03

モビー・ディック号の甲板上では、1番隊、2番隊、そして5番隊と7番隊が実践的な訓練を行っていた。1番隊と5番隊、2番隊と7番隊とに別れて武器を手に気勢を上げながら剣を交えて戦っている。
しかし、その中にアルドの姿は――どこにも無い。

「火拳!」
「そうはさせんぞエース! 花剣! 必殺――!!」
「うおっと! 流石だぜビスタ!」
「フッ! 油断大敵だぞエース!」

激しくやり合うエースとビスタを尻目に、マルコとラクヨウは軽く流す程度の組手を行っていた。

「ラクヨウ」
「あん?」
「アルドはどうした?」
「あァ、あいつは訓練の必要が無ェからな。今頃は……さァな、自室にでもいるんじゃねェか?」
「訓練の必要が無い? そりゃあどういうことだ?」

マルコが眉間に皺を寄せて疑問を口にした時、ラクヨウはニヤリと笑みを浮かべた。

「マルコ、油断大敵だぜ!!」
「ッ――!」

ラクヨウの攻撃はマルコの頬を微かに掠めた。マルコはチリッとした痛みが走った頬を指先で軽く触りながらラクヨウを睨み付けた。

―― あくまで言わねェつもりか。なら、書類を持って来た時にでも問い詰めるか……。

マルコがそう思っているとラクヨウはフッと軽く鼻から息を吐いて小さく笑った。

「なァマルコ」
「なんだ?」
「あんまりアルドに構ってやるな。あいつはそう簡単に心を開くような奴じゃあねェからな」
「……十年だ」
「……」
「十年も同じ船に乗ってるってェのに誰とも関わりがねェなんて……、見過ごすわけにはいかねェだろうがよい」
「なにを今更って思わねェか? 7番隊の隊員共さえアルドと普通に喋れるようになるまでどんだけ時間を要したと思ってやがんだ。別隊の隊長や隊員となんて、あいつは同じ空間にすらいたがらねェよ」
「その理由をてめェは知ってるのか?」

一段と低い声音で睨み付けるマルコにラクヨウはさも面白ェといわんばかりに肩を揺らして笑った。

「ハッハーッ! あいつはおれとはなんでも話す仲だからなァ! オラ、隙だらけだ!!」
「くっ!」

ラクヨウがマルコの腹部に蹴りを放つとマルコは咄嗟に両腕を交差させてその蹴りを受けた。

―― 面白くねェッ…よい!

更に続けてラクヨウの回し蹴りがマルコを襲った。マルコはそれを受け止めながら額に青筋を張って不服な表情を浮かべてラクヨウを睨みつけた。しかし、ラクヨウはベロを出して揶揄うような笑みを浮かべた。

―― おーおー、やっと気にし始めたか。けどなァ、アルドはお前ェが思う程に簡単な奴じゃあねェぜ? 例えあいつが”お前に気がある”としてもだ。

ラクヨウはトントンと軽くフットワークを見せると手を前に差し出した。そして、人差し指で「来い」とでも言う様にクイクイッと挑発する。

「チッ!」

舌打ちをしたマルコはラクヨウへ突進して鋭い蹴りを放ち、ラクヨウはそれをヒラリと躱す――が、マルコの連撃を受けてなんとか両腕でガードするのだった。

一方その頃――。
肝心のアルドはというと船内のとある部屋を訪れていた。ドアをノックすると「良いわよ、入って」と、部屋の中から返事が聞こえた。
アルドは中に入るといつもの定位置にある椅子に腰を下ろしてフードを取り払った。アルドの前にいるのはナース婦長を務めるエミリアと船医のナキムだ。

「はい、これね」
「すみません」
「調子はどうじゃ?」
「今のところは……。少し身体が重いですが」
「まァそれは仕方が無いことじゃな。女特有のものじゃからこればかりは慣れるしかあるまい」
「困ったことがあったら専用の電伝虫で構わないからいつでも声を掛けてね?」
「はい」

エミリアとナキムに軽く頭を下げたアルドは席を立つと何も言わずに船医室から出ていった。
寡黙――と言うよりは関わることを自ら拒んでいる様子のアルドに、エミリアとナキムはお互いに顔を見合わせると溜息を吐き、軽く肩を竦めて苦笑を浮かべた。

「相変わらずか」
「ほんとに」
「まァ、オヤジさん以外にラクヨウが話し相手になっている分だけマシか。しかし、心は依然凝り固まったままじゃなァ」
「仕方がありませんもの。彼女の”生きて来た環境”があまりにも特殊でしたし、きっと目的を果たすまでずっとあのままでいるつもりでしょうし……」
「ふぅむ……。恋の一つや二つしてもおかしく無い年頃じゃというのになァ」

