06
日が暮れると頑丈な扉がある狭い場所に身を隠して息を潜め、日が昇ると同時に暗がりを避けて日の当たる道を歩き続けた。幾日かそれを繰り返して漸く辿り着いたのは且つて『サムジャールシティ』と呼ばれた荒廃した都市だ。
父《マイク》が向かったとされる叔父《ジョージ》の家はこのサムジャールシティの郊外にあったことをエマは覚えていた。叔父《ジョージ》の家は幼い頃に訪れた時と然して変わらない佇まいで直ぐにわかった。
エマが懐かしいとばかりに目を細めて微笑んだ時、玄関の扉が開いた。中から姿を現したのは父であるマイクだった。
マイクはエマの存在に気付くと持っていた荷物をドサリと落として立ち尽くした。
「まさか……」
エマは笑顔を浮かべるとマイクの元へと駆け出してその胸元に飛び込んだ。
「パパ!」
「エマ…なのか……?」
「えェ、そうよ! 驚いた?」
「驚くもなにも、こんな……」
マイクは徐に両膝を突いてエマを見上げた。そして、震える両手でエマの頬を包むように添えた。
「すっかり大人になって……」
「ふふ、もう一七歳よ」
笑うエマに亡き妻の面影を見たマイクはグッと息を飲んだ。思わず目頭が熱くなって視界が歪む。咄嗟に顔を俯けて戸惑いながら小さく頭を振ったマイクは右手で軽く拭うように両目に当てて立ち上がった。そうして再びエマを頭の先から足の爪先まで視線を配って少しだけ眉を顰めた。
「エマ、その恰好は……」
「第六地区ラーマで傭兵として訓練を受けて来たの」
「な、なんだって!?」
「なにか手伝えることがあると思ってね。武器もちょっと拝借して来たわよ」
驚くマイクを尻目にエマは荷物を地面に置いて鞄を開けた。その中にはマシンガンやハンドガン等の武器と大量の銃弾が沢山入っていた。
「もう子供じゃない。私も闘います。良いでしょう?」
「い、いや、それは」
娘《エマ》を危険な目に遭わせたくない父心としてはそう簡単に許可を出すわけにはいかない――と、マイクは首を振りながら拒否の言葉を口にしようとした。
「マイク、どうし――えっ!? まさかエマ!?」
「ジョージ叔父様! お久しぶり!」
「――ッ……」
奥から出て来たジョージが顔を覗かせるとエマの姿に驚きの声を上げた。その声でマイクはタイミングを逸して押し黙った。片やエマは嬉しそうに笑ってジョージの元へ駆け寄ると抱き着いた。
「そりゃ驚いたよ! エレナに似て美人になったなァ!」
「ふふ」
成長したエマを見つめながらジョージは感嘆の言葉を漏らした。
「ジョージ……」
妻の名を口にしたジョージにマイクは厳しい目を向けた。するとジョージはハッとして口元を抑えて苦笑した。
「っと、すまないマイク。で、エマは何をしに来たんだ?」
「手伝いに来たのよ」
「な、なんだって!?」
「待てエマ。私はまだ許可を出しては」
「あっそう。じゃあこの武器はいらないのね?」
「――はッ!?」
「あはは……、こりゃあエマの方に分があるなァ……」
武器が入った荷物を担いでふふんと鼻を鳴らして勝ち誇った顔を見せるエマに対してマイクはぐうの音も出なかった。
「くっ、それは、……いる」
「だったら私も残ることになるわね」
「い、いや、それとこれとは!」
「だって、私が持って来たんだから当然でしょう?」
「――ぐッ……」
「うーん……、外見だけならまだしも中身までエレナにそっくりだ」
「ふふ」
「……」
結局エマに押し切られたマイクは説得を諦め、研究の協力者として参加することを渋々認めた。だがこの後にこの判断が功を奏したことになる。エマの血がS.Vを治す血清の足掛かりとなる可能性を秘めていることがわかったからだ。
「私の血が……?」
「あァ。私やジョージを含めた多くの人達の血で試したがS.Vに対する免疫力を持っていなくて血清薬の試作すらできない段階だったんだが、エマの血で試したところS.Vに打ち勝ってしまって驚いたよ」
ジョージが研究施設で顕微鏡を覗いてチェックを点けている様子を見つめていたエマはマイクから研究資料を渡されてそう説明を受けた。
「じゃあ私は感染しないってこと?」
「空気感染はしない」
「……」
空気感染――。
あの日に起きたのは空気感染によるパンデミックが大部分を占めたことになる。あれから数年、何度か冬を越えた今となっては空気感染の危険は無くなったと言われているが――。
「エマ、勘違いしちゃダメだよ。多少の免疫があったとしても奴らに噛まれたりしたら感染はほぼ確実だからね」
ジョージがそう言うとマイクはコクリと頷いた。
「本当は噛まれても感染しない強力な免疫力を持った人がいれば良かったんだが……」
「今はエマの血から作った薬をより強力なものへと変える為に試行錯誤しているところだよ」
研究施設で薬品開発に取り掛かる役目を担っているのはジョージだ。元軍人だったマイクは武器を片手に街へ繰り出しては残された薬品や食べ物等、必要となる物資を集めて来る役目を担っていた。
エマの同行を最初こそ渋っていたマイクだったが、エマの実力を知ると心の底から感心し、いつ頃からかすっかり信用して頼るようになっていた。
エマはこの為だけに戦う術を磨いて来たのだ。こうして父《マイク》に認められて頼られることはエマにとっては嬉しいことであり誇れることでもあった。
やがて月日が経ち、エマが二十歳を迎えた日――。この日常は崩れ、全てが変わった。
エマが物資を調達して戻って来た時、地下研究施設から聞こえた音に異変を察した。エマは直ぐにハンドガンを手にして地下へと向かった。そして、階段を下りた先にある研究施設へと続くドアを開けた時、変わり果てたマイクの姿がそこにあった。
「あァァ……!」
「パパッ!?」
「くっ、エマ! に、逃げろ!」
奥の防護シェルターへと逃げ込んでいたジョージが叫んだ。マイクは分厚い防弾ガラスに向かって拳を振り上げては強く殴り続け、更に頭を打ち付けてまで破壊しようとしていた。その額は割れて拳はボロボロだ。
「そんな……、どうして感染したの……?」
「エマ! 早く逃げるんだ!」
ジョージは懸命に叫んだがエマの耳に届いていないのか呆然と立ち尽くしたまま微動だにしなかった。
マイクはエマに気付くと口端からダラダラと涎を垂らしながら「ハァァァッ…」と声を交えた吐息を発した。標的をジョージからエマに変えたようだ。そして、まるで獣のような雄叫びを上げたマイクは実の娘であるエマに容赦無く襲い掛かった。
「エマ!!」
ジョージが必死に叫んだ時、エマは条件反射のように身体が動いた。
パァンッ――!
