25
アルドは焦っていた。無表情ではあるが非常に焦っていた。
気配を消して素早く自室に戻るとドアを閉めて鍵を掛ける。そうしてドアにトンッと額をくっつけると「はァ……」と大きな溜息を吐いた。
「なんだァ? どうした?」
「――ッ!?」
振り向いたら直ぐ目の前にラクヨウがいた。余程焦っていたのだろう、ラクヨウの気配に全く気付かなかったようだ。アルドは驚いて思わず声を上げそうになった。あまりにも”らしくない”連続に、流石のアルドも無表情を崩して大きく顰めた。
―― くっ……、最近本当にどうかしている。
今まで無かったことが色々とあり過ぎる。
アルドは疲れ切っていた。
ラクヨウの横を通り過ぎるとベッドの縁に力無くポスンと腰を下ろした。その一方でラクヨウはクッと笑うとソファに移動してどっかと座った。
「おう、コーヒー」
「……」
この部屋の主であるアルドの気も”知りつつ”注文するラクヨウに、アルドは俯き加減だった顔を上げた――割と苛ついている――そんな雰囲気が如実に表れている。
ラクヨウは片方の口端を釣り上げてニヤリとすると破顔して笑った。
「ガハハハハッ! 気持ちが顔に出るようになって来たじゃねェか! なァアルド!」
機嫌良く楽し気に笑うラクヨウに対してアルドは眉間に皺を寄せると無言で左手首を動かした。
シャキン――!
「!」
左腕のアサシンブレードを出したアルドがゆらりと立ち上がる。その途端にラクヨウは笑いを止めた。そして、顔を青褪めさせてヒクリと頬を引き攣らせた。
ソファに座るラクヨウの前に立ったアルドは刃先をラクヨウの首元へと突き付ける。
「お、おい! てめェッ……何しやがっ」
「元はと言えば、全部あなたから始まった気がしてならないので」
「――は!?」
刃先を突き付けられたラクヨウは降参の意を込めて咄嗟に両手を上げたが、無機質な声音でそう言ったアルドに素っ頓狂な声を上げた。
―― あ、やべェ。これは相当マジなやつだ。
ラクヨウはそう思った。
「急襲を仕掛けようとした敵船に、おれとマルコ隊長の二人で殲滅に掛かった時、隊長はご丁寧にわざとおれの名を呼んで自慢したそうじゃないですか」
「じ、事実じゃねェか。それのなにが気に入らねェんだ?」
「あれからおれは従来通りに過ごせなくなってしまった」
「あ? なんで……――」
ラクヨウは惚けようとしたが、アサシンブレードの刃先が喉元の皮膚に軽く食い込むのを感じて非常に焦った。
「わざとらしく誤魔化そうとしてますが」
「あー、あァ! そうか、エースだな!」
「――重々理解しているようで安心しました」
「ん?」
「では、今から薬指を切断します」
「!!」
アルドがそう言うと同時にラクヨウは弾かれるように立ち上がると脱兎の如く部屋から逃走した。それを無言で見送ったアルドはシャキンとブレードを元に戻すとベッドの縁に腰を下ろした。
視線を床に落として溜息を吐いた。その時、ドアが開く音がしてパタンと閉まる音が――遅れて聞こえた気がした。
―― ?
不思議に思っていると、よく見知った足が目の前にスッと現れて顔を上げた。
―― ッ……。
アルドは目を丸くして一瞬だけ呼吸が止まる思いをした。
「大変そうだな」
「……」
ラクヨウと入れ替わりに部屋に入って来たのだろう、アルドの心を最も掻き乱す原因――マルコだ。
アルドは顔をまた俯かせると大きく息を吐いた。
「コーヒー……飲みますか?」
「あァ、貰うよい」
マルコはクツリと笑って答えた。そして、先程までラクヨウが座っていたソファに腰を下ろした。
アルドは黙って備え付けの戸棚の元に移動するとカップを二つ取ってコーヒーを淹れ始めた。
―― ん……? そう言えばなにか忘れて……。
「あ、」
思わず声を漏らしたアルドは手を止めてマルコへと振り向いた。
「なんだい?」
マルコが首を傾げて不思議そうな表情を浮かべていた。
アルドは非常に動揺した。どうして当たり前のように接しているのだろうか――と。そして、すっかり忘れていた。ミケーラとの約束を。
その時だった。
ノックも無しにドアがバンッと勢い良く開けられた。
アルドは足音や気配で誰が来るのか先んじて気付いていた。しかし、まさかこうも無遠慮にドアを開けられるとは思っていなかった。
アルドは軽くビクついた。
マルコも驚きはしたが珍しいものが見れたとばかりに目をパチクリさせた。そして、アルドに意識を向けつつ部屋に入って来た人物を見やった。
「やっと見つけたぜ!」
「エース! 部屋に入る前にノックしろっていつも言ってるだろい!?」
「あ、マルコもいたんだな、悪ィ。っつぅか、逃げるなよアルド! ちょっとだけ訓練に付き合ってくれって頼んでるだけじゃねェか!」
「いや、おれは、その、訓練は不要ですからお断りしますと何度も」
「そう言うなって」
「――ッ……」
エースは本当に遠慮が無かった。ラクヨウ以上に遠慮が無かった。無遠慮に土足で踏み込んで畑を荒らし回るイノシシのような猪突猛進っぷりに、流石のアルドもただただタジタジだった。
―― エース隊長とは一切関わらないようにしてきたというのに……。
それもこれも全てはラクヨウのせいだ。全てラクヨウが悪い。
―― 絶対に薬指切断の刑を施行せねば!
