02
母の心地の良い子守歌を耳にしながらベッドに身を沈めて眠りに入り掛けた時、それは起きた。
バンッ! バリンッ!
なにかが弾けるような音とガラスが割られるような大きな音が聞こえた。寝かしつけようとしていた母を見やれば驚いた表情を浮かべている。母がドアを開けたままの出入口へと視線を向けた。
「ママ、いまのおとはなァに……?」
「シッ! あなたは良い子だから静かに寝ていなさい。ママは様子を見て来るから。良いわね?」
「う、うん……」
母はそう言い残して部屋を出るとドアをゆっくりと閉めた。その寸前、階下から父の怒鳴る声が聞こえた気がした。
なにか尋常では無いことが起きている――と、子供心にそう思った。
真っ暗な部屋に窓から射し込む街灯の光を頼りにベッドから降りて窓辺へと向かった。カーテンの隙間から外を覗いた時、大勢の人々が逃げ惑う姿がそこにあった。なにが起きているのかと不思議に思った。なにから逃げているのだろうと視線を動かして見た先には同じ人の姿。
人が人を追っている。
人は人から逃げている。
「……?」
その光景をじっと見つめていると――パァンッ!!――という大きな銃声音が鳴り響いた。思わず身体がビクンと反応した。部屋のドアへと振り向いてじっと見つめていると慌てて走って来る人の足音が近付いて来た。
起きていると怒られると思って慌ててベッドに飛び込んでシーツを被った。しかし、ドアが開けられると同時に父が叫んだ。
「エマ! 起きるんだ!」
「パパ……?」
クローゼットを開けて適当な鞄に衣服を詰め込む父は酷く焦っている様子で、なにがなんだかわかっていないエマに振り向くと側に歩み寄って両肩を掴んだ。
「急いでここから逃げるんだ」
「にげ…る……?」
「そうだ」
「ママは?」
「ママも準備をしている。外は寒いからこのオーバーを着なさい。急いで」
父に言われた通りにエマはオーバーを羽織ると父に手を引かれて部屋を出た。母も最低限の荷物だけを持って部屋から出て来たところで、三人で階段へと向かった。
「あーァァッ!」
「あ”ァ”ァ”ァ”ッ!!」
階下のリビングに悍ましい雄叫びのような声を上げながら階段を駆け上がって来る男が二人。その男達の眼光は獣染みていて三人の姿を見つけるなり途端に凶暴化して襲い掛かって来た。
パァンッ! パァンッ!!
咄嗟にエマの視界を母の手が塞ぐ。
大きな銃声音が鳴り響いてなにかが倒れて転げ落ちていく音が聞こえた気がした。手が退けられると父が拳銃を手にしたまま息を荒げていて、母が心配げに父を見上げている姿があった。
「あなた……」
「行くぞ!」
「エマ、おいで」
「う、うん」
階段を下りる途中の踊り場には襲い掛かって来た二人の男が血を流してぐったりと倒れていた。首があらぬ方向に曲がっていて、額には銃で撃ち抜かれたらしい弾痕があって血だまりができていた。
「ま、ママ……!」
死体を目の当たりにしたエマは怖くなって、自分の手を引く父の手をギュッと握りながら母を呼んだ。しかし、二人とも余裕が無いのかなにも言わずに家の前に停めてある車へと向かった。
エマは後部座席に座らされるとシートベルトを締め、父が運転席に、母が助手席へと乗り込んで車は走り出した。
道中、外では大勢の人が逃げ惑い悲鳴を上げていた。
凶暴化した人がなりふり構わず逃げ惑う人々を襲っている。
なにがどうしてこうなったのかわからない。
カーステレオから聞こえて来る情報は錯綜している。
『街は大混乱でッ――』
『原因は何らかのガスが――』
『急ぎ避難を――』
チャンネルを変える度に呼び掛ける声音が変わるだけで、どのチャンネルでも緊迫した異常事態であることを伝えていることをエマは子供ながらに理解した。
街から都市部中心を抜けて対岸へと渡る橋へと近付く。走って逃げ惑う人々を避けながらの運転。途中でスピードが落ちた。その時――。
ドンッ!
