真っ暗な部屋に足を踏み入れる。部屋の中は耳鳴りがするほど静かで、生き物の気配は感じられなかった。
懐中電灯を向けて異常がないかをチェックしたが、まだ日のあるうちにここを訪れたときとなんの差異もなさそうだ。部屋の中ほどに置かれたベッド、その脇の本棚、壁にかけられた赤い目でこちらを見つめる不気味な肖像画。
私とゴースはあたりを警戒しながらゆっくりと部屋の中を進んでゆく。私たちの後をついて来ていた野生のゴースたちは、この部屋に入ることが恐ろしいのか、みんなして入口のところで固まって、こちらの様子を固唾をのんで見守っていた。

部屋の真ん中までたどり着いた私たちは、そこで一旦足を止める。
中央までやって来て改めて感じたのだが、この部屋は、決して広くはない。もしもこの部屋にゴースたちの恐れるなにかがいたとして、隠れることが出来る場所といえばベッドの下か、棚の陰くらいしかないだろう。
おそるおそる懐中電灯の光をそこに向けてみたが、やはり何もいない。

私が小さく首を傾げた、その瞬間だった。
突然、部屋の気温が一気に下がったかのような寒気が、足の方から駆け上がってきた。次いで、頭の奥で甲高い耳鳴りが聞こえはじめる。

なにかが、きた。そう思った私は懐中電灯を右に左にと慌ただしく動かしてこの変化の元凶を捉えようと試みる。しかし、黄味がかった光が照らす部屋は、先程と少しも変わらない。湿気たベッド、色褪せた壁紙、赤い瞳でこちらを見つめる肖像画。
焦る私の心を嘲笑うように、足元から上がってくる冷気と耳鳴りは次第に強くなってゆく。どうしてだろう、体が重い。脚の力が抜けそうになった私は、近くにあった棚に手をついて、転倒を辛うじてまぬがれた。

そんな私の異変を察したらしい、ゴースが慌てた様子で私の方に近寄ってきた。彼の動きは私と違ってなめらかだった。どうやら私が感じているような寒気や耳鳴りは感じていないらしい。
私は彼が無事なことに安堵しつつ、彼に心配をかけまいと「だいじょうぶ、」と声を押し出したのだが、しかし、その声は自分でもびっくりするほど小さく、掠れていた。ついには腕にも力が入らなくなり、私はその場に崩れ落ちる。

ゴースが、いつも飄々としている顔を歪めて高い声でしきりに鳴いている。そんな彼の背後に見えるあの肖像画が、真っ赤な目で私のことを見下ろしている。

――見下ろしている?
さっき私が部屋の真ん中にいたときも、あの絵は私の方を見ていなかったか?

ひやりとした汗が、首筋をつたう。
あの肖像画の赤い瞳と視線が重なった瞬間、その輪郭をかたどっていた紫色の体が、ぐにゃりと変形した。
そして紫色が絵画全体に広がった刹那、闇色のカンバスからにゅっと、一本の腕が生えてきた。その手は絵の額縁を掴み、まるで自分の体を絵の中から引きずり出そうとするように力を込める。

「ゴース、」

次いで現れたのは、真っ赤な目。それから、不敵な笑みを浮かべる黒い顔。
それが私を見下ろしながら耳まで裂けたようなその口を開くと、寒気が一気に強くなった。私はがたがた震えながら、なんとか唇を動かして、ゴースに警告を送る。

「……うしろ」

私の声に弾かれるように振り返った彼は、今や絵画から体を半分ほど表してニタニタと笑っているゴーストポケモンの姿を認めて、その背中を強張らせた。
私は彼のその気持ちが痛いほどわかった。真っ赤な目で私たちを見下ろすあのポケモンは、あろうことか、ゲンガーだった。ゴースが二段階進化したその姿は、ガス状ポケモンのゴースよりも遥かに重量感があり、纏う空気もどす黒い。彼が私たちよりも大きな力を持っていることは、火を見るよりも明らかだった。

おそらく、ゴースたちが私たちに頼みたかったのは、あのゲンガーのことなのだろう。きっとこのゲンガーは、今私にしているように、ゴースたちのこともいじめたり、怖がらせたりしていたに違いない。

ゲンガーは私に狙いを定めているらしく、さっきから悪寒が止まらず、四肢も自分のものじゃないみたいに重い。私は必死に考える。どうすれば、ゲンガーにゴースたちと仲良くするよう説得できる?
考えても、妙案は浮かばなかった。いや、ゲンガーを説得する以前に、私たちが無事にここから出られるかどうかもかなり怪しい。満足に動けない私と、勝ち目の薄いゴース。

状況は最悪だった。
野生のポケモンであれば、このような状況で格上の相手と戦うことは絶対にしないだろう。勝てない勝負をするよりも、自らの命を繋ぐことを優先するからだ。
しかし、ゴースは逃げなかった。彼はガスの体を猛らせて、私をかばうようにゲンガーと向かい合う。

本当なら私は、ゴースに逃げるように言わないといけないのだ。
もしもゴースがいなくなってしまったら私がどうなるかは分からないけれど、でも、朝になっても私が戻らなければきっとナタネさんが様子を見に来てくれる。そうすれば、ボールの中のポケモンは無事だ。だからゴースも今は逃げて、この場をやり過ごすべきなのだ。ポケモンの命を預かるトレーナーには、そう命令する義務がある。

でも、私はそれができなかった。
一度引き受けた野生のゴースたちのお願いを簡単に諦めてはあまりに申し訳がないし、きっとゴースは私が何を言っても私を置いてひとりで逃げ出すようなことはしないだろう。
それになにより。もしも私が、いなくなるようなことになってしまったら。きっと、ゴースが悲しい思いをする。最愛のパートナーに先立たれる悲しみなら、私はよく知っていた。それを彼に背負わせるなんて、あってはならない。
私たちがふたりで生き残る希望が少しでもあるのなら、それに賭けたいと思った。

揺らぐゴースの体の向こうで、絵画から完全に姿を現したゲンガーがふわりと床に着地する。

二体の間に沈黙が流れたのは、一瞬だった。
次の瞬間、彼らはほとんど同時に闇色の球体を体の正面に形成し始める。そして、甲高い咆哮とともにそれを放った。


[ 72/209]



ALICE+