いけない、またゴースに心配をかけている。そう思った私は慌てて力強い笑みを作った。そして、「ゴースのおかげで、もうなんにも、全然怖くないよ」と付け加えた。
私の言葉を静かに聞いていたゴースは、なるほど、というように小さく頷く。そして、部屋の隅に固まっていた野生のゴースたちに向かってなにやら声をかけた。
次の瞬間、野生のゴースたちはそれぞれに歓声のような声をあげながら、ふわふわと天井へ舞い上がった。そして、一瞬の沈黙の後、私めがけて降ってくる。
「え、」という声が私の喉からもれた次の瞬間には、私はゴースの群れにもみくちゃにされていた。
どういう状況なのか把握できてはいないけれど……とにかく、野生のゴースたちに私に対する敵意がないらしいことはわかった。彼らはただ遊んでくれと言うように、辺りを飛び回り、ガスの体を私に近付ける。ゴースにはほとんど質量がないのが、唯一の幸いだった。彼らにもみくちゃにされても、私が圧死する恐れはない。
私のゴースにするようにその輪郭を撫でてやると、彼らはにこにこ笑いながら大きく舞い上がった。どうして私に撫でられただけでそんなに嬉々とするのか、私には分からなかったけれど……でも、思い返せば私は、ゴーストタイプのポケモンとはなんだか不思議な縁があるのかもしれない。フワンテもゴースも、それから、さっきから私につきまとっているあの子も、みんなゴーストタイプだし。
そこまで考えた私は、ふと、あのオレンジ色の彼のことを思い出した。そういえば、あの子は今どこにいるのだろう?
私の後を笑いながらついて来ているところまでは覚えている。それからゴースの群れに会って、えっと……?
その瞬間、私の背後で鮮烈な光が弾けた。犯人は考えるまでもない。あの子だ!
突然の閃光に、野生のゴースたちは驚いて散ってゆく。私は慌てて彼の方を振り返ったのだが、それよりも、私のゴースがあの子に対して敵意を持つ方が早かった。
ゴースは私とあの子の間に体をねじ込むと、敵意を隠さない眼差しでオレンジ色の飄々とした笑みを睨み付けた。あの子もあの子で、一応笑みの形を張り付けてはいるが、でもどこか本気では笑っていないような、そんな表情でゴースを挑発するように浮遊する。
このままだと、確実にケンカになる。
そう思った私は、思わずこう口走ってしまった。
「待ってゴース! この子、仲間だから!」
ゴースがいぶかしげな表情でこちらを振り返る。私はそんな彼にぶんぶんと首を縦に振ってこう続けた。
「たぶん、さっきも野生のゴースから私を助けようとしてくれただけなんだよ。ね?」
オレンジ色の彼に同意を求めるように声をかける。すると彼は私のことをしばし見下ろした後、はっきりと頷いてみせた。嫌に素直なのが少しだけ気がかりな気もするが、今は目をつぶろう。
「ほ、ほらね?」
ゴースに向き直って、彼に敵意を収めるよう説得を始める。ゴースはややしぶしぶ、という様子ではあったがわかってくれたらしい。あの子に向かって謝るように小さく一度、礼をした。
そんなゴースに、彼はちかり、とその体を一度またたかせて答える。私にやったようないたずらをする様子は見受けられない。私はそれに安堵しながら、鞄から空のモンスターボールを取り出した。とりあえず今のでケンカの危機は避けられたけれど……もしも本当にこの子を仲間にするのなら、私は彼をゲットする必要がある。
「一緒に、このお屋敷の外に行きませんか?」
彼は私と、モンスターボールを交互に見つめて、小さく首をかしげてみせた。
もしかしたら、この子はモンスターボールを知らないのかもしれない。そのことに気付いた私ははっと息を飲む。
ずっとこの洋館のテレビの中にいたせいで、彼の知っている世界と現実の世界は、大きく隔たってしまっているようだ。だとしたら、ここから彼を連れ出すことは、彼にとっては酷なことかもしれない。
……この子を捕まえるのはやめてこう。そう思った私は、ボールを持っていた手をすっと下げた。
しかし、私のこの行動はこの子と、それからなぜかゴースからも、大きく非難されることになった。ボールをまじまじと見つめていた青い瞳を釣り上げて、この子が抗議の声をあげる。それと同時に、ゴースも私を非難するように強く鳴いて、ボールを持つ右手をもう一度彼に向けるよう促してきた。
私は戸惑いつつも、それに従う。もう一度ボールを彼の眼前に掲げる。
「……いいの?」
彼はボールの正面で、小さく一度鳴いた。彼がなんと言いたかったのかはわからない。ただそれは、いままでずっとからからと笑うことしかしていなかった彼にしてはひどく優しい響きをたたえていた。
もしかしたら、住み慣れたお屋敷と、そこに残してゆくことになる少年にお別れを言ったのかもしれないな、と思ってすこしだけ神妙な気持ちになった矢先、
彼はその体をぴかっと発光させて、私のことを驚かせた。思わず目をつむる。瞼に遮断された視界の向こうで、彼の鮮烈な笑い声が弾けた。
や、やられた! と思って目を開いた先に、あの子はいなかった。
反射的に、右手の中のボールに視線を落とす。ちょうど真ん中に灯っていた赤いランプがすっと消えるところだった。
私は静かになったボールを両手で包む。それから、きみはほんとに素直じゃないなあ、と思って、小さく笑った。
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