「ひっ!?」
「あー……ァ”ァ”……あああァッ!」
「あなた! スピードを上げて!」
「わかっている!」
後部座席に座っていたエマに向かって走って来た男が車窓に頭をぶつけて来た。割れることは無かったが驚いて見つめるエマと目が合ったその男は血走った目でギロリとエマを睨み付け、額から血を流しているのも構わずに窓を叩き割ろうと腕を振り上げて殴り掛かって来た。
ドンッ! ドンッ!
激しく殴り付ける度にビクンビクンとエマの身体が跳ねて震える。
「ま、ママ! こわいよ!」
青褪めた顔で涙を流しながらエマがそう訴えると同時に父がアクセルを一気に踏み込んだ。ブオンッと大きくエンジン音を鳴らした車が猛スピードを上げてその場を脱した。
「もう大丈夫だ!」
「エマ、泣かないで。大丈夫だから安心して?」
「ふっ……、うっ…、うん……」
恐怖で震えながら泣くエマを落ち着かせようと気丈に振る舞った母の笑顔はとても印象的で――。交差点に差し掛かるところで大きなトラックが猛スピードで右から突っ込んで来た。後輪にぶつかって大きく弾かれた車は天井から地面へと叩き付けられた。
なにが起きたのかわからないまま身体は真っ逆さまだ。エマは自力でシートベルトを外した。そうして外に出ようと僅かな隙間を這った。粉々に割れた車窓の隙間から手が差し伸べられ、その手をエマが必死に掴むと力付くで引っ張り出されて外へと出ることができた。
「パパ!」
「エマ、大丈夫か? ケガは?」
「う、うん、だいじょうぶ。どこもいたくないよ」
右の蟀谷から血を流しながら父は拳銃と鞄一つを持って、空いた反対の手でエマの手を引いて走り出した。
「パパ! ママは!?」
「今は、走るんだ……!」
「はしるって……、ママはどこ……?」
エマは困惑して大破した車へと振り向いた。
―― !
助手席でピクリとも動かない人影が見えた。見慣れたウェーブがかった長い髪が見えたが、その先にある首が歪に曲がっていることに気付いて目を丸くした。
「あァッ……、ま、ママが……!」
「エマ、泣くのは後だ!」
「ふっ…うっ…ママ……!」
泣き始めるエマを父は叱咤して抱え上げて走る。安全な場所を求めて逃げ惑う群衆の中に混ざって只管逃げるのだった。
◇
ピーピーピーピー……――。
再び聞き慣れない音が聞こえたマルコは視線を女へと向けた。
女はその音を止めて立ち上がると荷物からガサゴソとなにかを取り出してカチッとボタンを押した。するとそれは強い光を発して部屋を照らし、その光をマルコの顔へと向けた。
眩しさに顔を歪ませたマルコが女を睨み付けると僅かにクツリと笑う声が聞こえた気がした。
「なに、しやがんだよい……」
「別に」
女は軽く肩を竦めた。
「動ける?」
「あー…、力が出ねェんだ……」
女の問いにマルコは溜息混じりにそう答えた。
「重症なのね」
「いや……、腕に填めてあるこれが取れりゃあ動ける」
マルコは重い腕を動かした。ジャラッと鎖を鳴らしながら填められた海楼石の錠を見せると女は怪訝な表情を浮かべた。
「怪我をしているから動けないのでしょう? 錠を外したからって」
「こいつはただの錠じゃねェ。海楼石の錠だ」
「かい…ろう…せき……?」
「悪魔の実の能力者は海楼石を填められると動けねェ…って、知らねェのか?」
不審な目を向ける女の反応を不思議に思ったマルコは目を丸くした。だが女は首を左右に振るなり荷物を纏めてリュックを背負った。
「とりあえず話は外に出てからよ。暗がりでライト一本じゃなにもできないし、これ以上ここに留まっているとなにがあるかわからないから」
「……」
女は傍に立てかけていたライフル銃を手に取ってそれも肩に掛けるとマルコの身体に掛けていた衣服を取って脇に挟んだ。そして力無く横たわるマルコの腕を掴んで自分の肩に回した。
「立って歩くことぐらいはできる?」
「……頑張るよい」
ゆっくりとした動作で立ち上がったマルコは空いた片手を壁に添え、女と共に外へと出た。
「!」
朝日が射す世界に目を細めながら目の前に広がる世界にマルコは言葉を失った。瓦礫と化したビル群の廃屋が立ち並び、道路にはヒビが入り、その合間に草が生え――それは良い。問題は別の所にある。