この時のアルドは無表情ながらも胸の内では額に角を生やして烈火の如く息巻いていた。丁度その頃――
アルドの部屋から逃走して食堂に落ち着いていたラクヨウは、背筋にゾクリと悪寒が走るのを感じて身震いを起こした。真向いに座っていたサッチが片眉を上げた。
「どうした? 顔色が悪いけど風邪か?」
「い、いや、なんでもねェ……」
気のせいだと強がって笑ってみせるラクヨウだが、彼らしい豪快さは微塵も無かった。
「流石にエースに言っちゃあ不味かったと思うぜ? おれっちから見てもお前の薬指は確実に切り落とされるコースだってんだ」
「あー、もう良いんじゃねェかと思っちまって、ついな……」
「なァ、その『もう良いんじゃねェか』ってェ基準はなにッ、あーっと……」
サッチは言葉を途中で切るとキョロキョロと辺りを見回した。誰もいないことを確認してから少し前のめりになってラクヨウにだけ聞こえるように小声で「マルコか?」と聞いた。
ラクヨウは眉を顰めるとガクリと項垂れて大きく息を吐いた。
「もう少ししたらオヤジに話す予定なんだが、どうしてもって言うんならてめェも来い。同じ話を何度も話すのは好きじゃねェからな」
「どうして話す気になったんだ?」
「そりゃあお前ェ、巣立ちの時が近ェからに決まってんじゃねェか。順調に託せたらおれもお役御免ってェわけだ」
「……」
言うなれば『マルコに託す』ということだろう。つまり、ラクヨウはアルドを1番隊へ本格的に編入させる気でいるのだとサッチは察した。
「そもそもおれは曰く付きの人間を世話してやれるような男じゃあねェからなァ、ガハハハハッ!!」
「は……? 今、なんて……曰く付き?」
ラクヨウの台詞に引っ掛かりを覚えたサッチは目をパチクリとさせて眉を顰めた。
「あいつの心は既に死んでんだ。いや、生まれても無かったかもしれねェ。ただ、その心を揺り動かした人間が一人だけいてなァ」
「一人って……、そいつが」
「おう、サッチの予想通りだ。アルドはガキの頃に救われちまったんだ。オヤジと出会う遥かずっと前にな」
「――ッ……」
ラクヨウはそう言うとサッチに出して貰ったジョッキに口を付けてグビッと呷った。
「って、酒じゃねェ!?」
「まだ日が高ェんだから酒なんか出すかってんだ。そりゃあおれ様特性ジュースだってェの。美味ェだろ?」
「酒が良い」
「一度だけ急性アルコール中毒になって死にかけちまえってんだよ」
ラクヨウは下唇をにゅっと突き出すようにしてムスッと不貞腐れた。どこのガキだとサッチは呆れて溜息を吐いた。
「「「で、続きは?」」」
「うお!? いつの間に!?」
「て、てめェらいつからそこにいやがった!?」
気配は無かったはずだ。二人だけだったからこその会話だったのに、物陰から姿を現して話の続きを乞うイゾウやハルタ等、隊長連中に驚いた二人は唖然とした。
―― まいったぜ……。こりゃあ全部聞かれちまったな。これは不慮の事故ってやつだ。
ラクヨウは眉間に手を当てて「あちゃー!」と言いながら天井を仰いだ。そんなベタな反応を見せながらも本当はそんな風に思っていないことは誰もが見抜いていた。
サッチはともかくラクヨウはどちらかと言うと敢えて気付かないふりをしていたように思えるからだ。
「船長室に行くかラクヨウ」
「おう、その方が助かるぜ」
ビスタの言葉にラクヨウはニヤリと笑みを浮かべて席を立った。
―― 悪ィなアルド。けど、てめェが『女であること』は、まだ言わねェでおいてやるぜ。
本当は女で、本当の名前が#イルマ#であるということは、(サッチは例外として)他の誰でも無いマルコが最初に気付いてやるべきだ――と、ラクヨウはそう思っていた。
―― 折角一緒にいる時間が増えたんだから、さっさと気付いて欲しいもんだぜ。
ラクヨウは船長室に着くまでの間、どう話をするかを考えていた。
―― アルドは平然としてやがるけど、思いのほか……、あ”ー…ん”ん”っ……。
ラクヨウが少しずつ情報を漏らすのは彼なりに焦りがあった。時々アルドから感じる『それ』は決して良いものではない。もしもの話なのだが『下手をすれば――』と、最悪な事態を想像することもしばしばある。
船長室の前に差し掛かると隊長達が部屋へと入って行く。その一方でラクヨウは立ち止まって少し難しい表情を浮かべた。
―― おれにはこれ以上どうすることもできねェ。お前のその『慟哭』はあまりに辛くて聞いてられねェ。それを拾って欲しい相手はおれでもオヤジでもねェってことをさっさと気付きやがれ。
「……って言っても、あいつは自分の事に関しちゃあ本当に鈍いからなァ〜」
ラクヨウは最後に船長室のドアノブを掴むとポツリと独り言ちて溜息を吐いた。
一方その頃――
アルドはこの時ばかりはマルコに目を向けた。
無表情――では無く、明らかに戸惑いと困惑の色に染まった表情で、その目はどう見ても『助けを乞う』ものだった。それにマルコは目を丸くした。
―― アルド……?