乾いた音が大きく響いてエマはハッと我を取り戻した。自分が手にしているハンドガンの銃口は、実父であるマイクに向けられ、発砲した後の紫煙が舞っていた。
弾丸はマイクの眉間を打ち抜き、脳幹を破壊していた。
マイクが伸ばした手先がエマの数センチ手前まで迫っていた。しかし、届くことは無く身体が前のめりに力無く倒れてピクピクと痙攣を引き起こした。やがて完全に絶命したその身体は二度と動かなくなった。
両膝からガクリと崩れ落ちたエマは、ワナワナと震える手でハンドガンを離すとマイクに手を伸ばした。
「パパ……、パパ……、ねェ、パパ」
奥の防護シェルターから出て来たジョージは自分の腕に特効薬となる薬を注射してからエマの元へと歩み寄った。そして、涙をボロボロと零しながら必死になってマイクを呼び掛けるエマをギュッと抱き締めた。
「エマ……、エマッ……、もう、お父さんは、マイクは……! 兄さんは死んだんだ……」
「やだ、嫌!」
「エマ!」
「嫌、嫌だ……! ねェパパ起きて、ねェ起きて!」
「エマ! しっかりしなさい!!」
パンッ!
「ッ……!」
パニックを起こして泣き叫び始めたエマにジョージは頬を叩いた。滅多に怒鳴ることの無いジョージに驚いたエマは目を丸くして視線を向けた。
「言ったはずだ、遊びじゃないと。私も兄さんも命懸けなんだ。大事な人を亡くしてパニックを引き起こすような”傭兵”は足手纏いだ。今直ぐ元の地区に帰りなさい」
「な……!? ま、待って!」
ジョージは険しい表情でそう言うと立ち上がった。声を上げるエマを尻目にジョージは死に体となったマイクの腕を掴んで肩に担ぎ上げた。
「マイクの身体は研究材料の一つとして扱う。父親が切り刻まれる姿を見るのはエマだって嫌だろう?」
「!」
「ここから先は私が一人で戦う。エマは安全な地区に戻って普通の女性として生きなさい」
ジョージが厳しい声音でエマにそう告げるとマイクの遺体を寝台へと運んだ。その一方でエマはジョージの背中を見つめてグッと息を押し殺すように飲み込み顔を俯かせた。そして、震える手で胸元をギュッと握り締めるとゆらりと立ち上がって足早に研究施設から出て行った。
「これで良い。これで良いんだ。すまないエマ。君に最も近い血と細胞で感染した状態のものが必要だったんだ。だから……、すまない、すまないエマッ……! すまない……兄さん……」
ジョージは涙を流しながら謝罪の言葉を口にし続けた。そして実の兄だったマイクの身体にメスを入れるのだった。
◇
地下研究施設兼ジョージの家へと到着するとエマは颯爽と車から降りて後部のドアを開けた。マルコがダーク・ウォーカーを担いで降りるとジョージが家のドアの鍵を開けて「どうぞ」と声を掛けた。
マルコは促されるままに中へ入ると玄関口で足を止めて内装を見回した。外観や屋内の様子はマルコの世界でもよく見る一般的な様相とあまり変わり無かった。
「あなたの世界の家は原始的で全く違うのかしら?」
「凄ェ皮肉っぽく聞こえるのは気のせいか?」
マルコがそう言うとエマは肩を軽く竦めるだけで玄関のドアを閉めると鍵を掛けた。更に厚めの鉄製の扉があって内側から閉めるとそれにも鍵を掛けた。
「二重扉か」
マルコが片眉を上げてそう言うとエマは少しだけ微笑を浮かべた。
「防衛の為よ。あと、音と光が外に漏れないようにする為でもあるわ」
「成程な……」
マルコが納得するように頷いていると奥の部屋に先に入って行ったジョージが声を上げた。
「エマ! 私はウィルに餌をやらないといけないから先に地下へ案内してやってくれ!」
「えェ、わかったわ。マルコ、地下へ案内するからついて来て」
「ウィルって……?」
「犬の名よ。拾った時は小さな子犬だったけど、今じゃあ立派な番犬ね。ウィルっていうのは『勇敢な守護者』という意味らしいわ」
「へェ……」
「まさかと思うけど……、犬が嫌い?」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく」
「嫌いだったらどうしてくれるんだか」
「ウィルに襲えと嗾けようかと思って」
「ったく、エマは良い性格をしてるよい」
「あら、ありがとう」
「誉めて無ェ」
話をしながら地下研究施設へと向かう階段を下りて扉を開けると机と機械らしきものが置かれたガラス張りの部屋があった。
エマがガラス張りの中央の位置に立つとプシューと音を鳴らして一部分が自動で開いた。
「か、勝手に開くのか……?」
「えェ、センサーで人を感知したら開くのだけど……」
驚いて瞬きを繰り返して立ち尽くすマルコの様子に――これこそ本当に初めて見たって感じね――とエマは思った。
マルコは恐る恐るエマの歩いた後を辿るようにして足を進めた。まるで自分がそこを抜けようとした瞬間に閉まるんじゃないかと思っているかのようだ。無事にそこを通り抜けたマルコが後ろを振り返る。すると暫くして開いていたガラスのドアはプシューッと音を鳴らして自動で閉まった。
「……」
どういう仕組みなのか全くわからない。マルコは唖然として固まっていた。
「ねェ、早く置いてくれる?」
「――ッ! あ、あァ、悪ィ!」