「ここは……、どこだ?」
海なんてものは見当たらない。そもそもこんなに背の高いビル群を見ることは生まれて初めてだ。全く見知らぬ世界がそこにあった。
座れそうな場所にゆっくりと下ろされながらマルコは辺りを見回す。その一方でマルコの言葉を不審に思いながらリュックを地面に下ろした女は膝を折ってポシェットから棒状の器具を取り出した。
「腕を出して」
「外してくれるのか?」
「外して欲しいんでしょう?」
「あ、あァ……」
女は海楼石の錠を外そうと鍵穴に器具を差し込んだ。カチャカチャと動かしながらチラリとマルコの胸元を見やる。十字に半月の紺色の入れ墨。それがなにを意味しているのかはわからないがとても印象に残る。
「変わった入れ墨ね」
「これは……、おれの誇りだよい」
「そう。変わった入れ墨だなんて失礼なことを言ってごめんなさい」
「……」
女は表情を変えることなくそう言いながら左手の器具をグッと押し込んで固定し、右手の器具を斜めに傾けて探るように動かし始めた。
「なァ――」
「ここはどこだって言ったわね」
「――ッ……、あァ、言った」
「あなた、何者?」
「おれは……」
「ここはレベル5《FIVE》の立入禁止区域よ。私が偶々用事があってここに来たから助かったようなものの、こんな危険な場所であなたは気を失って倒れていたのよ。理由を話して」
「立入禁止区域……?」
女の言葉にマルコは眉を顰めて首を傾げた。その反応に女はピタリと手を止めてマルコを見上げた。
「まるで……」
「ん?」
「なにも知らないみたいな顔をしているけど、頭でも打って記憶障害でも起こしたのかしら?」
「……」
少し皮肉めいた物言いに思えたマルコは少しムッとして唇をひん曲げた。その時、ガチャッ!――と錠が開く音が鳴った。海楼石の錠がマルコの腕から外れて地面に転がる。
元々負傷していた傷は身体を重くさせるが海楼石が外れたことで動けないことは無くなった。そして幾分か身体が軽くなって力が漲って来るのを感じた。
「ありがとよい」
少し憮然とした表情を残しながらも礼を述べたマルコは立ち上がって首を左右にコキコキと鳴らして気伸びをした。
「少し良いか……?」
「なに?」
「信じるか信じねェかはお前さんに任せるが……、あァその前に」
「その前に……なに?」
「名前を教えてくれねェか?」
「どうして?」
「お前さんはおれを助けてくれた恩人だからだよい。おれの名はマルコだ」
「マルコ……」
「で、お前さんの名前は?」
マルコの問いに女は黙ったままじっとマルコを見つめた。――疑いの目、不審の目、警戒する目――女の目が様々な感情を模していることにマルコは気付いた。
―― おれを助けた割にはそう簡単に他人を信用しねェって面してやがるよい。
そう思いつつ素知らぬ顔で少しだけ笑みを浮かべてみると女は小さく溜息を吐いてマルコから視線を外した。手にしている器具をポシェットに直してリュックを背負うとライフル銃を肩に掛けた。
「エマ。エマ・オルティースよ」
「エマ……オルティース? どっちが名前なんだ?」
「エマに決まっているでしょう? オルティースはファミリーネームよ」
「そ、そうかい」
「あなた……本当に大丈夫なの?」
「あ、あァ…だ、大丈夫……」
エマが眉を顰めながらマルコに問い詰める。不審がるエマの目に少し気圧されたマルコは苦笑を浮かべるしかなかった。
―― なんだ……? この女の目がどうも苦手だ……。
視線をスイッと外したマルコにエマは眉をピクリと動かした。だがエマはそれ以上問い詰める気は無いのかマルコに背を向けてなにも言わずに歩き出した。
「あ、おい」
「私はすることがあるの。動けるのなら悪いことは言わない。日が高い内にこの道を真っ直ぐ行けば夕方頃には第七地区に着くわ。”感染さえしていなければ”保護してくれるはずよ」
エマは振り向きもせずにそう告げると瓦礫の山を登って行った。
「感染……って、どういうことだ?」
