08
カサディスの浜辺には、今日も穏やかな波が打ち寄せている。
網に掛かる魚を獲り、神の恵みに感謝する。
元気に駆け回る子供達の声は賑やかで、集う家族や仲間達と火を囲んで笑い合う。
日々平和で、当たり前の日常で、これがこの先もずっと続くもの。
誰もがそう信じていた。
明けの空、彼方より渡る羽音を聞く、その時までは――。
◇
直ぐ目の前で敬愛する人の死を目の当たりにし、その光景に愕然とする傍らで末弟が弟と呼ぶルーキーを守って死んだ。
何もできずに立ち尽くしていると「何やってんだ!」と声を張り上げて自分の胸倉を掴んだ男は、もう二度と会えないはずの――
「サッチ!」
ドクンッと大きく心臓が波打つ感覚に目を見開いたマルコはガバッと起き上がった。
ハッ…ハッ…と呼吸を乱しながら額に手を当てる。そして、窓から射し込む明るい光に目を細めて深く息を吐いた。
二度と見たくない光景を夢の中で何度も繰り返して目の当たりすることは多い。しかし、近頃はその回数も減っていたというのに、またその夢を見た。
未だに自分の心が傷付いたままで癒えずにいるのは、認めたくも無い事実に顔を背けて逃げ道を辿っているからとも言える。
頭を軽く振ったマルコは、ベッドから降りて顔を洗いに部屋を出た。
頭から冷水を被って幾許かすっきりすると部屋に戻って服を着替え始める。紫のシャツに青いサッシュ――といきたいところだが、生憎それは洗濯に出した為、麻の衣服を着用する。
この服を着るとカサディス村の村民に定着した気分になる為、あまり好みでは無いのだが……。
仕様がねェかと腰巻を結んだ折にポツリと零して、立て掛けてあったランディングソードを手に取ってコキコキと軽く首を鳴らした。
「行くか……」
今の時間ならまだ誰も起きていない。村長宅を出たマルコは誰にも会わないように気配を探りながら村の外を目指した。
目的地は宿営地の少し先にある岬だ。そこに自生しているらしい『岬の花』をこっそり摘んで来て欲しいと頼まれていた為だ。
それは時を遡って昨日のこと――
漁師のエルパ―の息子がこっそりと村外へと出たようで、ちょっとした騒ぎとなった。エルパ―夫妻は雑貨屋を営むイオーラの手伝いで帳簿を付けていたマルコに息子を探して欲しいと泣き付き、マルコは単身でエルパ―の息子を探しに村の外へと走った。
「うわァァん!」
「!」
宿営地へと続く道の外れで子供の泣き声が聞こえた。駆け付けてみれば、今まさにゴブリン達に襲われそうになって泣き叫ぶ子供がいた。
ちょっと待てとマルコが声を掛けると、ゴブリンは「アイツダ!」と指を差してキーキー鳴いた。
いつもなら一目散に逃げるはずなのだが――と、マルコは片眉を上げた。
ゴブリン達は何やら小瓶を手にして仲間内で顔を見合わせるとコクリと頷き、それをマルコに向けて一斉に投げ付け始めた。
逃げずに戦いを挑んで来るゴブリン達に、マルコは怪訝に思いながらも投げ付けて来る小瓶を避けていた。しかし、マルコの頭上に投げられた小瓶が木の枝に当たってパリンッと割れた。
「うお!?」
小瓶の中身を諸に被ったマルコは、ヌルリとした感触と匂いに目を丸くした。
「油かよい!?」
「グギャギャッ! モエテシマエー!」
松明を持って襲って来るゴブリン達に思わずギョッとしたマルコは、そういうことかい!と声を上げた。
再生の炎で何とかなるから大したこと無いだろうが、油に塗れた身体に引火して人が燃える姿を子供に見せるのはあまりに酷だと判断したマルコは、必死にそれらを躱した。そして――
「当たらなきゃ意味がねェ! 悪いが出直して来いよい!!」
反撃に出て数匹のゴブリンを撃退すると、ゴブリン達はまたしても一目散に逃げ出して行った。
「うあァァァん! 怖かったよォォ〜!!」
「襲って来る奴は追っ払ったから、もう泣くな。男だろい?」