マルコは担いでいたダーク・ウォーカーを寝台の上に置いた。そして、やはり自動ドアが気になるのか再び扉口に戻って不思議そうに観察を始めた。その一方でエマはダーク・ウォーカーの両腕と両足を寝台に括り付けて固定するとシートを被せた。そうして日除けとしてダーク・ウォーカーの身体を包んでいた自身のミリタリージャケットを引き抜いた。
「上のところ」
「上……?」
「センサーがあるの。手を差し出してみて」
「こうか?」
「目には見えないけど光が出てるの。それを遮るとセンサーが反応して開くようになっているのよ」
マルコは何も無い空間に手を差し出してみた。するとプシューと音を鳴らしてガラスの扉が開いた。手を引っ込めて暫く待っていると再びプシューッと音を鳴らしてガラスの扉が閉じ、もう一度差し出てみるとまた開いた。
―― 面白ェ。ちょっとハマるよい。
まるで子供が自動ドアに感激して遊ぶかのような――エマの位置からマルコの表情は見えてはいないが、その背中から感じる雰囲気は明らかにそれだとエマは思った。
「車も珍しがっていたぐらいだからマルコの世界は科学文明というものが発展していないのね」
「さァなァ……、世界は広いから探せばあるかもしれねェが、おれは初めて見る」
「そう」
マルコはそう答えると振り向いて寝台に被せられたカバーを見つめてからエマへと視線を移した。
「エマ、疲れてないかい?」
「どうして?」
「なんとなく、そう思った」
「そうね……。役目を一つ熟したから少し気が抜けたかもしれないわ」
エマが息を吐いてそう言葉を零した時、ドタドタと階段を下りて来る足音に二人は視線を扉口へと向けた。
ジョージが研究施設へと入って来ると階段下までジョージの後を追って下りて来たウィルという名の黒毛の犬が尻尾を振りながらクルクルと回ってその場に腰を下ろした。
「よし、偉いぞ」
ジョージが褒める言葉を投げ掛けるとウィルは「ワンッ」と鳴いた。
「二人共疲れただろう? 今日は鎮静剤を打って終わり。実験は明日にするよ」
「そう」
「あとマルコ君の……」
「おれの、なんだ?」
「ほら、あれだよ。なんだっけ? 不思議な力って奴」
ジョージがそわそわしながらそう言うとマルコは片眉を上げて「あァ」と頷いた。
「悪魔の実の能力のことかい?」
「そうそう、それ!」
ジョージは両手をパンッと鳴らしながらワクワクしているのか嬉しそうに言った。
「ジョージ叔父さんが興味があるだけでしょう?」
エマが呆れたようにそう言うとジョージは何を言うかと鼻息を荒くした。
「科学者としては見ておきたいじゃないか。非科学的な力というものは誰だって興味を抱くもの、でしょ?」
ジョージが手ぐすねをしながらそう言うとエマは小さくかぶりを振って溜息を吐いた。
「じゃあ私は先に上に行ってるから」
エマはそう言って研究室を出て行くとジョージは「楽しみだなァ」と独り言を口にしながらダーク・ウォーカーの様子を確認していた。
―― 非科学的……か。
マルコはジョージから視線を外して小さな溜息を吐くと首筋に手を当てた。
文明が発達したこの世界からすれば悪魔の実の能力というのはそう捉えられても仕方が無いのかもしれない。非常識で特異な力は人々に恐れられて敬遠される。下手をすれば敵意を向けられて抹殺される対象となり得る可能性は高い。
―― まァ、その辺はおれの世界でも大して変わりねェか……。
マルコはエマの後を追って研究室から出て行った。すると階段の麓でエマが腰を下ろしてウィルの頬を両手で包むようにして撫でながら声を掛ける姿があった。
――!
優しげな笑みを浮かべているエマを見たマルコは思わず目を丸くしてピタリと足を止めた。
「ウィル、元気にしてた?」
「ワンッ」
「ふふ、ジョージ叔父さんの相手も大変よね」
ウィルはエマの手を舐めると鼻先を上げて頬も舐めた。擽ったそうにしながらエマが笑ってくれることが嬉しいのだろう。ウィルは尻尾を大きく左右に振っていた。
「意外だよい……」
マルコが思わずポツリと零した言葉にエマはピタリと手を止めて振り向いた。
「なにが?」
「いや、なんでも」
「ワン!」
「――っと、」
エマの問い掛けに答えようとする前にウィルがマルコを見るなり一声上げて飛び付くように前足を上げた。。
「ワンッ! ワンッ!」
大きく尻尾を振りながら吠えるウィルの前足を支えるようにしながらマルコは腰を落とした。
「不審者だと思ったのかもしれないわね」
「なんでだよい、この尻尾の振り方を見りゃあそうじゃねェことぐらいわかるだろ」
マルコがウィルの頭を撫でてやるとウィルはスンスンッと鼻を鳴らしてマルコの匂いを嗅いでからペロペロと手を舐め始めた。
「ウィル、エマが妬いてるよい」
「誰が」
「くぅ〜ん」
エマがムッとした表情を浮かべてマルコを睨む一方でウィルは自らの身体をマルコに摺り寄せて甘えるように鳴いた。まるで――身体をもっと撫でてよ――と訴えるかのようにだ。マルコはクツリと笑うと身体を撫でてやった。するとウィルは余程嬉しかったのか更にマルコに向かって仰向けに転がった。
「ッ……!」
ウィルの様子にエマは驚く表情を浮かべた。その表情に気付いたマルコは瞬きを繰り返して少しだけ首を傾げた。
―― どうしてそんなに驚いてんだ……?