ガシリとエースに腕を掴まれた時、少しだけ後退ったアルドは本気で抵抗しそうになった。だがアルドの腕を掴んだエースの腕をマルコが咄嗟に掴んで制止させた。
「なんだよマルコ?」
「悪ィがおれが先だよいエース。アルドと話があってなァ」
「おれが同席してると都合が悪ィ話か?」
「お前はアルドと訓練……っつぅか、力試しがしてェだけだろい?」
マルコが片眉を上げてそう言うとエースはコクンと頷いた。
「まァな。けど、それだけじゃねェ。おれもアルドに興味があるんだ」
エースの言葉にアルドは目を丸くした。エースはアルドの顔を覗き込むようにして顔を寄せるとニッと笑った。
裏の無い真っ直ぐな笑みに、その目に、アルドは堪らず視線を逸らした。
―― ……苦手だ。
自分とはとことん『対照的』に思える。エースを見る度にアルドはずっとそう思っていた。
〜〜〜〜〜
最初こそ刺々しく荒んだ心を持っていたエースだったが、何度も白ひげの命を狙っては返り討ちに遭っていた。それからマルコの言葉によって吹っ切れた彼は白ひげの息子になることを選び、晴れて白ひげ海賊団の家族の一員となった。
アルドは一隊員として遠巻きに見ていた。仲間となったエースを見た時、この手の人間とは決して関わることは無いだろうと思った。それに、エースを見ていると遠い昔に自分の”本当の名”を呼んで駆け寄って来る『弟』を不思議と思い起こさせた。だから、尚更エースとは距離を置こうと思った。
常に気配と存在感を極限にまで消して生活をしているアルドの存在をエースが気付くことは一切無かった。エースの耳に『アルド』という名前すら届くことも無かった。それなのに――
ヒンプ諸島においてエースは初めて『アルドという名の男がいる』ことを知った。ただ、知るだけならまだ良かった。
エースの持つ『興味』という名の火に油を注いだのが他でもないラクヨウだ。――白ひげ海賊団の中で断トツ強いのではないか――と。
更に興味の炎を滾らせる為に決定付けたのはつい先刻のこと。遠方からモビー・ディック号を狙って急襲を仕掛けようとしていた敵船にアルドとマルコの二人が先攻して対処した時だ。
海に躊躇なく飛び込んだアルドが迷い無く一人で相手方の船に乗り込むと、あっという間に船長の”足”を仕留めた。その際、他の海賊達がアルドを攻撃しようとするのを不死鳥化したマルコが空から牽制してアルドを援護した。
船長が戦闘不能となったことを認識した敵は直ぐに戦意を喪失し、不死鳥化したマルコがアルドを足で掴むと空を飛んで船に戻った。そうして無事に帰還するとハルタがいの一番に燥いで出迎えた。
「凄いよ! ラクヨウが白ひげ海賊団で断トツ強いって言ってたけど、強ち間違いじゃないかもね!」
「ッ……!」
ハルタの言葉にアルドは大きくピクンと反応した。そして、妙にゆるりとした動きでラクヨウに顔を向けた。
「馬鹿が! ハルタ! てめェどんだけ口が軽いッ――!?」
フードの影に隠れたアルドの目がキュピーンと光っているように見えたラクヨウは顔を青くした。しかし、そんなラクヨウの隣で一際目を爛々と輝かせている存在に気付いたアルドがラクヨウから直ぐに顔を逸らした。それにラクヨウはキョトンとして隣に目を向けた。
―― あ。
「お前がこの船で一番強ェって噂のアルドか!」
「ッ……!」
「おれはポートガス・D・エースだ。宜しく」
突然アルドに飛びついて両肩を掴んだかと思えば丁寧に深く頭を下げて自己紹介をするエースに、アルドはただ黙って見つめることしかできなかった。
エースは頭を上げると屈託の無い笑みを浮かべた。その顔を間近で見たアルドは胸の内がキュッと縮むような感覚に襲われて苦しくなった。
―― ……ダメだ。
やはり関わるべきでは無いとアルドが思っているとエースは少し好戦的な表情へと変えた。
―― !
どことなく面影が似ていた。しかし、この好戦的な表情は全く違った。
弟《アルド》はこんな顔なんてしない――。
思わずグッと息を呑んだ。
「おれと勝負しようぜ」
拳を作った右手で左手をパンッと打つエース。
どうやら本格的に目を付けられてしまったようだ。
アルドは無表情ではあったが明らかに戸惑っていた。それに気付いたのはラクヨウとサッチ。そして、マルコだ。
アルドはエースの視線から逃れるようにふいっと顔を逸らした。
「すみません……。おれは…少し疲れましたので……」
「あー、そうか。なら仕方がねェ。じゃあ、元気になったら勝負を受けてくれ」
エースとは全く真逆で愛想の欠片も無いアルドは、何かを言うことも頷くこともせずに踵を返して足早に船内へと姿を消した。
普通ならば「なんだあの太々しい態度は……」と怒りそうなものだがエースは笑ってアルドを見送った。
そして――
あれから数時間の時を経た後、部屋を出たアルドを見つけたエースが「アルド、元気になったか?」と声を掛けた。アルドはピタリと立ち止まると無言で後退し――踵を返して逃走した。
「なんだよ? おい、アルドー!」
当然だがエースは追い掛けた。
アルドは逃げる。
エースは諦めない。
アルドは角を曲がると完全に気配を消して素早く身を隠した。
「くっそー、逃げられちまったか。けど、なんで逃げんだ?」
角を曲がったところで立ち尽くしたエースは両腕を組んで首を傾げた。暫く考え込むと直ぐにハッとして手をポンッと叩いた。
「……成程、わかった。スピード勝負か!」
エースはラクヨウに負けず劣らず超ポジティブ思考だった。
物陰に隠れてその様子を伺っていたアルドは、脳裏に浮かんだドレッドヘアーの隊長に向けて軽く舌打ちをした。
―― ラクヨウ隊長、あなたの薬指は必ず頂戴します。
恨み節を心内で呟いていると視界が影に染まったことに気付いて顔を上げた。
「!」
「見つけたぜアルド! 今度こそ逃がさねェ!!」
当然だがアルドは脱兎の如く逃走した。
〜〜〜〜〜
このようにしてエースに再び追われ続けての冒頭による自室帰還だったわけなのだが――。
「……あの」
「おう、なんだアルド?」
「すみません……。今日はもう寝ます。それにおれはッ……、あまり……」
「?」
「これ以上は、あまり人とは……関わりたく…無い……」
アルドは顔を俯かせてそう言った。その言葉にエースは眉を顰めた。
「おい、それって――ッ」
どういう意味だと言おうとしたエースだったが、エースの腕を掴むマルコの手に力が入って引っ張られる形でそれは遮られた。エースが困惑気味に顔を向けるとマルコは小さく首を振った。
「あまり無理に関わろうとするな。こいつは他の奴らとは違ェんだ」
「どういうことだ?」
「アルド、疲れているところ悪かった。エースにはおれが言い聞かせておくから、ゆっくり休め」
アルドは何も言わなかったが、僅かに手元が震えて食器がカタンと鳴った。