油に塗れた衣服や身体に顔を顰めながら泣き叫ぶエルパ―の息子を慰めて、帰路につく途中、どうして黙って外に出たのかと理由を聞くと、母親の誕生日にプレゼントしたい花があり、どうしても驚かしたくて黙って出て行ったのだという。
村に無事に戻った後、両親に何度も外出した理由を問い詰められたが、彼は泣くだけで決して口を割らなかった。そして、夜分遅くにエルパ―の息子がこっそりとマルコの元を訪れ、自分の代わりに花を摘んで来て欲しいと頼んで来たのだ。
――ということで、
岬に着いたマルコは、どの花を摘もうかと選定を始めた。
「花束なんて送ったことがねェしなァ……。量としたらどれぐらいが良いのかわかんねェが、子供が送るもんだ。こんなもんで良いだろい」
活きの良いものを選んで摘み取ると、預かっていた包装紙に包んで来た道を足早に戻る。途中、宿営地の入口で見張りに立っていた兵士が怪しむような視線を送って来たが、マルコは黙ってその前を通り過ぎていった。
「……海兵みてェなもんだな」
世界は違うが、どの世界にも似たようなものが存在する。公共の職に就く人間に怪しまれて警戒されることに慣れてはいるが……。しかし、少し違った印象を受けて軽く首を傾げる。
「村人が単独でここを歩いてりゃ怪しいか」
カサディスの村人が着る衣服を纏っている今は、ただの『村民』と思われて当然だ。護衛も付けずに一人で歩いていれば、どうしたのかと怪しまれるのもまた当然で、マルコは何となく納得した。
村に到着する頃には、早朝から働き始める人影がちらほらと見受けられ、マルコは村内に入ると人目に付かないようにこっそりと裏道を抜けて村長宅へと戻った。そうしていつも通りの朝を迎え、村が日常の活気に満ちた頃、漁師のエルパ―宅の二階にいる息子の元を訪れた。
周りに人がいないことを確認し、塀に乗って二階の窓をコンコンと叩く。それに気付いたエルパーの息子は窓を開けて「入って」と声を掛けた。コクリと頷いたマルコは部屋に入ると、頼まれていた岬の花をエルパ―の息子に渡した。
「わぁ! 本当に行ってくれたんだ! ありがとう!」
「危険を承知で村を出たお前の男気に応えただけだよい」
喜ぶ彼の頭をくしゃりと撫でると、彼は少し頬を赤くしてニシシと笑った。
「!」
彼の笑顔が、どこか末弟の笑顔に似ている気がしたマルコは、撫でる手を一瞬だけ止めた。
「このままだと萎れちゃうから花瓶に水を入れて挿しておいた方が良いかな?」
「あ、あァ…」
思わず歯切れの悪い返事をしたマルコだったが、エルパ―の息子は気にすることも無く「わかった」と笑顔で頷いた。
「じゃあ、おれはもう行くよい」
「うん。マルコ、本当にありがとう」
「良いよい」
エルパ―の息子に軽く手を振ったマルコは、窓辺に手を掛けて周りに誰も居ないかを見回した。
「あ、ねェ!」
「ん?」
「今日はお仕事沢山あるの?」
「あー……」
仕事が無ければ遊ぼう!と、そう言いたいのだろう。しかし、少々運動不足で鈍った身体を鍛えたいマルコは、視線を泳がせてガシガシと頭を掻いた。
「そっか。今日は忙しいんだね」
「ッ、悪ィな……」
個人的な理由を優先したことに多少心が痛むものの仕方が無いと割り切って、マルコは別の日に埋め合わせをするとだけ約束した。
「みんなにもそう言っておくね!」
こうして漁師のエルパ―宅を後にしたマルコは、村長宅に一度戻ろうと足を向けた。その時、ふと遠くの空に視線を向けた。
「……何だ?」
穏やかで平穏な青い空と青い海は変わらない。しかし、どこかが違った。何かピンッと空気が張り詰めているような気がして、それでいて妙な胸騒ぎが突如として去来して眉を顰めた。
バサッ――バサッ――!
それはとても小さな音だ。だが、こっちに向かって来ているのか、それは徐々に大きくなって耳に届いて来る。その音には誰も気付いていない。
バサッ――バサッ――!