ナキムが腕を組んで天井を仰ぎ見ながらそう言うとエミリアも顎に手を当てて溜息を吐き「そうですよね……」と、少し哀れげな瞳を浮かべながらアルドが座っていた診察椅子に視線を落とすのだった。

自室に戻ったアルドは、エミリアから受け取った品を戸棚の奥へ隠すように置くとソファへと移動して腰を下ろした。

―― 女性特有か。困ったものだ。

少し痛む下腹部に手を置いて軽く溜息を吐く。腰巻ベルトを外して目の前のテーブルに置き、遠い記憶を辿りながらソファに横たわって天井を見上げた。
左手を目の前に掲げて手の甲を引き上げるように手首を反すと『アサシンブレード』という名の暗器が小手の内側からシャキンと音を立てて顔を出した。鋭い刃が光を受けて反射する様から切れ味の鋭さが容易に見て取れる。これは右の小手具にも同じように内臓されている暗殺者(アサシン)特有の武器だ。
左手のアサシンブレードを収めると手を下ろした。腹部の上に右手と組み置いて目を瞑ると昔のことを鮮明に思い浮かべた。

―― あの日は同胞を一人殺した後だったな。

この船の一員となって早十年。そもそもアルドがこの船に乗ることになったのは、まだ十代前半だった時の事で、とある島の浜辺にて船長である白ひげと出会ったのが切っ掛けだった。





自分がいつどこで生まれたのか定かで無く、『誕生日』という存在自体知らなかった。故に、自分の年が幾つであるのかはあやふやで凡そででしか答えられない。
しかし、それはアルドだけでは無かった。
同じ施設で生まれ育った『同胞』と呼ぶ者達も同じで、誰もが自分が一体どこの誰で、年がいくつであるのか、いつどのようにしてこの施設に来たのか、いつからいたのか、全く記憶に無いのだ。気付いた時には既に何年もの時が過ぎていて、施設で教わることは常識として根っこから染み着いていた。

暗殺スキル。
暗殺者としての信条。
暗殺者としての心得。

何もかもが当たり前のことだと認識し、生きる為の手段として暗殺の訓練を行うことが習慣でもあった。また、同胞と呼ぶ者達は一見すればお互い仲間であり家族同然ともあるかのように見えるが、お互い一個体での存在であるだけで人としての情は非常に薄く、絆というものは存在しない。あるのは『位』という立場における上下関係のみだ。

この施設においてアルドは誰よりも能力に秀でた優秀なアサシン(暗殺者)だった。
十にも満たない年の頃、最終試験として命令を下されたのは賞金首リストに乗っている数人の暗殺だった。
対象とされた者達は全て億越えの強者だ。彼らはこの施設に牙を剥く者達だと教えられ、必ず殺さなければならないとされた。

指示を受けた後、アルドは一人速やかに行動に移して大海へと出た。例え大人の幹部であれ、凄腕のアサシンであれ、この手の命令を熟すには早くても二、三ヶ月は要するものだ。
しかし、アルドはこれをたったの一月足らずで終わらせた。
報告を聞いた施設にいた者達からはアルドの能力のあまりの高さに驚きと賞賛、そして敬意を表す程の偉業とも言って良いものだった。

こうしてアルドは、長年において早々とその称号を与えられるものは滅多に現れないとされる最高位である『マスターアサシン』の称号を十にも満たないうちに与えられた。
最も難しいとされた賞金首リストに載っていた『猛剣のオルフィス、二億五千万ベリー』を、誰の目に触れることもなくあっさりと暗殺してしまったのだから、最高位の称号を与えることに異を唱える者は誰もいなかった。

この猛剣のオルフィスは元アサシンで、アルドと同じ施設の出身者であった。しかし、オルフィスはこの施設の存在に疑念を抱き、ある時に脱走を試みて逃走した後、海賊となって世界を渡り歩いていた。
施設の者達はこれを良しとせず躍起になってアサシンを送り込んだ。だが悉く返り討ちに遭い、なかなかその身を捉えることすらできずにいた。
当時においてオルフィスは最も優秀な男とされていた。そんなオルフィスを見つけ出して殺すというのは至難の業であると誰もが認識していた。

「よく倒せたものだ。戦って殺すにしても誰にも気取られずに殺すなど不可能だろうと思っていたのだが」
「指示は暗殺。……だから暗殺した。問題でも?」
「いや、よくやった。#イルマ#、褒めて遣わそうぞ」