その時、プシューッと扉が開く音がした。研究室から出て来たジョージはボリボリと頭を掻きながらその光景を見るなりピタリと足を止めて目を見開いた。
「驚いた……。ウィルが甘えた声を出して身を寄せるのはマイクだけだったのに」
「ッ……」
「マイク……?」
ジョージの言葉にマルコがキョトンとしているとジョージはお腹を見せるウィルを見つめながら腕を組んだ。
「うーん、なんだかちょっと妬いちゃうな〜」
「ジョージ、マイクってェのは」
「マルコには関係の無いことよ。私は先に上で休んでるから」
「――……」
エマは吐き捨てるようにそう言うとさっさと立ち上がって階段を上っていった。
「驚いていたと思ったら今度は急に不機嫌になっちまったよい」
「仕方が無いよ。エマにとっては辛い話になるからね」
ジョージが溜息混じりにそう言うとマルコは眉を顰めながら立ち上がった。すると仰向けになっていたウィルが釣られるように身体を返して立つと前足を上げてマルコに――もっと触って――と、せがむように「くぅ〜ん」と鳴いた。
前足を動かして懸命に訴えるウィルに対してマルコはクツリと笑うと仕方が無しに再び腰を下ろして身体を撫で始めた。そうしてウィルの甘える姿を見つめていたジョージは少し思案顔を浮かべるとマルコに視線を向けた。
「マルコ君」
「なんだい?」
「マイクについて、少しだけ話を聞いてもらえるかな」
「エマはあまり聞いて欲しく無ェようだが……」
マルコがそう言うとジョージは首を振った。そしてポンッと軽くマルコの肩を叩いた。
「少なくともマルコ君はエマのことを”唯一心配してくれる人である”ことに間違いは無いと思うから」
「そりゃあ……どういうことだ?」
「エマが君に向ける態度がとても懐かしくてね」
「懐かしい?」
ウィルの身体を撫でながら眉を顰めるマルコにジョージは苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「あの子は自分の手でマイクを殺してからまるで人が変わってしまってね」
「殺し…た……?」
「エマは二十歳を迎える誕生日に実の父であるマイクを射殺したんだ」
「!」
「それ以来、エマは心を閉ざしてしまってね……」
ジョージはマルコの隣に腰を下ろすと寂し気に語った。
「傭兵として感情を殺すのは良いことなのかもしれない。でもね、叔父の立場として姪であるエマを見ていると辛くてね」
「どうして殺したんだ?」
「感染したんだよ」
「!」
「ダーク・ウォーカーとなってエマに襲い掛かったから……」
傭兵としての訓練を受けていたエマは防衛本能が働いたのだろう。無意識の内に動いてマイクを射殺した。あの時の光景は脳裏に焼き付いてしまって忘れることができないのだとジョージはマルコに嘆いた。しかし、ジョージは「あ、そうだった」と何かを思い出したかのように話を切ってポリポリと頬を掻いた。
ダーク・ウォーカーの存在については詳しく知らないよねと言いながら「えーっとね、S.Vというウイルスがあって――」と説明をし始めた。
「それに関してはエマから聞いてるよい」
「な、なんだって?」
「感染したら九十四パーセントの確率で死ぬウイルスだったのが突然変異を起こして空気感染するようになっちまって」
「あ、あァ……」
「――感染者は狂暴化して生きている人間に襲い掛かるようになって、世界は破滅の一途を辿ったってェ話だろい?」
「そ、そうだよ……」
ジョージは戸惑いながら頷くとマルコから視線を外して少し震える手で口元を覆った。
―― あのエマが会って間もない彼に話したなんて……。ウィルのこの懐き様といい、君は一体……。
「ジョージ?」
「あ、あァ、すまない。いや、ちゃんと話をすると時間が掛かるから、できればエマが眠った後に話をさせて欲しい」
「簡単に話すことは」
「いや、君には全てを詳しく話しておきたいんだ」
「――……おれに?」
少し困惑するマルコにジョージは真剣な面持ちでコクリと頷いた――かと思うと突然マルコに向かって頭を下げた。
「お、おい」
「私は”あなたに”頼みたい!」
「――ッ、な、なに?」
「あの子を、エマを、守ってやって欲しいんだ!」
「!」
「あの子は兵士として一流で強い。でも、女の子なんだよ! 一人で暗い部屋にいることさえ怖がって泣き虫だったか弱い女の子だったんだ!」
ジョージはそう言うとマルコの両肩を掴んで縋った。
―― どういうことだ?
まるでもう直ぐ自分がいなくなってしまうかのような物言いに思えたマルコは眉を顰めた。
「ジョージ……、何を考えてんだ?」
「ッ……」
マルコがそう問い掛けるとジョージは何も答えずに着ているシャツのボタンを外し始めた。
「おい――ッ!?」
どうして急に服を――と思ったマルコだったが、ジョージが左肩を見せた途端にマルコは声を飲み込んだ。
―― まさか、その傷は……。
深い裂傷の痕がくっきりと残っていた。更に周りの皮膚が変色し始めているのがわかった。
「S.Vに多少なりとも免疫があったエマの血から作った血清薬があってね」
「!」
「まだ効力が弱いから治すことはできないんだけど、引き延ばすことはできるみたいでね」
ジョージは力無く笑うとシャツを着直してボタンをかけ始めた。
「だから私は”まだ”人でいられる。でもね、正直に言うともう時間はそんなに残っていないんだ。その内に効き目が無くなって私は人では無くなる」
「ッ……!」
「それまでになんとか治療薬を開発しないと、”死んでくれた”兄に申し訳が無い」
ジョージはそう言うと両手をギュッと握り締めた。唇をグッと噛んで悔しさから肩を震わせた。
「その傷はエマのオヤジにやられたのか」
「そうだ……」
「っつぅか、今、死んでくれたって言ったな?」
マルコがそう問うとジョージはコクリと頷いた。
エマに最も近い血と細胞で感染した状態のものがどうしても必要だった。――ということは実父であるマイクが最適だったということを意味する。
「おい、まさか……!」
「私は反対したんだ。でも、マイクは……」
マイクは自ら犠牲になることを望んだとジョージは言った。
「ッ……」
マルコは言葉に詰まって絶句した。
「エマは私が感染していることを知らない」
「!」
「感染したマイクが正気を失って暴れた時、エマはここにいなかった。この奥にある防護シェルターに逃げ込む時にしくじってね、マイクに引っ掛かれてしまったんだよ。血清を直ぐに打ったからだと思うけど、感染しながらも人のままでいれることに気付いたのはこの時に初めて知ったんだ。ハハ、皮肉だよね」
マルコがどう声を掛けて良いのかわからずに言葉を選んでいるとジョージは息を小さく吐いて自嘲気味に笑いながら最後のボタンを留めた。
「あァ、そうだ。まずマルコ君の血を検査しておかないとね」
「おれの……?」
「君だけが頼りなんだから。免疫力が無かったら色々と教えないとね!」