「あァ、コーヒーは……、今度貰うよい」
アルドの頭にポンッと手を置いてクツリと笑ったマルコは、少し不満気な表情を浮かべるエースを引き連れて部屋を出て行った。
ドアが閉まる音が部屋に大きく響く。それと同時にアルドはその場にドサリと腰を下ろすと両手で目元を覆った。
「……痛い……」
両目が熱い。
ポタポタと涙が溢れ出る。
「ダメだ……。エースを目の前にするとどうしてもアルドを思い出してしまう。私は、私はあんな風にはできない。アルド、私はお前のように心の儘にできないんだ。あれから十年経っても未だに――」
――心の儘に、自由に、生きることはできない――
全ては、見る世界、感じる世界、そして心の在り方の違いだ。
何を見て、何を感じて、何を思い、何を望み、どうありたいのか――。
「私が望んだこととお前が望んだことが違うのだから仕方が無いのかもしれない。私は二度とお前のような者が生まれないように、この能力を全てを使って成さなければならないんだ。それがマスターアサシンとしての……、アサシンと…して……」
涙を拭う。そして、どこを見るともなく視線を宙に彷徨わせた。それから暫くしてゆっくりと目を閉じると深く息を吐いた。
「あァ違う。……家族。そうだ家族だ。唯一血の繋がったお前の、アルドの、姉としての務め……」
そう呟くと笑みが零れた。この時アルドは初めて自然な笑みを零したのだが、アルドはそのことに気付いていない。
アルドはゆっくり立ち上がると身に付けていた装備品を一つ一つ外して衣服を脱ぐとシャワー室に入って身体を洗った。そして、真新しい衣服に身を包むとドサリとベッドに横たわった。それから間も無くして髪の長い女の姿が脳裏を過った。
「あ、」
直ぐにガバリと起きた。
「しまった。ミケーラさんをすっかり忘れていた。怒っているだろうか?」
あれから色々なことがあり過ぎた。だから本当に彼女との約束事をすっかり忘れていた。
アルドはフード付きの衣を羽織るとドアを開けて左右を確認した。慎重に気配を探りながら、自身の気配を完璧に消しながら、ミケーラの部屋を訪ねた――のだが、非常に後悔した。
「あら、アルドさんじゃない!」
「わァ本当、珍しいわ!」
「――ッ!?」
ミケーラの部屋には数人の気配があった。だが恐らく船員だろうと甘く踏んだのが良くなかった。数人のナース達がアルドを見るなり花を咲かすかのように笑顔を浮かべて迎えたのだ。
手を引かれるようにして部屋に招かれたアルドは――本当にどうかしている!――と胸の内で嘆いた。
「今日は珍しく身軽な格好ね」
「あァ、あの、おれは――ッ!?」
ミケーラに断りを言おうとしたアルドだったが、一人のナースが遮るようにしてアルドの顔を覗き込んだ。
「本当だわ! ミケーラが言ってた通りイケメンじゃない!」
「やだァ、タイプかも〜!」
「ふふ、固まっちゃって可愛い」
お堅い性分のイケメンさんでも複数の美女達に囲まれては固まるしかないわよねェ――等と、ナース達に囲まれて固まるアルドを見つめながらミケーラは笑った。
だがアルドは、隊長や隊員等の気配を気にするばかりでナース達の気配に気を配ることを全くしなかった自分の失態を悔いるばかりだ。しかし、それにしても――
「武装していない姿も素敵ね」
「あァ、私、あなたに惚れちゃうかも」
「あら、隊員とナースの恋愛は御法度でしょ?」
「バレなきゃ良いのよ」
男と違って女同士の会話はキャッキャッと賑やかだ。よく考えると同性の群れに混じる経験は微塵も無かった。だからか少し不思議な気持ちになった。――が、アルドはハッとして冷静さを取り戻すと彼女達に軽く頭を下げた。
「すみません。おれは用事がありますので直ぐに失礼します」
「あら、そうなの?」
「滅多にこうして会うことが無いから、もう少しお喋りしてみたかったのに」
「残念ね」
ナース達はそう言ってアルドから離れた。それにアルドは少しだけホッと胸を撫で下ろすとミケーラへと顔を向けた。
「ミケーラさん、報告が遅くなってしまってすみません。もう仕事は終わりましたので。では、おれはこれで失礼します」
報告を一方的に告げるとミケーラの返事を聞かずにアルドは逃げる様に部屋を出て行った。
ミケーラは目を丸くしてぱちくりと瞬かせた。そして、ナース達と顔を見合わせると小さく噴き出すようにして笑い出した。
「無口な彼が珍しく早口でよく喋ったわね」
「凄く貴重な瞬間だったかも」
「アルドって滅多に遭遇しない超レア隊員よね」
「「「ミケーラの部屋が出没ポイントだなんて意外だわ」」」
「色々とあってね」
ミケーラは少し自慢げに言うと早速とばかりに椅子を引いて立ち上がった。
「まだ諦めてないの?」
「精神力がまるで鋼鉄ね」
「本当、懲りないわよね」
「ふふ、だって好きなんだもの。仕方が無いでしょ?」
ミケーラが肩に掛かる髪を払い除けてそう言うとナース達は半ば呆れにも似た溜息を吐きつつ「頑張って〜」と適当な言葉を送ってミケーラと別れた。
彼女達の応援の言葉なんてものは右から左へと軽く通り抜けて行く。ミケーラは足取りを軽くしてマルコの部屋へと向かった。その一方――
再び自室に戻ったアルドは少しよろめいてベッドに腰を下ろした。
「人と関わるというのはこうも疲れるものなのか……」
―― ヒンプ島の前。いや、もっともっとそれ以前の状態に戻りたい。
アルドはゴロンと仰向けになって天井を見つめながら心の底からそう思った。
気配を消して素早く自室に戻るとドアを閉めて鍵を掛ける。そうしてドアにトンッと額をくっつけると「はァ……」と大きな溜息を吐いた。
「なんだァ? どうした?」
「――ッ!?」
振り向いたら直ぐ目の前にラクヨウがいた。余程焦っていたのだろう、ラクヨウの気配に全く気付かなかったようだ。アルドは驚いて思わず声を上げそうになった。あまりにも”らしくない”連続に、流石のアルドも無表情を崩して大きく顰めた。
―― くっ……、最近本当にどうかしている。
今まで無かったことが色々とあり過ぎる。
アルドは疲れ切っていた。
ラクヨウの横を通り過ぎるとベッドの縁に力無くポスンと腰を下ろした。その一方でラクヨウはクッと笑うとソファに移動してどっかと座った。
「おう、コーヒー」
「……」
この部屋の主であるアルドの気も”知りつつ”注文するラクヨウに、アルドは俯き加減だった顔を上げた――割と苛ついている――そんな雰囲気が如実に表れている。
ラクヨウは片方の口端を釣り上げてニヤリとすると破顔して笑った。
「ガハハハハッ! 気持ちが顔に出るようになって来たじゃねェか! なァアルド!」
機嫌良く楽し気に笑うラクヨウに対してアルドは眉間に皺を寄せると無言で左手首を動かした。
シャキン――!
