テンガン山の内部は薄暗く、またどこに繋がっているのか分からないような巨大な横穴がいくつもあって、もしも迷ってしまったらフレンドリィショップの店員さんが言っていたように数日は出て来られなさそうだった。
しかし、クロガネとヨスガを繋ぐ主洞にはクロガネゲート同様にぽつりぽつりと灯る電球があるおかげで、寄り道をしなければ迷うことはなさそうだ。
私は懐中電灯で足りない光を補いながら、洞窟の中を進んで行く。
今まで洞窟でよく目にしたズバットやイシツブテに加えて、ドーミラーやアサナンなど、テンガン山にはいろいろなポケモンが生息しているようだ。私はなるべく彼らを刺激しないよう、静かに洞窟を進む。
人の往来によって出来たらしい道の脇には、澄んだ水面が美しい小さな池がいくつもあった。どこから水が流入しているのかは分からないが、池はいっぱいに水を湛えている。
試しにライトで照らして覗き込んでみる。池の上の方は鮮やかなブルーに光ったが、光の届かない湖底の方には深い紺青の闇が満ちており、私はこの洞窟の深さを垣間見た気がした。
時折飛び出してくる野生のポケモンと戦いながら進んでゆく。
洞窟は同じような景色が続くため、こまめにポケッチで時間を確認して時間の感覚を失わないように努めた。
一際大きな池のそばにあった白っぽい綺麗な石に腰かけて3時の休息をとった私は、さあもうひと踏ん張りだと気合を入れて立ち上がる。
池の向こうは、左右の岩壁が大きく張り出して道の部分に迫っており、洞窟の幅は大人がひとりやっと通れる程度であった。洞窟には、こんな場所もあるんだなあ。そう思いながら私は、狭い洞窟内を進んでゆく。
ゴーストはガスの体を器用に歪めて岩の隙間ぴったりの大きさになると、私の後をついて来た。彼のその様子がおかしくて、私がくすりと笑った時、
不意に、頭上の方から足音が聞こえた。
野生のポケモンだろうか、とも思ったが、洞窟の壁に反響する音の質がポケモンの足音とは違っているような気がする。
音の主を探して周囲を見回した私は、一瞬の後、迫るように切り立った岩の上に立つひとりの男の姿を認めた。
暗がりの中でもわかる、威圧的な雰囲気。こちらを見下ろす冷たい視線。それに気付いた私の心臓が、どきりと一度大きく揺れる。
あの人だ。
そう気付いた瞬間、私の胸に緊張と、それから喜びに似た感情がじわりと広がった。
身じろぎもできずに、彼を見つめる。
私に気付いていたらしい彼は、言葉を失ったように立ち尽くす私のことを静かに見下ろした後、岩肌に打ち込まれていたはしごを使って、ゆっくりとこちらに下りてきた。上等そうな靴がはしごの段を踏む音がしばし響き、それは彼が私の正面に降り立ったことで止んだ。
私の前に立つ男の暗碧の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
この人は、本当にギンガ団の関係者なのだろうか。だとしたら、私がハクタイのあのビルに忍び込んだことを知っているのだろうか。
男の瞳を見つめても、それはわかりそうになかった。落ちくぼんだ眼窩に潜む影が、ヴェールのようにその奥にある真実を隠してしまっていたからだ。
……腹の読み合いは無意味だ。そう思った私は、彼のことを真っ直ぐ見つめながら口を開いた。私の思っていることを、素直に伝えようと思った。
「また会いましたね」
自分の気持ちを素直に口にすると、それに合わせて自分の顔がじわりと微笑みに変わる。
私は、彼を目の前にするとどうしようもなく体を満たすあたたかな感情をはっきりと胸に刻みながら、続けた、「会えてうれしいです」
時間と空間のこと、ギンガ団のこと、彼らの行いと、目指している新しい世界のこと。そういうことを全部置き去りにして私がまず彼に伝えたいと思ったのは、とにかく会えて嬉しいということだった。
私の言葉を聞いた男は、口の中で小さく「うれしい、か」と反芻する。そして、感情を失ったような冷たい声でこう言った。
「無意味な言葉だ」
