部屋中を支配していた冷気や重くのしかかるような重圧は、いつの間にか消えていた。
ゲンガーを倒した青く輝くシャドーボール(?)の正体は分からないままだったけれど、私はとにかく危機が去ったことと、それから、ゴースがゴーストに進化したことを、素直に喜ぶことにした。
自由になった体でゆっくりと深呼吸をしてから、パートナーの名前を呼ぶ。
「ゴースト、」
目を回したゲンガーを見下ろしていた彼は、私の声に応えてゆっくりとこちらを向いた。
進化をして、姿かたちは変わってしまったけれど、瞳に宿るいたずらっぽい光と生意気な笑みは変わらない。ゴーストは耳まで裂けたような大きな口を開くと、ゴースの頃よりも低く落ち着いた調子の声で、短く鳴いた。それから、私の方にすいっと飛んでくる。
私が彼に向かって両手を差し出すと、ゴーストは私の胸に飛び込んできた。私はその一回り大きくなった体を優しく抱きしめる。
つい先刻、異様な寒気を感じながら抱きしめたガスの体は不思議とあたたかくて、とても心地よかったけれど……、体の調子を取り戻した私は、彼のひやりとした体温を改めて感じながら、やっぱりこちらの方がいいな、と思った。このひやりとした感覚と、彼の声は、いつも私の冷静さを取り戻してくれる。
彼の体を抱きしめて深呼吸をすると、全身の筋肉の緊張がすうっと消えていった。
「ゴースト、ありがとう」
私がそう言うと、彼は飄々とした調子で一声鳴いて、私の腕の中からすっと抜け出して部屋の真ん中に飛び上がった。そして、私を見下ろしながら、またも何でもないような声で鳴く。
その態度からは、ついさっき、私のために命をかけて戦ってくれていたことはもう微塵も感じられない。
あまりに普段通りのその様子に、私は救われた。
彼を危険な目に合わせてしまった責任が、私にはある。しかしゴーストは、そんなことは全く気にしていないかのようにふよふよと宙を漂いながら、その大きな手で私のことをからかうようなしぐさをするのだ。過ぎたことを気にするよりも、今はとにかく笑え。そう言ってくれてるような気がした。
私は肺の中に溜まっていた空気を勢いよく吐き出してから、取り落としていた懐中電灯を拾い上げる。そして、その光をけらけらと笑うゴーストに差し向けた。彼の気遣いに感謝しながら、私もにっこりと笑う。ゴースト、本当にありがとう。
「これで、一件落着だね!」
私がそう言って、ゴーストがこくりと頷いた瞬間、私たちの様子を見守っていたらしいゴースたちが部屋中の壁をすり抜けて勢いよく飛び込んできた。甲高い声で喜びを叫びながら、彼らはまるで嵐のように部屋中を飛び回る。
彼らが突然現れた瞬間、私はたまらず驚きの声をあげてしまったが、満面の笑みを浮かべて飛び回る彼らを見て、私にもすぐに笑顔が戻った。本当に大変な目に遭ったけれど、ゴースたちの役に立てたことは素直に嬉しかった。
部屋を飛び回るゴースたちは、私の懐中電灯の光の中に飛び込むと、スポットライトを浴びた舞台俳優よろしくにんまり笑ったり、舌を出してみたり、思い思いのポーズを決めてから、闇の中へ戻ってゆく。まるでお祭りのダンスのように、彼らはくるくると飛び回りながら喜びを表現した。
私とゴーストは笑い合いながら、彼らの踊りをしばらく見つめていたのだが。
ひときわお調子者のゴースが、竜巻のようにぐるぐる回って目を回してしまい、それをゴースたちと一緒に笑っていた時、
私の懐中電灯の光の中に、ひょこりとあのゲンガーが現れた。赤い目が、懐中電灯に照らされて不気味に光る。
彼と目が合った私の体が、緊張でぐっと強張る。
意識を取り戻したらしい彼は、黄色い光の真ん中でにたりと笑うと、ゆっくりと両手を持ち上げる。そして――
その両手で自分のほっぺたを勢いよくおさえると同時に大きな口から舌を出して、誰よりもおどけた表情を作ってみせたのだ。
彼のその行動に皆があっけにとられたのは一瞬だった。すぐにゴースたちの間から、どっと弾けるような笑いが上がった。見れば、つい先ほど彼と死闘を演じたばかりのゴーストも、みんなと一緒になってけらけらと笑っている。
ひとりだけ釈然としない私は、豆鉄砲をくらったムックルのような顔でゲンガーに向き直った。
彼の顔は、先ほどまでと変わらない不敵な笑みを浮かべてはいる。しかし、背筋が凍るような殺気は、もう微塵も感じられない。
一体、何がどうなっているのだろう。
私は今までの出来事を思い出してみる。唯一引っかかったのは、ゴーストが最後に放った青い光をまとったシャドーボールだ。あの光を浴びてゲンガーは倒れ、そして目を覚ました彼はこの通り友好的になったように見える。
それ以外に理由が考えられない。私はあの攻撃を放ったゴーストにそのことを尋ねてみたのだが、しかし彼は掴み所のない笑みを浮かべて私を見つめるばかりで、要領を得ない。
「……もしかして、あなたもよく分かってないの?」
おずおずとそう尋ねてみたが、彼は否定も肯定もしない曖昧な笑みを崩す気はないらしい。ただ、優しい声で、意味深長に一声鳴く。
その声は、確かに私に何かを伝えようとしていたのだけれど、残念なことに私は彼が言わんとしたことを理解することが出来なかった。耳の奥に、彼の声の優しい響きだけが揺曳する。
……そのうち、私にもわかる時が来るのだろうか。青い光の正体や、あなたの考えていることがわかる瞬間が。
私のそんな苦い思いは、どうやら全て顔に出ているらしい。ゴーストは私のことを励ますようにすいっと寄って来て、大きな両手で私の背中をとんとんと撫でてくれた。
ああ、私、また彼に心配かけてしまっている。しっかりしないと。
「でも、きっといつか分かるよね」
にこりと笑ってそう言うと、ゴーストの表情も晴れやかに変化した。ゴースたちとゲンガーの笑い声が響く洋館の中で、私とゴーストはしっかりと頷き合った。
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