マルコは首を傾げながらエマが指示した方角に視線を向けて後頭部をガシガシと掻いた。エマの言った方角にある第七地区とやらに向かうべきか、それとも――。
「ここで会ったのもなにかの縁ってェやつに頼ってみるか」
眉間に皺を寄せて少し考えたマルコだったが踵を返してエマが向かった瓦礫の山へと足を向けた。瓦礫の山をヒョイヒョイと掛け登ってエマの後を追う。すると先を行くエマがマルコの気配に気付いて振り向いた。
「なに?」
「いや、色々と聞きたいことがあってよい」
「他の人に聞いて」
エマは素っ気なくそう答えると瓦礫を超えた先にある橋だったと思われる場所へと飛び移った。冷たくあしらうような態度を取られてもマルコは気にせずにエマの後を追う。
「おれが頼れるのはエマしかいねェんだ」
「第七地区に行けば助けてくれる人がいるはずよ」
「エマがおれを助けたんだ。だからおれはエマに頼りてェんだが」
壊れ掛けの橋だった場所から向こう側の瓦礫へと飛び降りて行くエマにマルコがそう声を掛けた。するとエマはピタリと足を止めて大きく溜息を吐くと小さくかぶりを振った。
「エマ、頼む」
エマの元に追い付いたマルコがそう言うとエマはゆっくりと振り向いた。
「なにが聞きたいの?」
「レベル5《FIVE》の立入禁止区域。第七地区。それから感染って言ったが……、おれにはどういうことなのかさっぱり意味がわからねェんだ」
「……」
マルコの言葉を耳にしながらエマはじっとマルコの目を見据えた。嘘かどうかを探るかのような目だ。マルコもどちらかと言うとエマのように警戒心が強く猜疑心を持って人と接するタイプだ。だからエマのこの態度に対してマルコは然して嫌な気を抱くことは無かった。
マルコは黙ってエマの目を真っ直ぐ見つめ返している。エマのグリーンがかった瞳とマルコのブルーの瞳が交錯する。
―― そう簡単に相手を信用するタイプでは無い。お互いに――
言葉は交わさなくとも二人はなんとなく同じ思いを抱いた。そしてエマが先に視線を外すと仕方が無いとばかりに溜息を吐いた。
「わかった。話は用事が終わった後で安全な場所に着いてからよ。それで良い?」
「あァ、わかった」
マルコは少しホッとしたように軽く胸を撫で下ろして微笑を浮かべた。
「じゃあ一緒に来て。但し!」
「な、なんだ?」
「必ず私の指示に従うことを約束して」
「なぜだ?」
「そうやって疑問を抱いても黙って私の指示に従うと約束して」
エマはマルコを睨み付けながら釘を刺すように強く言った。
「それが守れないならあなたの目指す先はあっちよ」
反論の余地を与えないように続けざまにそう言い放って先程教えた第七地区がある方角へと指を指した。
「わ、わかったよい!」
マルコは微笑のままヒクリと頬を引き攣らせてコクリと頷いた。そのマルコの返事にエマは少し間を置いてから眉間に皺を寄せる。
―― こ、今度はなんだ?
エマに気圧されたマルコは思わず息を呑んだ。
「ねェ……」
「な、なんだ?」
「よいって、なに?」
「ッ……!」
「なにか意味が――」
「た、ただの口癖だ」
「――あァ、そう。納得したわ」
「ッ……」
エマは納得したように頷くと表情一つ変えずにマルコに背を向けてさっさと歩き出した。するとマルコは大きく溜息を吐いて頭を振りながら項垂れた。そうしてエマの背中を見やって眉間に皺を寄せる。
「やけに嫌味な冷たい女だ」
見た目は美人に類する。だが冷たい態度がそれに輪を掛けてより一層に冷たく刺々しさを感じさせる。だがそれでも――。昨夜のあの時に聞いた耳に馴染む温和な声音。それが自分の重い心を幾分か軽くして楽にさせてくれた気がしたのは確かで。
「いや、やっぱり気のせい……かもしれねェ……」
エマの目は何故か苦手だ。だがなにかを語っているような気もして不思議と目を逸らすことができない。
「まァなんにせよ、どういった状況にあるのかをまず把握しねェとな」
昨晩のあれはなんだったのか。ここが本当にどこなのか。それらを知るにはエマに付いて行くことが一番無難だ。長年海賊として培って来た勘がマルコにそう働き掛けている。
マルコはエマの指示に従い、黙って後を付いて行くのだった。
バンッ! バリンッ!