「!」
左腕のアサシンブレードを出したアルドがゆらりと立ち上がる。その途端にラクヨウは笑いを止めた。そして、顔を青褪めさせてヒクリと頬を引き攣らせた。
ソファに座るラクヨウの前に立ったアルドは刃先をラクヨウの首元へと突き付ける。
「お、おい! てめェッ……何しやがっ」
「元はと言えば、全部あなたから始まった気がしてならないので」
「――は!?」
刃先を突き付けられたラクヨウは降参の意を込めて咄嗟に両手を上げたが、無機質な声音でそう言ったアルドに素っ頓狂な声を上げた。
―― あ、やべェ。これは相当マジなやつだ。
ラクヨウはそう思った。
「急襲を仕掛けようとした敵船に、おれとマルコ隊長の二人で殲滅に掛かった時、隊長はご丁寧にわざとおれの名を呼んで自慢したそうじゃないですか」
「じ、事実じゃねェか。それのなにが気に入らねェんだ?」
「あれからおれは従来通りに過ごせなくなってしまった」
「あ? なんで……――」
ラクヨウは惚けようとしたが、アサシンブレードの刃先が喉元の皮膚に軽く食い込むのを感じて非常に焦った。
「わざとらしく誤魔化そうとしてますが」
「あー、あァ! そうか、エースだな!」
「――重々理解しているようで安心しました」
「ん?」
「では、今から薬指を切断します」
「!!」
アルドがそう言うと同時にラクヨウは弾かれるように立ち上がると脱兎の如く部屋から逃走した。それを無言で見送ったアルドはシャキンとブレードを元に戻すとベッドの縁に腰を下ろした。
視線を床に落として溜息を吐いた。その時、ドアが開く音がしてパタンと閉まる音が――遅れて聞こえた気がした。
―― ?
不思議に思っていると、よく見知った足が目の前にスッと現れて顔を上げた。
―― ッ……。
アルドは目を丸くして一瞬だけ呼吸が止まる思いをした。
「大変そうだな」
「……」
ラクヨウと入れ替わりに部屋に入って来たのだろう、アルドの心を最も掻き乱す原因――マルコだ。
アルドは顔をまた俯かせると大きく息を吐いた。
「コーヒー……飲みますか?」
「あァ、貰うよい」
マルコはクツリと笑って答えた。そして、先程までラクヨウが座っていたソファに腰を下ろした。
アルドは黙って備え付けの戸棚の元に移動するとカップを二つ取ってコーヒーを淹れ始めた。
―― ん……? そう言えばなにか忘れて……。
「あ、」
思わず声を漏らしたアルドは手を止めてマルコへと振り向いた。
「なんだい?」
マルコが首を傾げて不思議そうな表情を浮かべていた。
アルドは非常に動揺した。どうして当たり前のように接しているのだろうか――と。そして、すっかり忘れていた。ミケーラとの約束を。
その時だった。
ノックも無しにドアがバンッと勢い良く開けられた。
アルドは足音や気配で誰が来るのか先んじて気付いていた。しかし、まさかこうも無遠慮にドアを開けられるとは思っていなかった。
アルドは軽くビクついた。
マルコも驚きはしたが珍しいものが見れたとばかりに目をパチクリさせた。そして、アルドに意識を向けつつ部屋に入って来た人物を見やった。
「やっと見つけたぜ!」
「エース! 部屋に入る前にノックしろっていつも言ってるだろい!?」
「あ、マルコもいたんだな、悪ィ。っつぅか、逃げるなよアルド! ちょっとだけ訓練に付き合ってくれって頼んでるだけじゃねェか!」
「いや、おれは、その、訓練は不要ですからお断りしますと何度も」
「そう言うなって」
「――ッ……」
エースは本当に遠慮が無かった。ラクヨウ以上に遠慮が無かった。無遠慮に土足で踏み込んで畑を荒らし回るイノシシのような猪突猛進っぷりに、流石のアルドもただただタジタジだった。
―― エース隊長とは一切関わらないようにしてきたというのに……。
それもこれも全てはラクヨウのせいだ。全てラクヨウが悪い。
―― 絶対に薬指切断の刑を施行せねば!