ジョージは暗い雰囲気をパッと変えるように明るい口調でそう言うと直ぐに立ち上がって研究施設へと入って行った。
「ちょっとこっちに来てくれるかなァ!」
「あ、あァ、わかったよい」
マルコは返事をするとウィルに視線を落とした。
「ウィル、もう十分だろい? お前は先に上に行ってエマの相手を頼むよい」
「ワンッ!」
通じる通じないは置いといてマルコがそう告げるとウィルはまるで「わかった」と返事をするかのように吠えてから階段を駆け上っていった。
「へェ……、賢いんだな」
目を丸くしながら感嘆の声を漏らしてウィルを見送ったマルコは踵を返して研究施設へと入っていった。
父《マイク》が向かったとされる叔父《ジョージ》の家はこのサムジャールシティの郊外にあったことをエマは覚えていた。叔父《ジョージ》の家は幼い頃に訪れた時と然して変わらない佇まいで直ぐにわかった。
エマが懐かしいとばかりに目を細めて微笑んだ時、玄関の扉が開いた。中から姿を現したのは父であるマイクだった。
マイクはエマの存在に気付くと持っていた荷物をドサリと落として立ち尽くした。
「まさか……」
エマは笑顔を浮かべるとマイクの元へと駆け出してその胸元に飛び込んだ。
「パパ!」
「エマ…なのか……?」
「えェ、そうよ! 驚いた?」
「驚くもなにも、こんな……」
マイクは徐に両膝を突いてエマを見上げた。そして、震える両手でエマの頬を包むように添えた。
「すっかり大人になって……」
「ふふ、もう一七歳よ」
笑うエマに亡き妻の面影を見たマイクはグッと息を飲んだ。思わず目頭が熱くなって視界が歪む。咄嗟に顔を俯けて戸惑いながら小さく頭を振ったマイクは右手で軽く拭うように両目に当てて立ち上がった。そうして再びエマを頭の先から足の爪先まで視線を配って少しだけ眉を顰めた。
「エマ、その恰好は……」
「第六地区ラーマで傭兵として訓練を受けて来たの」
「な、なんだって!?」
「なにか手伝えることがあると思ってね。武器もちょっと拝借して来たわよ」
驚くマイクを尻目にエマは荷物を地面に置いて鞄を開けた。その中にはマシンガンやハンドガン等の武器と大量の銃弾が沢山入っていた。
「もう子供じゃない。私も闘います。良いでしょう?」
「い、いや、それは」
娘《エマ》を危険な目に遭わせたくない父心としてはそう簡単に許可を出すわけにはいかない――と、マイクは首を振りながら拒否の言葉を口にしようとした。
「マイク、どうし――えっ!? まさかエマ!?」
「ジョージ叔父様! お久しぶり!」
「――ッ……」
奥から出て来たジョージが顔を覗かせるとエマの姿に驚きの声を上げた。その声でマイクはタイミングを逸して押し黙った。片やエマは嬉しそうに笑ってジョージの元へ駆け寄ると抱き着いた。
「そりゃ驚いたよ! エレナに似て美人になったなァ!」
「ふふ」
成長したエマを見つめながらジョージは感嘆の言葉を漏らした。
「ジョージ……」
妻の名を口にしたジョージにマイクは厳しい目を向けた。するとジョージはハッとして口元を抑えて苦笑した。
「っと、すまないマイク。で、エマは何をしに来たんだ?」
「手伝いに来たのよ」
「な、なんだって!?」
「待てエマ。私はまだ許可を出しては」
「あっそう。じゃあこの武器はいらないのね?」
「――はッ!?」
「あはは……、こりゃあエマの方に分があるなァ……」
武器が入った荷物を担いでふふんと鼻を鳴らして勝ち誇った顔を見せるエマに対してマイクはぐうの音も出なかった。
「くっ、それは、……いる」
「だったら私も残ることになるわね」
「い、いや、それとこれとは!」
「だって、私が持って来たんだから当然でしょう?」
「――ぐッ……」
「うーん……、外見だけならまだしも中身までエレナにそっくりだ」
「ふふ」
「……」
結局エマに押し切られたマイクは説得を諦め、研究の協力者として参加することを渋々認めた。だがこの後にこの判断が功を奏したことになる。エマの血がS.Vを治す血清の足掛かりとなる可能性を秘めていることがわかったからだ。
「私の血が……?」
「あァ。私やジョージを含めた多くの人達の血で試したがS.Vに対する免疫力を持っていなくて血清薬の試作すらできない段階だったんだが、エマの血で試したところS.Vに打ち勝ってしまって驚いたよ」
ジョージが研究施設で顕微鏡を覗いてチェックを点けている様子を見つめていたエマはマイクから研究資料を渡されてそう説明を受けた。
「じゃあ私は感染しないってこと?」
「空気感染はしない」
「……」
空気感染――。
あの日に起きたのは空気感染によるパンデミックが大部分を占めたことになる。あれから数年、何度か冬を越えた今となっては空気感染の危険は無くなったと言われているが――。
「エマ、勘違いしちゃダメだよ。多少の免疫があったとしても奴らに噛まれたりしたら感染はほぼ確実だからね」
ジョージがそう言うとマイクはコクリと頷いた。
「本当は噛まれても感染しない強力な免疫力を持った人がいれば良かったんだが……」
「今はエマの血から作った薬をより強力なものへと変える為に試行錯誤しているところだよ」
研究施設で薬品開発に取り掛かる役目を担っているのはジョージだ。元軍人だったマイクは武器を片手に街へ繰り出しては残された薬品や食べ物等、必要となる物資を集めて来る役目を担っていた。
エマの同行を最初こそ渋っていたマイクだったが、エマの実力を知ると心の底から感心し、いつ頃からかすっかり信用して頼るようになっていた。
エマはこの為だけに戦う術を磨いて来たのだ。こうして父《マイク》に認められて頼られることはエマにとっては嬉しいことであり誇れることでもあった。
やがて月日が経ち、エマが二十歳を迎えた日――。この日常は崩れ、全てが変わった。
エマが物資を調達して戻って来た時、地下研究施設から聞こえた音に異変を察した。エマは直ぐにハンドガンを手にして地下へと向かった。そして、階段を下りた先にある研究施設へと続くドアを開けた時、変わり果てたマイクの姿がそこにあった。
「あァァ……!」
「パパッ!?」
「くっ、エマ! に、逃げろ!」
奥の防護シェルターへと逃げ込んでいたジョージが叫んだ。マイクは分厚い防弾ガラスに向かって拳を振り上げては強く殴り続け、更に頭を打ち付けてまで破壊しようとしていた。その額は割れて拳はボロボロだ。
「そんな……、どうして感染したの……?」
「エマ! 早く逃げるんだ!」
ジョージは懸命に叫んだがエマの耳に届いていないのか呆然と立ち尽くしたまま微動だにしなかった。
マイクはエマに気付くと口端からダラダラと涎を垂らしながら「ハァァァッ…」と声を交えた吐息を発した。標的をジョージからエマに変えたようだ。そして、まるで獣のような雄叫びを上げたマイクは実の娘であるエマに容赦無く襲い掛かった。
「エマ!!」
ジョージが必死に叫んだ時、エマは条件反射のように身体が動いた。
パァンッ――!