なにかが弾けるような音とガラスが割られるような大きな音が聞こえた。寝かしつけようとしていた母を見やれば驚いた表情を浮かべている。母がドアを開けたままの出入口へと視線を向けた。
「ママ、いまのおとはなァに……?」
「シッ! あなたは良い子だから静かに寝ていなさい。ママは様子を見て来るから。良いわね?」
「う、うん……」
母はそう言い残して部屋を出るとドアをゆっくりと閉めた。その寸前、階下から父の怒鳴る声が聞こえた気がした。
なにか尋常では無いことが起きている――と、子供心にそう思った。
真っ暗な部屋に窓から射し込む街灯の光を頼りにベッドから降りて窓辺へと向かった。カーテンの隙間から外を覗いた時、大勢の人々が逃げ惑う姿がそこにあった。なにが起きているのかと不思議に思った。なにから逃げているのだろうと視線を動かして見た先には同じ人の姿。
人が人を追っている。
人は人から逃げている。
「……?」
その光景をじっと見つめていると――パァンッ!!――という大きな銃声音が鳴り響いた。思わず身体がビクンと反応した。部屋のドアへと振り向いてじっと見つめていると慌てて走って来る人の足音が近付いて来た。
起きていると怒られると思って慌ててベッドに飛び込んでシーツを被った。しかし、ドアが開けられると同時に父が叫んだ。
「エマ! 起きるんだ!」
「パパ……?」
クローゼットを開けて適当な鞄に衣服を詰め込む父は酷く焦っている様子で、なにがなんだかわかっていないエマに振り向くと側に歩み寄って両肩を掴んだ。
「急いでここから逃げるんだ」
「にげ…る……?」
「そうだ」
「ママは?」
「ママも準備をしている。外は寒いからこのオーバーを着なさい。急いで」
父に言われた通りにエマはオーバーを羽織ると父に手を引かれて部屋を出た。母も最低限の荷物だけを持って部屋から出て来たところで、三人で階段へと向かった。
「あーァァッ!」
「あ”ァ”ァ”ァ”ッ!!」
階下のリビングに悍ましい雄叫びのような声を上げながら階段を駆け上がって来る男が二人。その男達の眼光は獣染みていて三人の姿を見つけるなり途端に凶暴化して襲い掛かって来た。
パァンッ! パァンッ!!
咄嗟にエマの視界を母の手が塞ぐ。
大きな銃声音が鳴り響いてなにかが倒れて転げ落ちていく音が聞こえた気がした。手が退けられると父が拳銃を手にしたまま息を荒げていて、母が心配げに父を見上げている姿があった。
「あなた……」
「行くぞ!」
「エマ、おいで」
「う、うん」
階段を下りる途中の踊り場には襲い掛かって来た二人の男が血を流してぐったりと倒れていた。首があらぬ方向に曲がっていて、額には銃で撃ち抜かれたらしい弾痕があって血だまりができていた。
「ま、ママ……!」
死体を目の当たりにしたエマは怖くなって、自分の手を引く父の手をギュッと握りながら母を呼んだ。しかし、二人とも余裕が無いのかなにも言わずに家の前に停めてある車へと向かった。
エマは後部座席に座らされるとシートベルトを締め、父が運転席に、母が助手席へと乗り込んで車は走り出した。
道中、外では大勢の人が逃げ惑い悲鳴を上げていた。
凶暴化した人がなりふり構わず逃げ惑う人々を襲っている。
なにがどうしてこうなったのかわからない。
カーステレオから聞こえて来る情報は錯綜している。
『街は大混乱でッ――』
『原因は何らかのガスが――』
『急ぎ避難を――』
チャンネルを変える度に呼び掛ける声音が変わるだけで、どのチャンネルでも緊迫した異常事態であることを伝えていることをエマは子供ながらに理解した。
街から都市部中心を抜けて対岸へと渡る橋へと近付く。走って逃げ惑う人々を避けながらの運転。途中でスピードが落ちた。その時――。
ドンッ!
