自転車をもらった私は、はやる気持ちを抑えてハンドルを押し、街の南端にやってきた。
青を基調としたさわやかな印象のゲートをくぐる。自転車を持っていない人が誤ってサイクリングロードに入ってしまわないように監視している係員さんに軽く挨拶をしてから(「お、じんりきさんとこの最新型かあ! 白いボディがまぶしいね!」)、私はいよいよ自転車にまたがった。

すると、今まで私の周りを漂っていたゴーストが、ガスの体をうまく変形させてハンドルを握る私の腕の間にすっと入り込んできた。
いちばん風を感じられる特等席に陣取った彼は、高揚感の滲んだ声で高く鳴く。はやく自転車を漕ぎ出すよう、私を急かしているんだろうか。

「よーし、しっかりつかまっててね!」

彼の期待を一身に背負いながら、私は下り坂の続くサイクリングロードに向かってペダルをぐんと漕ぎ出した。



……この時の私は、真新しい自転車に浮かれきっていて、ある重大なことを忘れていた。
つまり、私は生まれてこのかた、自転車に乗ったことがなかったのである。



自転車のペダルを漕いだ瞬間、車輪は坂道を一気に転がり始めた。
あっという間に自転車はトップスピードに達し、風のように坂道を下ってゆく。耳元でごうごうと風が唸る。そのあまりの速度になにやら不安を覚えたらしいゴーストが、ちらりと私の方を振り返った。
その時の私がどんな顔をしていたのかは分からない。けれど、私の顔を見たゴーストの、あのゴーストの顔が一瞬ぴくりとひきつる程度には、壮絶な表情をしていたらしい。

私はものすごい速度でサイクリングロードを下りながら、そうして初めて、自分が自転車に乗れないことを思い出したのだった。

サイクリングロードを全力疾走する私の異常に気付いたらしいサイクリング中の人たちが、私を避けて道の端に自転車を止める。そしてとにかくブレーキをかけるよう忠告をしてくれた。
ぶ、ブレーキ! ハンドルをきつく握る手を何とか動かして、ブレーキをかけようとした、その時だった。手を動かした、そのほんの些細な重心のズレ。それをきっかけにして、私は奇跡的に保っていたバランスを失ってしまったのだ。

ぐん、と自転車の進行方向が左に曲がる。速度が急激に落ちると同時に、目の前に現れた緋色の欄干。
何かを考える暇もなく、自転車がそれにぶつかった。次いで、私の体が自転車から投げ出されてふわりと宙を舞う。

反転した視界の端に、青いタイルの敷かれた道に倒れ込んだ白い自転車が映りこむ。見たところ、どこも壊れていない。私がそれに安堵した瞬間、
一気に重力が襲ってきた。サイクリングロードは、206番道路の直上に橋のように作られた道だ。私が投げ出された欄干の向こうに広がるのは、テンガン山の山裾の硬い岩盤。落ちたら、ただでは済まない。

浮遊することが出来るゴーストを空中に残して、私の体はどんどん落下してゆく。私の口から細い悲鳴が漏れた。

「ムクバード、お願い!」

その時だった。そんな女性の声が、はるか頭上から聞こえてきた。
そして、次の瞬間、地面に向かって落下していた私の体が、空中で止まった。頭のすぐ横で、力強いはばたきが聞こえる。視線だけを動かしてそちらを見ると、私の服の首根っこを捕まえてはばたくムクバードの姿があった。

次いで、「だいじょうぶー!?」という声が、上の方から降ってくる。
ムクバードは私をゆっくりと206番道路に下ろすと、羽を広げてサイクリングロードに舞い戻る。そして、私に声をかけてくれた女性の肩にとまった。

「怪我してない?」

サンバイザーで髪をまとめたサイクリングの女性が、私にそう問いかけた。
あの人が、ムクバードで私を助けてくれたんだ。瞬時にそのことを理解した私は、怪我がないことと、助けてくれたお礼を伝える。すると彼女は安心したようににこりと微笑んでから、きっと顔つきを厳しくしてこう言った。

「ちゃんと自転車に乗れないのにサイクリングロードに入るなんて、危ないでしょうが!」

彼女の言う通りだった。私はうなだれて、「すみませんでした」と頭を下げる。
すると彼女の隣で成り行きを見守っていた男の人が、「まあまあ、反省してるみたいだし、無事だったんだからさ」と彼女をなだめてから、歩けそうかと私に尋ねかけた。
私が頷くと、男性は「南に真っ直ぐ行くとクロガネシティがあるから、そこまで頑張って歩くんだ。自転車はポケモンセンターに預けておくからね」と言って、人の好さそうな笑みを浮かべる。

「俺はサイクリングのシュン。こっちはルリカ。今度会ったら勝負しような!」

私はサイクリングロードの上にいるふたりに聞こえるように大きな声で自己紹介をしてから、もう一度大きく頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました!」
「いいのよ。それよりも、無事に戻るのよ!」

ムクバードを肩に乗せて私に手を振ってくれるルリカさんたちを見上げる。ふたりの向こうにシンオウの青空と、はるかかなたで輝く太陽が見えた。太陽を背負って笑うふたりはとても眩しかった。


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