青い空に浮かぶ雲の切れ間に僅かに見えたのは黒い影。それはどんどん大きくなってこっちに近付いて来る。
バサッ――バサッ――……グオオオオッ!!
「!」
その姿、そして、羽音と共に獣染みた雄叫びが大きく耳に付いた。視力も聴力も並の人間より優れているのは、長年広い海を航行して周囲に警戒をしていた経験が為か、マルコは踵を返してカサディス村の中央広場へと向かった。
「謹聴! 謹聴!」
村の広場から出入り口となる門の前で、鎧に身を包んだ兵士が声高に村人に呼び掛けを行っている。宿営地の兵士が、何かがこの村に飛来して来るのを一早く察知してやって来たのかと思ったマルコは、緊張の面持ちを浮かべながら村人に混じって兵士の声に耳を傾けた。
この場に先に来ていたキナがマルコの存在に気付いて声を掛けようとした。だが、マルコの雰囲気がいつもと違うのを察したキナは声を飲み込んだ。
どう、したの……?
緊張、不安、警戒――。それらを多分に含んだ厳しい表情が現れていることが見て取れる。
キナはマルコの元に歩み寄ってそっと手を伸ばして腕に触れた。
「!」
ピクンと反応したマルコは、腕に触れて来たのがキナだと気付くと、少しだけ緊張感が解けたように厳しい表情を和らげて「キナか…」と声を漏らした。
「何か、あったの?」
キナがそう問い掛けた時、兵士が声高に告げた。
「神聖なる予言の告げることによれば、ドラゴンの目覚めは近い!」
「!」
「マルコさん?」
気付いたから来た――と言うわけでは無かった。それどころか、兵士の発した言葉にマルコは目を見開き唖然とした。
―― ドラゴン…? やっぱり、さっきの影は……!!
「誉ある領王の一軍に加わり、かの邪悪たるドラゴンを討つ! その時は来れり…!」
兵士が告げる言葉を聴く村人達はお互いに顔を見合わせる。また、話を聞き流しながら常日頃と同じように通りを行き交う村人もいて、どこか他人事だ。かく領都からの指令を声高に告げた兵士達も、ただ与えらえた仕事を熟すだけといった具合で緊張感なんてものは全く持ち合わせていなかった。
背後に広がる海辺へと振り向いたマルコは、遥か上空の彼方を望んだ。キナが少し戸惑い気味にマルコを見つめていると、腕に触れていた手にマルコの手が重ねられてギュッと握られたことに目を丸くした。
「マルコさん?」
少しだけ頬を赤くしながらキナが声を掛けると、マルコは振り向くこと無く言った。
キナ、逃げろ――と。
「え?」
「来る」
「待ってください。何が――」
酷く緊張した声音に聞こえたキナは、困惑して理由を聞こうとした。だがその時――
「うああっ!」
「「「!」」」
海辺で作業をしていた男が恐怖に慄きながら慌てて逃げて来た。村人達は「何だ? どうした?」と不思議そうに見つめ、兵士が「何だ! どうした!」と声を張って男に呼び掛けた。
「ドラゴンだ!」
「「「ッ――!!」」」
「何だと!?」
男の叫びに日常の空気は一変して緊張と不安に包まれ、村人達は騒めいて動揺した。そして、若い男達や兵士達は挙って海岸へと駆け出して行く。キナも驚いて握られる手を強く握り返してマルコに不安な表情を向けた。
「!」
緊迫した状況なのに柔らかい微笑を浮かべたマルコに、キナは思わず呼吸を忘れたかのように息を止めた。
「キナ、アダロ村長と一緒に女子供を優先して安全な場所に避難させるんだ。良いな?」
「待ってマルコさん!」
キナにそう告げたマルコは握った手を離し、キナの制止の声を聞かずに海岸へと駆け出した。
「ッ……」
不安を抱く自分を安心させる為の笑みだと思う。でも本当は――
大切だと思う人を失くす痛みはもう懲り懲りで。
それなら一層の事、自分の命を捨ててでも――。
マルコの奥底にある思いがそうであるかのように感じ取ったキナは、マルコに向ける慈愛の気持ちを胸にグッと固唾を飲んで大きく息を吐いた。そして、周囲に逃げるように声を掛けながらアダロを探すのだった。