「ひっ!?」
「あー……ァ”ァ”……あああァッ!」
「あなた! スピードを上げて!」
「わかっている!」
後部座席に座っていたエマに向かって走って来た男が車窓に頭をぶつけて来た。割れることは無かったが驚いて見つめるエマと目が合ったその男は血走った目でギロリとエマを睨み付け、額から血を流しているのも構わずに窓を叩き割ろうと腕を振り上げて殴り掛かって来た。
ドンッ! ドンッ!
激しく殴り付ける度にビクンビクンとエマの身体が跳ねて震える。
「ま、ママ! こわいよ!」
青褪めた顔で涙を流しながらエマがそう訴えると同時に父がアクセルを一気に踏み込んだ。ブオンッと大きくエンジン音を鳴らした車が猛スピードを上げてその場を脱した。
「もう大丈夫だ!」
「エマ、泣かないで。大丈夫だから安心して?」
「ふっ……、うっ…、うん……」
恐怖で震えながら泣くエマを落ち着かせようと気丈に振る舞った母の笑顔はとても印象的で――。交差点に差し掛かるところで大きなトラックが猛スピードで右から突っ込んで来た。後輪にぶつかって大きく弾かれた車は天井から地面へと叩き付けられた。
なにが起きたのかわからないまま身体は真っ逆さまだ。エマは自力でシートベルトを外した。そうして外に出ようと僅かな隙間を這った。粉々に割れた車窓の隙間から手が差し伸べられ、その手をエマが必死に掴むと力付くで引っ張り出されて外へと出ることができた。
「パパ!」
「エマ、大丈夫か? ケガは?」
「う、うん、だいじょうぶ。どこもいたくないよ」
右の蟀谷から血を流しながら父は拳銃と鞄一つを持って、空いた反対の手でエマの手を引いて走り出した。
「パパ! ママは!?」
「今は、走るんだ……!」
「はしるって……、ママはどこ……?」
エマは困惑して大破した車へと振り向いた。
―― !
助手席でピクリとも動かない人影が見えた。見慣れたウェーブがかった長い髪が見えたが、その先にある首が歪に曲がっていることに気付いて目を丸くした。
「あァッ……、ま、ママが……!」
「エマ、泣くのは後だ!」
「ふっ…うっ…ママ……!」
泣き始めるエマを父は叱咤して抱え上げて走る。安全な場所を求めて逃げ惑う群衆の中に混ざって只管逃げるのだった。
◇
ピーピーピーピー……――。
再び聞き慣れない音が聞こえたマルコは視線を女へと向けた。
女はその音を止めて立ち上がると荷物からガサゴソとなにかを取り出してカチッとボタンを押した。するとそれは強い光を発して部屋を照らし、その光をマルコの顔へと向けた。
眩しさに顔を歪ませたマルコが女を睨み付けると僅かにクツリと笑う声が聞こえた気がした。
「なに、しやがんだよい……」
「別に」
女は軽く肩を竦めた。
「動ける?」
「あー…、力が出ねェんだ……」
女の問いにマルコは溜息混じりにそう答えた。
「重症なのね」
「いや……、腕に填めてあるこれが取れりゃあ動ける」
マルコは重い腕を動かした。ジャラッと鎖を鳴らしながら填められた海楼石の錠を見せると女は怪訝な表情を浮かべた。
「怪我をしているから動けないのでしょう? 錠を外したからって」
「こいつはただの錠じゃねェ。海楼石の錠だ」
「かい…ろう…せき……?」
「悪魔の実の能力者は海楼石を填められると動けねェ…って、知らねェのか?」
不審な目を向ける女の反応を不思議に思ったマルコは目を丸くした。だが女は首を左右に振るなり荷物を纏めてリュックを背負った。
「とりあえず話は外に出てからよ。暗がりでライト一本じゃなにもできないし、これ以上ここに留まっているとなにがあるかわからないから」
「……」
女は傍に立てかけていたライフル銃を手に取ってそれも肩に掛けるとマルコの身体に掛けていた衣服を取って脇に挟んだ。そして力無く横たわるマルコの腕を掴んで自分の肩に回した。
「立って歩くことぐらいはできる?」
「……頑張るよい」
ゆっくりとした動作で立ち上がったマルコは空いた片手を壁に添え、女と共に外へと出た。
「!」
朝日が射す世界に目を細めながら目の前に広がる世界にマルコは言葉を失った。瓦礫と化したビル群の廃屋が立ち並び、道路にはヒビが入り、その合間に草が生え――それは良い。問題は別の所にある。