乾いた音が大きく響いてエマはハッと我を取り戻した。自分が手にしているハンドガンの銃口は、実父であるマイクに向けられ、発砲した後の紫煙が舞っていた。
弾丸はマイクの眉間を打ち抜き、脳幹を破壊していた。
マイクが伸ばした手先がエマの数センチ手前まで迫っていた。しかし、届くことは無く身体が前のめりに力無く倒れてピクピクと痙攣を引き起こした。やがて完全に絶命したその身体は二度と動かなくなった。
両膝からガクリと崩れ落ちたエマは、ワナワナと震える手でハンドガンを離すとマイクに手を伸ばした。
「パパ……、パパ……、ねェ、パパ」
奥の防護シェルターから出て来たジョージは自分の腕に特効薬となる薬を注射してからエマの元へと歩み寄った。そして、涙をボロボロと零しながら必死になってマイクを呼び掛けるエマをギュッと抱き締めた。
「エマ……、エマッ……、もう、お父さんは、マイクは……! 兄さんは死んだんだ……」
「やだ、嫌!」
「エマ!」
「嫌、嫌だ……! ねェパパ起きて、ねェ起きて!」
「エマ! しっかりしなさい!!」
パンッ!
「ッ……!」
パニックを起こして泣き叫び始めたエマにジョージは頬を叩いた。滅多に怒鳴ることの無いジョージに驚いたエマは目を丸くして視線を向けた。
「言ったはずだ、遊びじゃないと。私も兄さんも命懸けなんだ。大事な人を亡くしてパニックを引き起こすような”傭兵”は足手纏いだ。今直ぐ元の地区に帰りなさい」
「な……!? ま、待って!」
ジョージは険しい表情でそう言うと立ち上がった。声を上げるエマを尻目にジョージは死に体となったマイクの腕を掴んで肩に担ぎ上げた。
「マイクの身体は研究材料の一つとして扱う。父親が切り刻まれる姿を見るのはエマだって嫌だろう?」
「!」
「ここから先は私が一人で戦う。エマは安全な地区に戻って普通の女性として生きなさい」
ジョージが厳しい声音でエマにそう告げるとマイクの遺体を寝台へと運んだ。その一方でエマはジョージの背中を見つめてグッと息を押し殺すように飲み込み顔を俯かせた。そして、震える手で胸元をギュッと握り締めるとゆらりと立ち上がって足早に研究施設から出て行った。
「これで良い。これで良いんだ。すまないエマ。君に最も近い血と細胞で感染した状態のものが必要だったんだ。だから……、すまない、すまないエマッ……! すまない……兄さん……」
ジョージは涙を流しながら謝罪の言葉を口にし続けた。そして実の兄だったマイクの身体にメスを入れるのだった。
◇
地下研究施設兼ジョージの家へと到着するとエマは颯爽と車から降りて後部のドアを開けた。マルコがダーク・ウォーカーを担いで降りるとジョージが家のドアの鍵を開けて「どうぞ」と声を掛けた。
マルコは促されるままに中へ入ると玄関口で足を止めて内装を見回した。外観や屋内の様子はマルコの世界でもよく見る一般的な様相とあまり変わり無かった。
「あなたの世界の家は原始的で全く違うのかしら?」
「凄ェ皮肉っぽく聞こえるのは気のせいか?」
マルコがそう言うとエマは肩を軽く竦めるだけで玄関のドアを閉めると鍵を掛けた。更に厚めの鉄製の扉があって内側から閉めるとそれにも鍵を掛けた。
「二重扉か」
マルコが片眉を上げてそう言うとエマは少しだけ微笑を浮かべた。
「防衛の為よ。あと、音と光が外に漏れないようにする為でもあるわ」
「成程な……」
マルコが納得するように頷いていると奥の部屋に先に入って行ったジョージが声を上げた。
「エマ! 私はウィルに餌をやらないといけないから先に地下へ案内してやってくれ!」
「えェ、わかったわ。マルコ、地下へ案内するからついて来て」
「ウィルって……?」
「犬の名よ。拾った時は小さな子犬だったけど、今じゃあ立派な番犬ね。ウィルっていうのは『勇敢な守護者』という意味らしいわ」
「へェ……」
「まさかと思うけど……、犬が嫌い?」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく」
「嫌いだったらどうしてくれるんだか」
「ウィルに襲えと嗾けようかと思って」
「ったく、エマは良い性格をしてるよい」
「あら、ありがとう」
「誉めて無ェ」
話をしながら地下研究施設へと向かう階段を下りて扉を開けると机と機械らしきものが置かれたガラス張りの部屋があった。
エマがガラス張りの中央の位置に立つとプシューと音を鳴らして一部分が自動で開いた。
「か、勝手に開くのか……?」
「えェ、センサーで人を感知したら開くのだけど……」
驚いて瞬きを繰り返して立ち尽くすマルコの様子に――これこそ本当に初めて見たって感じね――とエマは思った。
マルコは恐る恐るエマの歩いた後を辿るようにして足を進めた。まるで自分がそこを抜けようとした瞬間に閉まるんじゃないかと思っているかのようだ。無事にそこを通り抜けたマルコが後ろを振り返る。すると暫くして開いていたガラスのドアはプシューッと音を鳴らして自動で閉まった。
「……」
どういう仕組みなのか全くわからない。マルコは唖然として固まっていた。
「ねェ、早く置いてくれる?」
「――ッ! あ、あァ、悪ィ!」