網に掛かる魚を獲り、神の恵みに感謝する。
元気に駆け回る子供達の声は賑やかで、集う家族や仲間達と火を囲んで笑い合う。
日々平和で、当たり前の日常で、これがこの先もずっと続くもの。
誰もがそう信じていた。
明けの空、彼方より渡る羽音を聞く、その時までは――。
◇
直ぐ目の前で敬愛する人の死を目の当たりにし、その光景に愕然とする傍らで末弟が弟と呼ぶルーキーを守って死んだ。
何もできずに立ち尽くしていると「何やってんだ!」と声を張り上げて自分の胸倉を掴んだ男は、もう二度と会えないはずの――
「サッチ!」
ドクンッと大きく心臓が波打つ感覚に目を見開いたマルコはガバッと起き上がった。
ハッ…ハッ…と呼吸を乱しながら額に手を当てる。そして、窓から射し込む明るい光に目を細めて深く息を吐いた。
二度と見たくない光景を夢の中で何度も繰り返して目の当たりすることは多い。しかし、近頃はその回数も減っていたというのに、またその夢を見た。
未だに自分の心が傷付いたままで癒えずにいるのは、認めたくも無い事実に顔を背けて逃げ道を辿っているからとも言える。
頭を軽く振ったマルコは、ベッドから降りて顔を洗いに部屋を出た。
頭から冷水を被って幾許かすっきりすると部屋に戻って服を着替え始める。紫のシャツに青いサッシュ――といきたいところだが、生憎それは洗濯に出した為、麻の衣服を着用する。
この服を着るとカサディス村の村民に定着した気分になる為、あまり好みでは無いのだが……。
仕様がねェかと腰巻を結んだ折にポツリと零して、立て掛けてあったランディングソードを手に取ってコキコキと軽く首を鳴らした。
「行くか……」
今の時間ならまだ誰も起きていない。村長宅を出たマルコは誰にも会わないように気配を探りながら村の外を目指した。
目的地は宿営地の少し先にある岬だ。そこに自生しているらしい『岬の花』をこっそり摘んで来て欲しいと頼まれていた為だ。
それは時を遡って昨日のこと――
漁師のエルパ―の息子がこっそりと村外へと出たようで、ちょっとした騒ぎとなった。エルパ―夫妻は雑貨屋を営むイオーラの手伝いで帳簿を付けていたマルコに息子を探して欲しいと泣き付き、マルコは単身でエルパ―の息子を探しに村の外へと走った。
「うわァァん!」
「!」
宿営地へと続く道の外れで子供の泣き声が聞こえた。駆け付けてみれば、今まさにゴブリン達に襲われそうになって泣き叫ぶ子供がいた。
ちょっと待てとマルコが声を掛けると、ゴブリンは「アイツダ!」と指を差してキーキー鳴いた。
いつもなら一目散に逃げるはずなのだが――と、マルコは片眉を上げた。
ゴブリン達は何やら小瓶を手にして仲間内で顔を見合わせるとコクリと頷き、それをマルコに向けて一斉に投げ付け始めた。
逃げずに戦いを挑んで来るゴブリン達に、マルコは怪訝に思いながらも投げ付けて来る小瓶を避けていた。しかし、マルコの頭上に投げられた小瓶が木の枝に当たってパリンッと割れた。
「うお!?」
小瓶の中身を諸に被ったマルコは、ヌルリとした感触と匂いに目を丸くした。
「油かよい!?」
「グギャギャッ! モエテシマエー!」
松明を持って襲って来るゴブリン達に思わずギョッとしたマルコは、そういうことかい!と声を上げた。
再生の炎で何とかなるから大したこと無いだろうが、油に塗れた身体に引火して人が燃える姿を子供に見せるのはあまりに酷だと判断したマルコは、必死にそれらを躱した。そして――
「当たらなきゃ意味がねェ! 悪いが出直して来いよい!!」
反撃に出て数匹のゴブリンを撃退すると、ゴブリン達はまたしても一目散に逃げ出して行った。
「うあァァァん! 怖かったよォォ〜!!」
「襲って来る奴は追っ払ったから、もう泣くな。男だろい?」