この時のアルドは無表情ながらも胸の内では額に角を生やして烈火の如く息巻いていた。丁度その頃――
アルドの部屋から逃走して食堂に落ち着いていたラクヨウは、背筋にゾクリと悪寒が走るのを感じて身震いを起こした。真向いに座っていたサッチが片眉を上げた。
「どうした? 顔色が悪いけど風邪か?」
「い、いや、なんでもねェ……」
気のせいだと強がって笑ってみせるラクヨウだが、彼らしい豪快さは微塵も無かった。
「流石にエースに言っちゃあ不味かったと思うぜ? おれっちから見てもお前の薬指は確実に切り落とされるコースだってんだ」
「あー、もう良いんじゃねェかと思っちまって、ついな……」
「なァ、その『もう良いんじゃねェか』ってェ基準はなにッ、あーっと……」
サッチは言葉を途中で切るとキョロキョロと辺りを見回した。誰もいないことを確認してから少し前のめりになってラクヨウにだけ聞こえるように小声で「マルコか?」と聞いた。
ラクヨウは眉を顰めるとガクリと項垂れて大きく息を吐いた。
「もう少ししたらオヤジに話す予定なんだが、どうしてもって言うんならてめェも来い。同じ話を何度も話すのは好きじゃねェからな」
「どうして話す気になったんだ?」
「そりゃあお前ェ、巣立ちの時が近ェからに決まってんじゃねェか。順調に託せたらおれもお役御免ってェわけだ」
「……」
言うなれば『マルコに託す』ということだろう。つまり、ラクヨウはアルドを1番隊へ本格的に編入させる気でいるのだとサッチは察した。
「そもそもおれは曰く付きの人間を世話してやれるような男じゃあねェからなァ、ガハハハハッ!!」
「は……? 今、なんて……曰く付き?」
ラクヨウの台詞に引っ掛かりを覚えたサッチは目をパチクリとさせて眉を顰めた。
「あいつの心は既に死んでんだ。いや、生まれても無かったかもしれねェ。ただ、その心を揺り動かした人間が一人だけいてなァ」
「一人って……、そいつが」
「おう、サッチの予想通りだ。アルドはガキの頃に救われちまったんだ。オヤジと出会う遥かずっと前にな」
「――ッ……」
ラクヨウはそう言うとサッチに出して貰ったジョッキに口を付けてグビッと呷った。
「って、酒じゃねェ!?」
「まだ日が高ェんだから酒なんか出すかってんだ。そりゃあおれ様特性ジュースだってェの。美味ェだろ?」
「酒が良い」
「一度だけ急性アルコール中毒になって死にかけちまえってんだよ」
ラクヨウは下唇をにゅっと突き出すようにしてムスッと不貞腐れた。どこのガキだとサッチは呆れて溜息を吐いた。
「「「で、続きは?」」」
「うお!? いつの間に!?」
「て、てめェらいつからそこにいやがった!?」
気配は無かったはずだ。二人だけだったからこその会話だったのに、物陰から姿を現して話の続きを乞うイゾウやハルタ等、隊長連中に驚いた二人は唖然とした。
―― まいったぜ……。こりゃあ全部聞かれちまったな。これは不慮の事故ってやつだ。
ラクヨウは眉間に手を当てて「あちゃー!」と言いながら天井を仰いだ。そんなベタな反応を見せながらも本当はそんな風に思っていないことは誰もが見抜いていた。
サッチはともかくラクヨウはどちらかと言うと敢えて気付かないふりをしていたように思えるからだ。
「船長室に行くかラクヨウ」
「おう、その方が助かるぜ」
ビスタの言葉にラクヨウはニヤリと笑みを浮かべて席を立った。
―― 悪ィなアルド。けど、てめェが『女であること』は、まだ言わねェでおいてやるぜ。
本当は女で、本当の名前が#イルマ#であるということは、(サッチは例外として)他の誰でも無いマルコが最初に気付いてやるべきだ――と、ラクヨウはそう思っていた。
―― 折角一緒にいる時間が増えたんだから、さっさと気付いて欲しいもんだぜ。
ラクヨウは船長室に着くまでの間、どう話をするかを考えていた。
―― アルドは平然としてやがるけど、思いのほか……、あ”ー…ん”ん”っ……。
ラクヨウが少しずつ情報を漏らすのは彼なりに焦りがあった。時々アルドから感じる『それ』は決して良いものではない。もしもの話なのだが『下手をすれば――』と、最悪な事態を想像することもしばしばある。
船長室の前に差し掛かると隊長達が部屋へと入って行く。その一方でラクヨウは立ち止まって少し難しい表情を浮かべた。
―― おれにはこれ以上どうすることもできねェ。お前のその『慟哭』はあまりに辛くて聞いてられねェ。それを拾って欲しい相手はおれでもオヤジでもねェってことをさっさと気付きやがれ。
「……って言っても、あいつは自分の事に関しちゃあ本当に鈍いからなァ〜」
ラクヨウは最後に船長室のドアノブを掴むとポツリと独り言ちて溜息を吐いた。
一方その頃――
アルドはこの時ばかりはマルコに目を向けた。
無表情――では無く、明らかに戸惑いと困惑の色に染まった表情で、その目はどう見ても『助けを乞う』ものだった。それにマルコは目を丸くした。
―― アルド……?