位の高いアサシン達を前に跪く#イルマ#に、長である大導師と呼ばれる男が微笑を浮かべてそう言った。





ふと瞳を開けて深呼吸する。天井の一点を見つめ、次に思い出したのは大切だった者の顔で、ほんの一瞬だけドクンと心臓が跳ねるのを感じ、眉間に僅かな皺が寄った。

本当のアルド――
大切だった者、唯一の血を分けた弟。

大きく息を吸ってゆっくりと吐き出し、痛む腹部を軽く擦って再び目を瞑った。





本当のコルティノーヴィス・アルドは、#イルマ#とよく似た顔立ちと毛色をしていた。同じ施設で育ったにも関わらず実に心優しく笑顔がとにかく明るい少年だった。
一般的に彼のような子はきっと良い子で、友達が多く、皆から愛される少年だっただろう。
しかし、当該の施設においては少年のその優しさは裏目でしか無く、アサシンとしての能力は最低値で無能とされていた。戦闘においては、気弱が先行して相手を殴ることさえできずに一方的に痛めつけられるのが殆どだ。

「同じ血を引く者とは思えん。本当にあの二人は姉弟なのか?」
「さァな……。姉は常に冷静で忠実。殺すことにおいても冷酷で情の欠片も無い。全く真逆の姉弟だな」

育成に当たる幹部達が陰で交わされる言葉をよく耳にした。同胞にも本当にあれがお前の弟なのかと聞かれることが多かった。
姉と弟。
血の繋がる姉弟(きょうだい)という感覚はあまり無かった。
しかし、アルドが#イルマ#を見つけた時、心の底から嬉しそうに笑って#イルマ#の元に走り寄る姿を見ると不思議と気持ちが和んで心地良く感じ、突き放すことはできなかった。
優秀なアサシンである姉を怖いと思うことは無いのか、そんなことを気にする素振りは一切無く、純粋に「お姉ちゃん!」と笑って抱き付いて来る。
同胞や幹部から聞こえる声には「あのような弟を持って大変だな」や「血の繋がりがあることにさぞ悩んでいることだろう」といった類が多いが、#イルマ#にとってアルドは安らぎを感じさせてくれる存在であっても決して煙に巻きたくなるような存在では無かった。

ある日のこと――。
訓練を終えた後、ボロボロになったアルドが雨の中で一人、誰もいない訓練場に座り込んで泣いている姿があった。周囲に人の気配は無く、誰かが見ているわけでも無く、好機に思えた#イルマ#は、アルドの側に立ち寄って腰を下ろした。

「アルド、何故泣いてるの?」

声を掛けるとアルドはしゃくりを上げながら#イルマ#を見上げる。すると彼は言った。

「どうして殺さないといけないのかな。何故、戦わないといけないかな。何故、僕達はここにいるの? どうして僕達じゃないといけないの?」

アルドは次から次へと生まれる疑念の言葉を何度も口にして、姉である#イルマ#にぶつけた。
しかし、#イルマ#にはそれに答えてやれる術は無く、ただただアルドが口にする疑問を聞くことしかできなかった。
そんな疑念が浮かぶことも考えることすらも無かった。なのに、この目の前にいる気弱で心優しい弟は、その疑念を浮かべてはずっと考え続けていたのか――と、#イルマ#はこの時に初めて知った。
最弱のアサシンと呼ばれた弟の言葉は、最強のアサシンと呼ばれた姉の心を、何度も何度も揺さぶって、突き刺し、動揺を誘い、感情を引っ張り起こした。――ヒトとしての心を、感情を、揺さぶり起こして――目覚めさせた。

「……アルド、逃げよう」
「え?」
「アルドの言う通りだよ。ここが普通じゃ無いのは確かだ。私はそんなこと思いもしなかったのに、アルドは凄いよ。私はアサシンとして優秀だったのかもしれない。でも、アルドは”人として”優秀だったんだ」

#イルマ#がそう言うとアルドは弾けるように本心を口にし始めた。

「僕は、世界を見たい。もっと、もっと知りたいことが沢山あるんだ。暗殺なんかしなくたって生きていける。僕はもうここにはいたくないよ!」
「そうか……。アルドにはアルドに合った道がきっとある。無理にここにいる必要は無い」

#イルマ#は頷いてアルドの頭をクシャリと撫でた。この時、心の底からの笑みを初めて浮かべたのだが、そのことに#イルマ#は気付いていない。『優しい姉』の表情でアルドの腕を引っ張って立たせた#イルマ#は即座に行動に移した。