油に塗れた衣服や身体に顔を顰めながら泣き叫ぶエルパ―の息子を慰めて、帰路につく途中、どうして黙って外に出たのかと理由を聞くと、母親の誕生日にプレゼントしたい花があり、どうしても驚かしたくて黙って出て行ったのだという。
村に無事に戻った後、両親に何度も外出した理由を問い詰められたが、彼は泣くだけで決して口を割らなかった。そして、夜分遅くにエルパ―の息子がこっそりとマルコの元を訪れ、自分の代わりに花を摘んで来て欲しいと頼んで来たのだ。
――ということで、
岬に着いたマルコは、どの花を摘もうかと選定を始めた。
「花束なんて送ったことがねェしなァ……。量としたらどれぐらいが良いのかわかんねェが、子供が送るもんだ。こんなもんで良いだろい」
活きの良いものを選んで摘み取ると、預かっていた包装紙に包んで来た道を足早に戻る。途中、宿営地の入口で見張りに立っていた兵士が怪しむような視線を送って来たが、マルコは黙ってその前を通り過ぎていった。
「……海兵みてェなもんだな」
世界は違うが、どの世界にも似たようなものが存在する。公共の職に就く人間に怪しまれて警戒されることに慣れてはいるが……。しかし、少し違った印象を受けて軽く首を傾げる。
「村人が単独でここを歩いてりゃ怪しいか」
カサディスの村人が着る衣服を纏っている今は、ただの『村民』と思われて当然だ。護衛も付けずに一人で歩いていれば、どうしたのかと怪しまれるのもまた当然で、マルコは何となく納得した。
村に到着する頃には、早朝から働き始める人影がちらほらと見受けられ、マルコは村内に入ると人目に付かないようにこっそりと裏道を抜けて村長宅へと戻った。そうしていつも通りの朝を迎え、村が日常の活気に満ちた頃、漁師のエルパ―宅の二階にいる息子の元を訪れた。
周りに人がいないことを確認し、塀に乗って二階の窓をコンコンと叩く。それに気付いたエルパーの息子は窓を開けて「入って」と声を掛けた。コクリと頷いたマルコは部屋に入ると、頼まれていた岬の花をエルパ―の息子に渡した。
「わぁ! 本当に行ってくれたんだ! ありがとう!」
「危険を承知で村を出たお前の男気に応えただけだよい」
喜ぶ彼の頭をくしゃりと撫でると、彼は少し頬を赤くしてニシシと笑った。
「!」
彼の笑顔が、どこか末弟の笑顔に似ている気がしたマルコは、撫でる手を一瞬だけ止めた。
「このままだと萎れちゃうから花瓶に水を入れて挿しておいた方が良いかな?」
「あ、あァ…」
思わず歯切れの悪い返事をしたマルコだったが、エルパ―の息子は気にすることも無く「わかった」と笑顔で頷いた。
「じゃあ、おれはもう行くよい」
「うん。マルコ、本当にありがとう」
「良いよい」
エルパ―の息子に軽く手を振ったマルコは、窓辺に手を掛けて周りに誰も居ないかを見回した。
「あ、ねェ!」
「ん?」
「今日はお仕事沢山あるの?」
「あー……」
仕事が無ければ遊ぼう!と、そう言いたいのだろう。しかし、少々運動不足で鈍った身体を鍛えたいマルコは、視線を泳がせてガシガシと頭を掻いた。
「そっか。今日は忙しいんだね」
「ッ、悪ィな……」
個人的な理由を優先したことに多少心が痛むものの仕方が無いと割り切って、マルコは別の日に埋め合わせをするとだけ約束した。
「みんなにもそう言っておくね!」
こうして漁師のエルパ―宅を後にしたマルコは、村長宅に一度戻ろうと足を向けた。その時、ふと遠くの空に視線を向けた。
「……何だ?」
穏やかで平穏な青い空と青い海は変わらない。しかし、どこかが違った。何かピンッと空気が張り詰めているような気がして、それでいて妙な胸騒ぎが突如として去来して眉を顰めた。
バサッ――バサッ――!
それはとても小さな音だ。だが、こっちに向かって来ているのか、それは徐々に大きくなって耳に届いて来る。その音には誰も気付いていない。
バサッ――バサッ――!