マルコは担いでいたダーク・ウォーカーを寝台の上に置いた。そして、やはり自動ドアが気になるのか再び扉口に戻って不思議そうに観察を始めた。その一方でエマはダーク・ウォーカーの両腕と両足を寝台に括り付けて固定するとシートを被せた。そうして日除けとしてダーク・ウォーカーの身体を包んでいた自身のミリタリージャケットを引き抜いた。
「上のところ」
「上……?」
「センサーがあるの。手を差し出してみて」
「こうか?」
「目には見えないけど光が出てるの。それを遮るとセンサーが反応して開くようになっているのよ」
マルコは何も無い空間に手を差し出してみた。するとプシューと音を鳴らしてガラスの扉が開いた。手を引っ込めて暫く待っていると再びプシューッと音を鳴らしてガラスの扉が閉じ、もう一度差し出てみるとまた開いた。
―― 面白ェ。ちょっとハマるよい。
まるで子供が自動ドアに感激して遊ぶかのような――エマの位置からマルコの表情は見えてはいないが、その背中から感じる雰囲気は明らかにそれだとエマは思った。
「車も珍しがっていたぐらいだからマルコの世界は科学文明というものが発展していないのね」
「さァなァ……、世界は広いから探せばあるかもしれねェが、おれは初めて見る」
「そう」
マルコはそう答えると振り向いて寝台に被せられたカバーを見つめてからエマへと視線を移した。
「エマ、疲れてないかい?」
「どうして?」
「なんとなく、そう思った」
「そうね……。役目を一つ熟したから少し気が抜けたかもしれないわ」
エマが息を吐いてそう言葉を零した時、ドタドタと階段を下りて来る足音に二人は視線を扉口へと向けた。
ジョージが研究施設へと入って来ると階段下までジョージの後を追って下りて来たウィルという名の黒毛の犬が尻尾を振りながらクルクルと回ってその場に腰を下ろした。
「よし、偉いぞ」
ジョージが褒める言葉を投げ掛けるとウィルは「ワンッ」と鳴いた。
「二人共疲れただろう? 今日は鎮静剤を打って終わり。実験は明日にするよ」
「そう」
「あとマルコ君の……」
「おれの、なんだ?」
「ほら、あれだよ。なんだっけ? 不思議な力って奴」
ジョージがそわそわしながらそう言うとマルコは片眉を上げて「あァ」と頷いた。
「悪魔の実の能力のことかい?」
「そうそう、それ!」
ジョージは両手をパンッと鳴らしながらワクワクしているのか嬉しそうに言った。
「ジョージ叔父さんが興味があるだけでしょう?」
エマが呆れたようにそう言うとジョージは何を言うかと鼻息を荒くした。
「科学者としては見ておきたいじゃないか。非科学的な力というものは誰だって興味を抱くもの、でしょ?」
ジョージが手ぐすねをしながらそう言うとエマは小さくかぶりを振って溜息を吐いた。
「じゃあ私は先に上に行ってるから」
エマはそう言って研究室を出て行くとジョージは「楽しみだなァ」と独り言を口にしながらダーク・ウォーカーの様子を確認していた。
―― 非科学的……か。
マルコはジョージから視線を外して小さな溜息を吐くと首筋に手を当てた。
文明が発達したこの世界からすれば悪魔の実の能力というのはそう捉えられても仕方が無いのかもしれない。非常識で特異な力は人々に恐れられて敬遠される。下手をすれば敵意を向けられて抹殺される対象となり得る可能性は高い。
―― まァ、その辺はおれの世界でも大して変わりねェか……。
マルコはエマの後を追って研究室から出て行った。すると階段の麓でエマが腰を下ろしてウィルの頬を両手で包むようにして撫でながら声を掛ける姿があった。
――!
優しげな笑みを浮かべているエマを見たマルコは思わず目を丸くしてピタリと足を止めた。
「ウィル、元気にしてた?」
「ワンッ」
「ふふ、ジョージ叔父さんの相手も大変よね」
ウィルはエマの手を舐めると鼻先を上げて頬も舐めた。擽ったそうにしながらエマが笑ってくれることが嬉しいのだろう。ウィルは尻尾を大きく左右に振っていた。
「意外だよい……」
マルコが思わずポツリと零した言葉にエマはピタリと手を止めて振り向いた。
「なにが?」
「いや、なんでも」
「ワン!」
「――っと、」
エマの問い掛けに答えようとする前にウィルがマルコを見るなり一声上げて飛び付くように前足を上げた。。
「ワンッ! ワンッ!」
大きく尻尾を振りながら吠えるウィルの前足を支えるようにしながらマルコは腰を落とした。
「不審者だと思ったのかもしれないわね」
「なんでだよい、この尻尾の振り方を見りゃあそうじゃねェことぐらいわかるだろ」
マルコがウィルの頭を撫でてやるとウィルはスンスンッと鼻を鳴らしてマルコの匂いを嗅いでからペロペロと手を舐め始めた。
「ウィル、エマが妬いてるよい」
「誰が」
「くぅ〜ん」
エマがムッとした表情を浮かべてマルコを睨む一方でウィルは自らの身体をマルコに摺り寄せて甘えるように鳴いた。まるで――身体をもっと撫でてよ――と訴えるかのようにだ。マルコはクツリと笑うと身体を撫でてやった。するとウィルは余程嬉しかったのか更にマルコに向かって仰向けに転がった。
「ッ……!」
ウィルの様子にエマは驚く表情を浮かべた。その表情に気付いたマルコは瞬きを繰り返して少しだけ首を傾げた。
―― どうしてそんなに驚いてんだ……?