ガシリとエースに腕を掴まれた時、少しだけ後退ったアルドは本気で抵抗しそうになった。だがアルドの腕を掴んだエースの腕をマルコが咄嗟に掴んで制止させた。
「なんだよマルコ?」
「悪ィがおれが先だよいエース。アルドと話があってなァ」
「おれが同席してると都合が悪ィ話か?」
「お前はアルドと訓練……っつぅか、力試しがしてェだけだろい?」
マルコが片眉を上げてそう言うとエースはコクンと頷いた。
「まァな。けど、それだけじゃねェ。おれもアルドに興味があるんだ」
エースの言葉にアルドは目を丸くした。エースはアルドの顔を覗き込むようにして顔を寄せるとニッと笑った。
裏の無い真っ直ぐな笑みに、その目に、アルドは堪らず視線を逸らした。
―― ……苦手だ。
自分とはとことん『対照的』に思える。エースを見る度にアルドはずっとそう思っていた。
〜〜〜〜〜
最初こそ刺々しく荒んだ心を持っていたエースだったが、何度も白ひげの命を狙っては返り討ちに遭っていた。それからマルコの言葉によって吹っ切れた彼は白ひげの息子になることを選び、晴れて白ひげ海賊団の家族の一員となった。
アルドは一隊員として遠巻きに見ていた。仲間となったエースを見た時、この手の人間とは決して関わることは無いだろうと思った。それに、エースを見ていると遠い昔に自分の”本当の名”を呼んで駆け寄って来る『弟』を不思議と思い起こさせた。だから、尚更エースとは距離を置こうと思った。
常に気配と存在感を極限にまで消して生活をしているアルドの存在をエースが気付くことは一切無かった。エースの耳に『アルド』という名前すら届くことも無かった。それなのに――
ヒンプ諸島においてエースは初めて『アルドという名の男がいる』ことを知った。ただ、知るだけならまだ良かった。
エースの持つ『興味』という名の火に油を注いだのが他でもないラクヨウだ。――白ひげ海賊団の中で断トツ強いのではないか――と。
更に興味の炎を滾らせる為に決定付けたのはつい先刻のこと。遠方からモビー・ディック号を狙って急襲を仕掛けようとしていた敵船にアルドとマルコの二人が先攻して対処した時だ。
海に躊躇なく飛び込んだアルドが迷い無く一人で相手方の船に乗り込むと、あっという間に船長の”足”を仕留めた。その際、他の海賊達がアルドを攻撃しようとするのを不死鳥化したマルコが空から牽制してアルドを援護した。
船長が戦闘不能となったことを認識した敵は直ぐに戦意を喪失し、不死鳥化したマルコがアルドを足で掴むと空を飛んで船に戻った。そうして無事に帰還するとハルタがいの一番に燥いで出迎えた。
「凄いよ! ラクヨウが白ひげ海賊団で断トツ強いって言ってたけど、強ち間違いじゃないかもね!」
「ッ……!」
ハルタの言葉にアルドは大きくピクンと反応した。そして、妙にゆるりとした動きでラクヨウに顔を向けた。
「馬鹿が! ハルタ! てめェどんだけ口が軽いッ――!?」
フードの影に隠れたアルドの目がキュピーンと光っているように見えたラクヨウは顔を青くした。しかし、そんなラクヨウの隣で一際目を爛々と輝かせている存在に気付いたアルドがラクヨウから直ぐに顔を逸らした。それにラクヨウはキョトンとして隣に目を向けた。
―― あ。
「お前がこの船で一番強ェって噂のアルドか!」
「ッ……!」
「おれはポートガス・D・エースだ。宜しく」
突然アルドに飛びついて両肩を掴んだかと思えば丁寧に深く頭を下げて自己紹介をするエースに、アルドはただ黙って見つめることしかできなかった。
エースは頭を上げると屈託の無い笑みを浮かべた。その顔を間近で見たアルドは胸の内がキュッと縮むような感覚に襲われて苦しくなった。
―― ……ダメだ。
やはり関わるべきでは無いとアルドが思っているとエースは少し好戦的な表情へと変えた。
―― !
どことなく面影が似ていた。しかし、この好戦的な表情は全く違った。
弟《アルド》はこんな顔なんてしない――。
思わずグッと息を呑んだ。
「おれと勝負しようぜ」
拳を作った右手で左手をパンッと打つエース。
どうやら本格的に目を付けられてしまったようだ。
アルドは無表情ではあったが明らかに戸惑っていた。それに気付いたのはラクヨウとサッチ。そして、マルコだ。
アルドはエースの視線から逃れるようにふいっと顔を逸らした。
「すみません……。おれは…少し疲れましたので……」
「あー、そうか。なら仕方がねェ。じゃあ、元気になったら勝負を受けてくれ」
エースとは全く真逆で愛想の欠片も無いアルドは、何かを言うことも頷くこともせずに踵を返して足早に船内へと姿を消した。
普通ならば「なんだあの太々しい態度は……」と怒りそうなものだがエースは笑ってアルドを見送った。
そして――
あれから数時間の時を経た後、部屋を出たアルドを見つけたエースが「アルド、元気になったか?」と声を掛けた。アルドはピタリと立ち止まると無言で後退し――踵を返して逃走した。
「なんだよ? おい、アルドー!」
当然だがエースは追い掛けた。
アルドは逃げる。
エースは諦めない。
アルドは角を曲がると完全に気配を消して素早く身を隠した。
「くっそー、逃げられちまったか。けど、なんで逃げんだ?」
角を曲がったところで立ち尽くしたエースは両腕を組んで首を傾げた。暫く考え込むと直ぐにハッとして手をポンッと叩いた。
「……成程、わかった。スピード勝負か!」
エースはラクヨウに負けず劣らず超ポジティブ思考だった。
物陰に隠れてその様子を伺っていたアルドは、脳裏に浮かんだドレッドヘアーの隊長に向けて軽く舌打ちをした。
―― ラクヨウ隊長、あなたの薬指は必ず頂戴します。
恨み節を心内で呟いていると視界が影に染まったことに気付いて顔を上げた。
「!」
「見つけたぜアルド! 今度こそ逃がさねェ!!」
当然だがアルドは脱兎の如く逃走した。
〜〜〜〜〜
このようにしてエースに再び追われ続けての冒頭による自室帰還だったわけなのだが――。
「……あの」
「おう、なんだアルド?」
「すみません……。今日はもう寝ます。それにおれはッ……、あまり……」
「?」