「脱出するには覚悟がいる。良い?」
「うん、僕はここを出たい。僕には夢があるんだ」
「夢?」
「うん。僕は広い海を渡って冒険がしたいんだ。いろんな世界を見て、多くの人と出会って、色々なことを学びたい。だって、世界って凄く広いんでしょ?」
「……うん、広いよ。……凄く広い」
「僕はアサシンじゃなくて『海賊』っていうのになりたいんだ」
「海賊?」
「海賊は自由なんだ! だから僕も自由になりたい」

アルドが頬を赤くしながらそう言うと#イルマ#は少しだけ目を丸くした。

――自由…か……。

『自由』という言葉はアルドによく似合う。そう思った#イルマ#はクツリと笑って小さく頷いた。そして、優しい姉の表情を一変して無表情へと変え、戦闘及び暗殺態勢へとスイッチが入った。

必ず弟(アルド)を、この施設から逃がしてみせる。
弟(アルド)は、ここにいてはダメになる。
弟(アルド)には、望む道を歩かせてやりたい。

せめてそれが姉(#イルマ#)として、弟(アルド)にしてやれる最初で最後の――”愛ある”行動だった。

アサシンが守らなくてはならない掟がある。

『罪のない者を傷つけない』
『目立ってはいけない』
『仲間に危険を及ぼしてはならない』

裏切り者には『死』を――。
裏切りの行為は第一に『仲間を危険に及ぼす』可能性があげられる。同じ知識や能力を備えた者が世間一般に逃れたとして、それがいつ同胞に牙を剥けて危険が及ぶかわからないからだ。裏切り者に与えられるのは、その者の死以外にはあり得ないことなのだ。

#イルマ#はアルドを逃がした後、自身がその標的になるように努める覚悟をしてアルドと共に施設から脱走した。しかし、逃走中に#イルマ#はあることに気付いた。
アルドはアサシンの能力を毛嫌いして身に付けようとせず知識も敢て得なかった。だがその動きに無駄は無く、指示した通りにちゃんと動く。時には#イルマ#の手を引く時さえあって、アルドは決して最弱なアサシンなどでは無かった。
アルドがもし本気でアサシンとして学んでいたら、恐らく#イルマ#以上に優秀なマスターアサシンとして成り得たかもしれない――そう思った。

全ては、見る世界、感じる世界、そして心の在り方の違いだ。何を見て、何を感じて、何を思い、何を望み、どうありたいのか――。

アルドには明確にそれがあって、#イルマ#にはそれが全く無かったのだ。

数刻後――。
雷鳴が鳴り響き、豪雨と風が凄まじい中、血みどろになった少年を抱える少女がそこにいた。少年の胸からは夥しい程の血が流れ、白い衣服は真っ赤に染まっていた。その少年の身体を抱える少女の白い衣服も少年の血で赤く染まっていく。

#イルマ#とアルドが施設から逃亡したことを察した幹部達は、幾人ものアサシンを放って彼らを追わせた。自分達が逃亡したことに施設の者達が何時頃に気付き、どれだけのアサシンが放たれるのかを#イルマ#は予測していた。
アサシンとしてどう対処して、どう生き抜いていくか、#イルマ#には先見の明を持ってやっていく自信があった。しかし――。

一人のアサシンが追いついた。彼は#イルマ#と共に行動をすることが多かったマウリという名のアサシンだ。#イルマ#に負けず劣らずアサシンとして優秀な男だった。

―― マウリは倒しておかなければ!

相対した瞬間に#イルマ#の中で警鐘が鳴ったのだ。でなければ、マウリならばアルドを意図も簡単に見つけ出して殺すだろう――と、#イルマ#はそう思った。

「先に行け!」
「お姉ちゃん!?」

アルドを庇いながら戦えば倒せたとしても痛手を負うことになるだろう。だからアルドを先に逃がしてマウリと戦うことを#イルマ#は選択した。
雷鳴が轟く中、持っている剣に雷が落ちる可能性も十分にあるが、そんなことを考える余裕は無かった。アサシンブレードや長剣を手にお互い牽制し合い激しい剣戟音が雨風の中に鳴り響く。

「何故だ! 何故裏切った#イルマ#!」
「私がそうしたいと思ったからしたまでだ」
「アルドの言葉にそそのかされたか!? 優秀なお前ともあろう者が!!」
「違うな。私がそそのかした。逃亡の責任を問うのならアルドでは無くこの私だよ」
「なんだと……? 気でも狂ったか#イルマ#!」
「マウリ、お前はアサシンとして失格だな。感情的になった状態で私を殺せると思ってるのか?」
「ッ……、あァ、おれはお前を殺せなくとも最低限の仕事はするさ」
「なに……?」

重なり合う剣を弾いて距離を取ったマウリは左手を前に翳した。
手元には握られた小銃。
銃弾を放つ気だと#イルマ#は咄嗟に身構えて避けようとした。

パァン!!