「ここは……、どこだ?」
海なんてものは見当たらない。そもそもこんなに背の高いビル群を見ることは生まれて初めてだ。全く見知らぬ世界がそこにあった。
座れそうな場所にゆっくりと下ろされながらマルコは辺りを見回す。その一方でマルコの言葉を不審に思いながらリュックを地面に下ろした女は膝を折ってポシェットから棒状の器具を取り出した。
「腕を出して」
「外してくれるのか?」
「外して欲しいんでしょう?」
「あ、あァ……」
女は海楼石の錠を外そうと鍵穴に器具を差し込んだ。カチャカチャと動かしながらチラリとマルコの胸元を見やる。十字に半月の紺色の入れ墨。それがなにを意味しているのかはわからないがとても印象に残る。
「変わった入れ墨ね」
「これは……、おれの誇りだよい」
「そう。変わった入れ墨だなんて失礼なことを言ってごめんなさい」
「……」
女は表情を変えることなくそう言いながら左手の器具をグッと押し込んで固定し、右手の器具を斜めに傾けて探るように動かし始めた。
「なァ――」
「ここはどこだって言ったわね」
「――ッ……、あァ、言った」
「あなた、何者?」
「おれは……」
「ここはレベル5《FIVE》の立入禁止区域よ。私が偶々用事があってここに来たから助かったようなものの、こんな危険な場所であなたは気を失って倒れていたのよ。理由を話して」
「立入禁止区域……?」
女の言葉にマルコは眉を顰めて首を傾げた。その反応に女はピタリと手を止めてマルコを見上げた。
「まるで……」
「ん?」
「なにも知らないみたいな顔をしているけど、頭でも打って記憶障害でも起こしたのかしら?」
「……」
少し皮肉めいた物言いに思えたマルコは少しムッとして唇をひん曲げた。その時、ガチャッ!――と錠が開く音が鳴った。海楼石の錠がマルコの腕から外れて地面に転がる。
元々負傷していた傷は身体を重くさせるが海楼石が外れたことで動けないことは無くなった。そして幾分か身体が軽くなって力が漲って来るのを感じた。
「ありがとよい」
少し憮然とした表情を残しながらも礼を述べたマルコは立ち上がって首を左右にコキコキと鳴らして気伸びをした。
「少し良いか……?」
「なに?」
「信じるか信じねェかはお前さんに任せるが……、あァその前に」
「その前に……なに?」
「名前を教えてくれねェか?」
「どうして?」
「お前さんはおれを助けてくれた恩人だからだよい。おれの名はマルコだ」
「マルコ……」
「で、お前さんの名前は?」
マルコの問いに女は黙ったままじっとマルコを見つめた。――疑いの目、不審の目、警戒する目――女の目が様々な感情を模していることにマルコは気付いた。
―― おれを助けた割にはそう簡単に他人を信用しねェって面してやがるよい。
そう思いつつ素知らぬ顔で少しだけ笑みを浮かべてみると女は小さく溜息を吐いてマルコから視線を外した。手にしている器具をポシェットに直してリュックを背負うとライフル銃を肩に掛けた。
「エマ。エマ・オルティースよ」
「エマ……オルティース? どっちが名前なんだ?」
「エマに決まっているでしょう? オルティースはファミリーネームよ」
「そ、そうかい」
「あなた……本当に大丈夫なの?」
「あ、あァ…だ、大丈夫……」
エマが眉を顰めながらマルコに問い詰める。不審がるエマの目に少し気圧されたマルコは苦笑を浮かべるしかなかった。
―― なんだ……? この女の目がどうも苦手だ……。
視線をスイッと外したマルコにエマは眉をピクリと動かした。だがエマはそれ以上問い詰める気は無いのかマルコに背を向けてなにも言わずに歩き出した。
「あ、おい」
「私はすることがあるの。動けるのなら悪いことは言わない。日が高い内にこの道を真っ直ぐ行けば夕方頃には第七地区に着くわ。”感染さえしていなければ”保護してくれるはずよ」
エマは振り向きもせずにそう告げると瓦礫の山を登って行った。
「感染……って、どういうことだ?」