「これ以上は、あまり人とは……関わりたく…無い……」
アルドは顔を俯かせてそう言った。その言葉にエースは眉を顰めた。
「おい、それって――ッ」
どういう意味だと言おうとしたエースだったが、エースの腕を掴むマルコの手に力が入って引っ張られる形でそれは遮られた。エースが困惑気味に顔を向けるとマルコは小さく首を振った。
「あまり無理に関わろうとするな。こいつは他の奴らとは違ェんだ」
「どういうことだ?」
「アルド、疲れているところ悪かった。エースにはおれが言い聞かせておくから、ゆっくり休め」
アルドは何も言わなかったが、僅かに手元が震えて食器がカタンと鳴った。
「あァ、コーヒーは……、今度貰うよい」
アルドの頭にポンッと手を置いてクツリと笑ったマルコは、少し不満気な表情を浮かべるエースを引き連れて部屋を出て行った。
ドアが閉まる音が部屋に大きく響く。それと同時にアルドはその場にドサリと腰を下ろすと両手で目元を覆った。
「……痛い……」
両目が熱い。
ポタポタと涙が溢れ出る。
「ダメだ……。エースを目の前にするとどうしてもアルドを思い出してしまう。私は、私はあんな風にはできない。アルド、私はお前のように心の儘にできないんだ。あれから十年経っても未だに――」
――心の儘に、自由に、生きることはできない――
全ては、見る世界、感じる世界、そして心の在り方の違いだ。
何を見て、何を感じて、何を思い、何を望み、どうありたいのか――。
「私が望んだこととお前が望んだことが違うのだから仕方が無いのかもしれない。私は二度とお前のような者が生まれないように、この能力を全てを使って成さなければならないんだ。それがマスターアサシンとしての……、アサシンと…して……」
涙を拭う。そして、どこを見るともなく視線を宙に彷徨わせた。それから暫くしてゆっくりと目を閉じると深く息を吐いた。
「あァ違う。……家族。そうだ家族だ。唯一血の繋がったお前の、アルドの、姉としての務め……」
そう呟くと笑みが零れた。この時アルドは初めて自然な笑みを零したのだが、アルドはそのことに気付いていない。
アルドはゆっくり立ち上がると身に付けていた装備品を一つ一つ外して衣服を脱ぐとシャワー室に入って身体を洗った。そして、真新しい衣服に身を包むとドサリとベッドに横たわった。それから間も無くして髪の長い女の姿が脳裏を過った。
「あ、」
直ぐにガバリと起きた。
「しまった。ミケーラさんをすっかり忘れていた。怒っているだろうか?」
あれから色々なことがあり過ぎた。だから本当に彼女との約束事をすっかり忘れていた。
アルドはフード付きの衣を羽織るとドアを開けて左右を確認した。慎重に気配を探りながら、自身の気配を完璧に消しながら、ミケーラの部屋を訪ねた――のだが、非常に後悔した。
「あら、アルドさんじゃない!」
「わァ本当、珍しいわ!」
「――ッ!?」
ミケーラの部屋には数人の気配があった。だが恐らく船員だろうと甘く踏んだのが良くなかった。数人のナース達がアルドを見るなり花を咲かすかのように笑顔を浮かべて迎えたのだ。
手を引かれるようにして部屋に招かれたアルドは――本当にどうかしている!――と胸の内で嘆いた。
「今日は珍しく身軽な格好ね」
「あァ、あの、おれは――ッ!?」
ミケーラに断りを言おうとしたアルドだったが、一人のナースが遮るようにしてアルドの顔を覗き込んだ。
「本当だわ! ミケーラが言ってた通りイケメンじゃない!」
「やだァ、タイプかも〜!」
「ふふ、固まっちゃって可愛い」
お堅い性分のイケメンさんでも複数の美女達に囲まれては固まるしかないわよねェ――等と、ナース達に囲まれて固まるアルドを見つめながらミケーラは笑った。
だがアルドは、隊長や隊員等の気配を気にするばかりでナース達の気配に気を配ることを全くしなかった自分の失態を悔いるばかりだ。しかし、それにしても――
「武装していない姿も素敵ね」
「あァ、私、あなたに惚れちゃうかも」
「あら、隊員とナースの恋愛は御法度でしょ?」
「バレなきゃ良いのよ」
男と違って女同士の会話はキャッキャッと賑やかだ。よく考えると同性の群れに混じる経験は微塵も無かった。だからか少し不思議な気持ちになった。――が、アルドはハッとして冷静さを取り戻すと彼女達に軽く頭を下げた。
「すみません。おれは用事がありますので直ぐに失礼します」
「あら、そうなの?」
「滅多にこうして会うことが無いから、もう少しお喋りしてみたかったのに」
「残念ね」
ナース達はそう言ってアルドから離れた。それにアルドは少しだけホッと胸を撫で下ろすとミケーラへと顔を向けた。
「ミケーラさん、報告が遅くなってしまってすみません。もう仕事は終わりましたので。では、おれはこれで失礼します」
報告を一方的に告げるとミケーラの返事を聞かずにアルドは逃げる様に部屋を出て行った。
ミケーラは目を丸くしてぱちくりと瞬かせた。そして、ナース達と顔を見合わせると小さく噴き出すようにして笑い出した。
「無口な彼が珍しく早口でよく喋ったわね」
「凄く貴重な瞬間だったかも」
「アルドって滅多に遭遇しない超レア隊員よね」
「「「ミケーラの部屋が出没ポイントだなんて意外だわ」」」
「色々とあってね」
ミケーラは少し自慢げに言うと早速とばかりに椅子を引いて立ち上がった。
「まだ諦めてないの?」
「精神力がまるで鋼鉄ね」
「本当、懲りないわよね」
「ふふ、だって好きなんだもの。仕方が無いでしょ?」
ミケーラが肩に掛かる髪を払い除けてそう言うとナース達は半ば呆れにも似た溜息を吐きつつ「頑張って〜」と適当な言葉を送ってミケーラと別れた。
彼女達の応援の言葉なんてものは右から左へと軽く通り抜けて行く。ミケーラは足取りを軽くしてマルコの部屋へと向かった。その一方――
再び自室に戻ったアルドは少しよろめいてベッドに腰を下ろした。
「人と関わるというのはこうも疲れるものなのか……」
―― ヒンプ島の前。いや、もっともっとそれ以前の状態に戻りたい。
アルドはゴロンと仰向けになって天井を見つめながら心の底からそう思った。
義弟*エース
【〆栞】