青い空に浮かぶ雲の切れ間に僅かに見えたのは黒い影。それはどんどん大きくなってこっちに近付いて来る。
バサッ――バサッ――……グオオオオッ!!
「!」
その姿、そして、羽音と共に獣染みた雄叫びが大きく耳に付いた。視力も聴力も並の人間より優れているのは、長年広い海を航行して周囲に警戒をしていた経験が為か、マルコは踵を返してカサディス村の中央広場へと向かった。
「謹聴! 謹聴!」
村の広場から出入り口となる門の前で、鎧に身を包んだ兵士が声高に村人に呼び掛けを行っている。宿営地の兵士が、何かがこの村に飛来して来るのを一早く察知してやって来たのかと思ったマルコは、緊張の面持ちを浮かべながら村人に混じって兵士の声に耳を傾けた。
この場に先に来ていたキナがマルコの存在に気付いて声を掛けようとした。だが、マルコの雰囲気がいつもと違うのを察したキナは声を飲み込んだ。
どう、したの……?
緊張、不安、警戒――。それらを多分に含んだ厳しい表情が現れていることが見て取れる。
キナはマルコの元に歩み寄ってそっと手を伸ばして腕に触れた。
「!」
ピクンと反応したマルコは、腕に触れて来たのがキナだと気付くと、少しだけ緊張感が解けたように厳しい表情を和らげて「キナか…」と声を漏らした。
「何か、あったの?」
キナがそう問い掛けた時、兵士が声高に告げた。
「神聖なる予言の告げることによれば、ドラゴンの目覚めは近い!」
「!」
「マルコさん?」
気付いたから来た――と言うわけでは無かった。それどころか、兵士の発した言葉にマルコは目を見開き唖然とした。
―― ドラゴン…? やっぱり、さっきの影は……!!
「誉ある領王の一軍に加わり、かの邪悪たるドラゴンを討つ! その時は来れり…!」
兵士が告げる言葉を聴く村人達はお互いに顔を見合わせる。また、話を聞き流しながら常日頃と同じように通りを行き交う村人もいて、どこか他人事だ。かく領都からの指令を声高に告げた兵士達も、ただ与えらえた仕事を熟すだけといった具合で緊張感なんてものは全く持ち合わせていなかった。
背後に広がる海辺へと振り向いたマルコは、遥か上空の彼方を望んだ。キナが少し戸惑い気味にマルコを見つめていると、腕に触れていた手にマルコの手が重ねられてギュッと握られたことに目を丸くした。
「マルコさん?」
少しだけ頬を赤くしながらキナが声を掛けると、マルコは振り向くこと無く言った。
キナ、逃げろ――と。
「え?」
「来る」
「待ってください。何が――」
酷く緊張した声音に聞こえたキナは、困惑して理由を聞こうとした。だがその時――
「うああっ!」
「「「!」」」
海辺で作業をしていた男が恐怖に慄きながら慌てて逃げて来た。村人達は「何だ? どうした?」と不思議そうに見つめ、兵士が「何だ! どうした!」と声を張って男に呼び掛けた。
「ドラゴンだ!」
「「「ッ――!!」」」
「何だと!?」
男の叫びに日常の空気は一変して緊張と不安に包まれ、村人達は騒めいて動揺した。そして、若い男達や兵士達は挙って海岸へと駆け出して行く。キナも驚いて握られる手を強く握り返してマルコに不安な表情を向けた。
「!」
緊迫した状況なのに柔らかい微笑を浮かべたマルコに、キナは思わず呼吸を忘れたかのように息を止めた。
「キナ、アダロ村長と一緒に女子供を優先して安全な場所に避難させるんだ。良いな?」
「待ってマルコさん!」
キナにそう告げたマルコは握った手を離し、キナの制止の声を聞かずに海岸へと駆け出した。
「ッ……」
不安を抱く自分を安心させる為の笑みだと思う。でも本当は――
大切だと思う人を失くす痛みはもう懲り懲りで。
それなら一層の事、自分の命を捨ててでも――。
マルコの奥底にある思いがそうであるかのように感じ取ったキナは、マルコに向ける慈愛の気持ちを胸にグッと固唾を飲んで大きく息を吐いた。そして、周囲に逃げるように声を掛けながらアダロを探すのだった。
破滅への幕開け
【〆栞】