マルコは首を傾げながらエマが指示した方角に視線を向けて後頭部をガシガシと掻いた。エマの言った方角にある第七地区とやらに向かうべきか、それとも――。
「ここで会ったのもなにかの縁ってェやつに頼ってみるか」
眉間に皺を寄せて少し考えたマルコだったが踵を返してエマが向かった瓦礫の山へと足を向けた。瓦礫の山をヒョイヒョイと掛け登ってエマの後を追う。すると先を行くエマがマルコの気配に気付いて振り向いた。
「なに?」
「いや、色々と聞きたいことがあってよい」
「他の人に聞いて」
エマは素っ気なくそう答えると瓦礫を超えた先にある橋だったと思われる場所へと飛び移った。冷たくあしらうような態度を取られてもマルコは気にせずにエマの後を追う。
「おれが頼れるのはエマしかいねェんだ」
「第七地区に行けば助けてくれる人がいるはずよ」
「エマがおれを助けたんだ。だからおれはエマに頼りてェんだが」
壊れ掛けの橋だった場所から向こう側の瓦礫へと飛び降りて行くエマにマルコがそう声を掛けた。するとエマはピタリと足を止めて大きく溜息を吐くと小さくかぶりを振った。
「エマ、頼む」
エマの元に追い付いたマルコがそう言うとエマはゆっくりと振り向いた。
「なにが聞きたいの?」
「レベル5《FIVE》の立入禁止区域。第七地区。それから感染って言ったが……、おれにはどういうことなのかさっぱり意味がわからねェんだ」
「……」
マルコの言葉を耳にしながらエマはじっとマルコの目を見据えた。嘘かどうかを探るかのような目だ。マルコもどちらかと言うとエマのように警戒心が強く猜疑心を持って人と接するタイプだ。だからエマのこの態度に対してマルコは然して嫌な気を抱くことは無かった。
マルコは黙ってエマの目を真っ直ぐ見つめ返している。エマのグリーンがかった瞳とマルコのブルーの瞳が交錯する。
―― そう簡単に相手を信用するタイプでは無い。お互いに――
言葉は交わさなくとも二人はなんとなく同じ思いを抱いた。そしてエマが先に視線を外すと仕方が無いとばかりに溜息を吐いた。
「わかった。話は用事が終わった後で安全な場所に着いてからよ。それで良い?」
「あァ、わかった」
マルコは少しホッとしたように軽く胸を撫で下ろして微笑を浮かべた。
「じゃあ一緒に来て。但し!」
「な、なんだ?」
「必ず私の指示に従うことを約束して」
「なぜだ?」
「そうやって疑問を抱いても黙って私の指示に従うと約束して」
エマはマルコを睨み付けながら釘を刺すように強く言った。
「それが守れないならあなたの目指す先はあっちよ」
反論の余地を与えないように続けざまにそう言い放って先程教えた第七地区がある方角へと指を指した。
「わ、わかったよい!」
マルコは微笑のままヒクリと頬を引き攣らせてコクリと頷いた。そのマルコの返事にエマは少し間を置いてから眉間に皺を寄せる。
―― こ、今度はなんだ?
エマに気圧されたマルコは思わず息を呑んだ。
「ねェ……」
「な、なんだ?」
「よいって、なに?」
「ッ……!」
「なにか意味が――」
「た、ただの口癖だ」
「――あァ、そう。納得したわ」
「ッ……」
エマは納得したように頷くと表情一つ変えずにマルコに背を向けてさっさと歩き出した。するとマルコは大きく溜息を吐いて頭を振りながら項垂れた。そうしてエマの背中を見やって眉間に皺を寄せる。
「やけに嫌味な冷たい女だ」
見た目は美人に類する。だが冷たい態度がそれに輪を掛けてより一層に冷たく刺々しさを感じさせる。だがそれでも――。昨夜のあの時に聞いた耳に馴染む温和な声音。それが自分の重い心を幾分か軽くして楽にさせてくれた気がしたのは確かで。
「いや、やっぱり気のせい……かもしれねェ……」
エマの目は何故か苦手だ。だがなにかを語っているような気もして不思議と目を逸らすことができない。
「まァなんにせよ、どういった状況にあるのかをまず把握しねェとな」
昨晩のあれはなんだったのか。ここが本当にどこなのか。それらを知るにはエマに付いて行くことが一番無難だ。長年海賊として培って来た勘がマルコにそう働き掛けている。
マルコはエマの指示に従い、黙って後を付いて行くのだった。
【〆栞】