私の心臓が一気に冷たくなる。彼は私の動揺などお構いなしに、落ち着き払った声で続けた、「感情とは曖昧なものだ。君がいま抱いているその感情も、いずれ姿形を変える」
そんなことはない、ととっさに反論しそうになった私は、ぐっとこらえてその言葉を飲み込んだ。これでは、以前ハクタイのポケモン像で彼の言葉を否定してしまった時の二の舞だ。この人の気持ちを無視した言葉では、きっとまたすぐに私のもとを去ってしまう。
もちろん、長々と世間話ができるなんて、毛頭思っていない。ただ私は、少しでも長くこの人と一緒にいたいのだと思う。一言でも多く言葉を交わして、あの瞳の奥にあるものを知りたい。
私は自分を落ち着けるように小さく息をついてから、「そうかもしれない」と努めて理性的に声を押し出した。
確かに、彼の言うことは当たっている。未来のことは分からない。もしかしたら私は、いずれ今の『うれしい』という気持ちを忘れてしまうかもしれない。現に、この旅を始めたときに痛烈に感じていたルクシオを失った悲しみは、少しずつ遠ざかっているように思う。
「私たちの感情は曖昧で、ずっと続くとは限らない。もしかしたら、私のこのうれしい気持ちも、次第に忘れてしまうかもしれない。……でも、」
悲しみが遠ざかった分だけ、ルクシオとの思い出は、その愛しさは、日に日に募っていく。そんな風に、
「変化は一通りじゃありません。今のうれしい気持ちがもっと大きく育ってゆくことだって、あるかもしれない」
私はある種の確信を持ってそう言ったのだが、しかしそれは彼の心には響かなかったらしい。彼は眉ひとつ動かさずに「それもまた、不完全で曖昧な論理だ」と言って、静かに瞑目した。
「きみは、世界のはじまりを知っているか」
男の凛とした声が、静かなテンガン山に響く。
世界のはじまり。シンオウの数ある神話の中には、世界はここ、テンガン山からはじまったとする説があるらしい。
私は、拙い頭で世界のはじまりを想像してみる。はっきりと思い描くことはできないけれど……きっとヒトがいて、ポケモンがいて、彼らは自然の中で仲良く平和に暮らしていたのではないだろうか。私がそう言うと、男はゆっくりと目を開ける。そして、暗い瞳の奥に私を惹きつけてやまない強い光を宿してこう続けた。
「そう、出来たばかりの世界では、争いごとなどなかったはず。
だが、どうだ。人々の心というものは不完全であるがために、みな争い、世界の均衡は失われている……」
「愚かな話だ」、そう最後に付け加えたその口調は、そんな人々と世界に怒っているのでもなければ、憂いているわけでもない、ただただ客観的な響きをたたえていた。彼の眼差しの奥に一瞬見えたような気がした強い光も、いつの間にか消えていた。
今までになく饒舌だった男の口が閉じられる。男の声に聞き入っていた私は思わず「争いがなくなればいいのに」と呟いた。彼の口調から、この人もそれを望んでいるのだと思ったからだ。
私の口からこぼれた呟きを聞いた彼は、「そのための、時間と空間の二重螺旋だ」と答えた。男の無機質な声が、私の頭の中でこだまする。
私がその意味を理解するより早く、男はゆっくりと緩慢な、ともすれば威圧的にも見える動作で踵を返した。そして、私のことなどもう頭にないような迷いのない足取りで歩き出す。そのまま彼は私がやってきたクロガネ方面へ続く洞窟の闇に、あっけなく消えていった。
去り際に男が残していった意味深長な言葉が、私の頭を悩ませる。
争いをなくすための、時間と空間の二重螺旋。もしもそれが本当ならば、世界から争いを取り除こうとするあの男は、正義のヒーローなのかもしれない。けれど、同時に、感情を曖昧で不完全だと嫌悪するその様子は、とても正義を語る者とは思えない。
……どちらが、本当の彼なんだろう。私は答えの出ない疑問を抱きながら、彼の去った闇を見つめてしばらく立ちつくしていた。
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