その時、プシューッと扉が開く音がした。研究室から出て来たジョージはボリボリと頭を掻きながらその光景を見るなりピタリと足を止めて目を見開いた。
「驚いた……。ウィルが甘えた声を出して身を寄せるのはマイクだけだったのに」
「ッ……」
「マイク……?」
ジョージの言葉にマルコがキョトンとしているとジョージはお腹を見せるウィルを見つめながら腕を組んだ。
「うーん、なんだかちょっと妬いちゃうな〜」
「ジョージ、マイクってェのは」
「マルコには関係の無いことよ。私は先に上で休んでるから」
「――……」
エマは吐き捨てるようにそう言うとさっさと立ち上がって階段を上っていった。
「驚いていたと思ったら今度は急に不機嫌になっちまったよい」
「仕方が無いよ。エマにとっては辛い話になるからね」
ジョージが溜息混じりにそう言うとマルコは眉を顰めながら立ち上がった。すると仰向けになっていたウィルが釣られるように身体を返して立つと前足を上げてマルコに――もっと触って――と、せがむように「くぅ〜ん」と鳴いた。
前足を動かして懸命に訴えるウィルに対してマルコはクツリと笑うと仕方が無しに再び腰を下ろして身体を撫で始めた。そうしてウィルの甘える姿を見つめていたジョージは少し思案顔を浮かべるとマルコに視線を向けた。
「マルコ君」
「なんだい?」
「マイクについて、少しだけ話を聞いてもらえるかな」
「エマはあまり聞いて欲しく無ェようだが……」
マルコがそう言うとジョージは首を振った。そしてポンッと軽くマルコの肩を叩いた。
「少なくともマルコ君はエマのことを”唯一心配してくれる人である”ことに間違いは無いと思うから」
「そりゃあ……どういうことだ?」
「エマが君に向ける態度がとても懐かしくてね」
「懐かしい?」
ウィルの身体を撫でながら眉を顰めるマルコにジョージは苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「あの子は自分の手でマイクを殺してからまるで人が変わってしまってね」
「殺し…た……?」
「エマは二十歳を迎える誕生日に実の父であるマイクを射殺したんだ」
「!」
「それ以来、エマは心を閉ざしてしまってね……」
ジョージはマルコの隣に腰を下ろすと寂し気に語った。
「傭兵として感情を殺すのは良いことなのかもしれない。でもね、叔父の立場として姪であるエマを見ていると辛くてね」
「どうして殺したんだ?」
「感染したんだよ」
「!」
「ダーク・ウォーカーとなってエマに襲い掛かったから……」
傭兵としての訓練を受けていたエマは防衛本能が働いたのだろう。無意識の内に動いてマイクを射殺した。あの時の光景は脳裏に焼き付いてしまって忘れることができないのだとジョージはマルコに嘆いた。しかし、ジョージは「あ、そうだった」と何かを思い出したかのように話を切ってポリポリと頬を掻いた。
ダーク・ウォーカーの存在については詳しく知らないよねと言いながら「えーっとね、S.Vというウイルスがあって――」と説明をし始めた。
「それに関してはエマから聞いてるよい」
「な、なんだって?」
「感染したら九十四パーセントの確率で死ぬウイルスだったのが突然変異を起こして空気感染するようになっちまって」
「あ、あァ……」
「――感染者は狂暴化して生きている人間に襲い掛かるようになって、世界は破滅の一途を辿ったってェ話だろい?」
「そ、そうだよ……」
ジョージは戸惑いながら頷くとマルコから視線を外して少し震える手で口元を覆った。
―― あのエマが会って間もない彼に話したなんて……。ウィルのこの懐き様といい、君は一体……。
「ジョージ?」
「あ、あァ、すまない。いや、ちゃんと話をすると時間が掛かるから、できればエマが眠った後に話をさせて欲しい」
「簡単に話すことは」
「いや、君には全てを詳しく話しておきたいんだ」
「――……おれに?」
少し困惑するマルコにジョージは真剣な面持ちでコクリと頷いた――かと思うと突然マルコに向かって頭を下げた。
「お、おい」
「私は”あなたに”頼みたい!」
「――ッ、な、なに?」
「あの子を、エマを、守ってやって欲しいんだ!」
「!」
「あの子は兵士として一流で強い。でも、女の子なんだよ! 一人で暗い部屋にいることさえ怖がって泣き虫だったか弱い女の子だったんだ!」
ジョージはそう言うとマルコの両肩を掴んで縋った。
―― どういうことだ?
まるでもう直ぐ自分がいなくなってしまうかのような物言いに思えたマルコは眉を顰めた。
「ジョージ……、何を考えてんだ?」
「ッ……」
マルコがそう問い掛けるとジョージは何も答えずに着ているシャツのボタンを外し始めた。
「おい――ッ!?」
どうして急に服を――と思ったマルコだったが、ジョージが左肩を見せた途端にマルコは声を飲み込んだ。
―― まさか、その傷は……。
深い裂傷の痕がくっきりと残っていた。更に周りの皮膚が変色し始めているのがわかった。
「S.Vに多少なりとも免疫があったエマの血から作った血清薬があってね」
「!」
「まだ効力が弱いから治すことはできないんだけど、引き延ばすことはできるみたいでね」
ジョージは力無く笑うとシャツを着直してボタンをかけ始めた。
「だから私は”まだ”人でいられる。でもね、正直に言うともう時間はそんなに残っていないんだ。その内に効き目が無くなって私は人では無くなる」
「ッ……!」
「それまでになんとか治療薬を開発しないと、”死んでくれた”兄に申し訳が無い」
ジョージはそう言うと両手をギュッと握り締めた。唇をグッと噛んで悔しさから肩を震わせた。
「その傷はエマのオヤジにやられたのか」
「そうだ……」
「っつぅか、今、死んでくれたって言ったな?」
マルコがそう問うとジョージはコクリと頷いた。
エマに最も近い血と細胞で感染した状態のものがどうしても必要だった。――ということは実父であるマイクが最適だったということを意味する。
「おい、まさか……!」
「私は反対したんだ。でも、マイクは……」
マイクは自ら犠牲になることを望んだとジョージは言った。
「ッ……」
マルコは言葉に詰まって絶句した。
「エマは私が感染していることを知らない」
「!」
「感染したマイクが正気を失って暴れた時、エマはここにいなかった。この奥にある防護シェルターに逃げ込む時にしくじってね、マイクに引っ掛かれてしまったんだよ。血清を直ぐに打ったからだと思うけど、感染しながらも人のままでいれることに気付いたのはこの時に初めて知ったんだ。ハハ、皮肉だよね」
マルコがどう声を掛けて良いのかわからずに言葉を選んでいるとジョージは息を小さく吐いて自嘲気味に笑いながら最後のボタンを留めた。
「あァ、そうだ。まずマルコ君の血を検査しておかないとね」
「おれの……?」
「君だけが頼りなんだから。免疫力が無かったら色々と教えないとね!」
ジョージは暗い雰囲気をパッと変えるように明るい口調でそう言うと直ぐに立ち上がって研究施設へと入って行った。
「ちょっとこっちに来てくれるかなァ!」
「あ、あァ、わかったよい」
マルコは返事をするとウィルに視線を落とした。
「ウィル、もう十分だろい? お前は先に上に行ってエマの相手を頼むよい」
「ワンッ!」
通じる通じないは置いといてマルコがそう告げるとウィルはまるで「わかった」と返事をするかのように吠えてから階段を駆け上っていった。
「へェ……、賢いんだな」
目を丸くしながら感嘆の声を漏らしてウィルを見送ったマルコは踵を返して研究施設へと入っていった。
【〆栞】