小銃の音が鳴り響いた――。
#イルマ#は目を丸くした。目の前には、いないはずのアルドが――。その肩越しから見えたマウリの口元がニヤリと笑みを浮かべていた。

「ッ〜〜!」

#イルマ#は初めて心の底から怒りの感情を露わにしてマウリへと襲い掛かった。

「なっ!?」
「死ね」

#イルマ#の動きは人とは思えない程の俊敏さで、マウリは目を見張った。――が、次の瞬間には地面に力無くどさりと倒れ、降りしきる雨の中、血だらけのアルドを抱き上げる#イルマ#の姿を最後に捉えて意識を無くした。
首元から血はとめどなく溢れ出し、雨水と血が入り混じっていく。しかし、マウリはそれを見ることも、感じることも許されず、間も無く息絶えて絶命した。

「アルド!!」
「お姉…ちゃん……、だ、大……丈夫……?」
「なんてバカなことを! どうして逃げなかった!?」
「だって……お姉ちゃん…を、お、置いて…なんて、できない…よ」
「私は一人でも生きていける! お前と違って私は――!!」
「僕…知ってるよ……?」
「――……なに…を?」
「お姉…ちゃんの方が、ほ、本当は、僕よりもッ、ずっと、ずっと、優しい人だって…こと」
「……な…にを…言ってるの……?」
「お姉…ちゃんは、き、気付いて…無いんだ。本当はッ……、ほ、本当は、や、やりたくないって……思ってたはず…だよ? 本当はもっと、じ、自由にッ、もっと自由にッ……、生きたいって……思ってるって…こと……」
「!!」
「だ、だから、ぼ、僕は、逃げて欲しかった。ッ……、に、逃げて。い、生きて、じ、自由をッ…、て、手にして、欲しかった……はッ、はァはァ……」
「まさか……アルド、お前は私の為に……? わ、私を、あの施設から逃がす為にわざと……!?」

困惑の色を示す#イルマ#にアルドは小さく微笑んだ。

「僕の夢は…ね? お、お姉ちゃん…と……一緒に…海を……わた…って……――」

―― 自由に、笑って、生きたかった ――

声が掠れ、唇を震わせたアルドは、ヒュッと空気を漏らすような音を鳴らすと呼吸が止まって力無く息絶えた。閉じられた目尻から涙が零れ落ち、雨水と混じりながら頬を濡らす。

「アルド……? ダメ…だ……、起きろアルド……、アルド!」

アルドの名を何度も呼び続けて肩を揺さぶった。しかし、彼は二度と瞳を開けることも、話すことも、動くことも無かった。
フードを押しやって素面が現れた#イルマ#の頬に伝い落ちるのは、雨水なのか涙なのかはわからない。決して崩されることのなかった表情は悲哀に満ちて、ただこうしてアルドを抱き締めてやることしかできなかった。

―― 今、この時、ここで死んだのは、コルティノーヴィス・#イルマ# ――

「私はッ、……おれは、生きて必ず果たす。二度と、お前のような者が生まれないように。おれの能力を使い果たすべきは施設の壊滅。それが、それが――」

――マスターアサシンとしてのおれの成すべき責任――

昨夜の嵐は嘘のように晴れやかで空は澄み渡っていた。そして、海の見える丘の上に少し簡易的な墓が建てられ、そこで誓いを立てる者がいた。

「真実などなく、許されることなどない」

その者はそう小さく呟くとそこから姿を消して二度とその場に立つことは無かった。
墓には小さく可愛らしい白い花だけが供えられていた。後々に風に吹かれてはハラハラと花びらを散らして朽ちてしまうのだが、新たに花を供える者は現れなかった。

『コルティノーヴィス・#イルマ#とその弟アルド――ここに眠る』

墓標には、それだけが記されていた。





ゆっくりと瞼を開ける。ふと時計を見やると数時間が経過していることに気付いた。
どうやら深く眠ってしまっていたようだ。
ハッとしたように身体を起こした。その瞬間にジュクリ……と、気持ち悪い感覚が下半身を襲った。

「……チッ!」

アルドは否応なく顔を歪めて舌打ちをした。残りの装備品を外して着替えを取り出すとシャワー室へと足を運んだ。
身体を洗い流す中で足元へと流れ落ちてゆく水に混じる赤い鮮血を見つめて軽く溜息を吐いた。女特有のソレは本当に慣れないもので、偶に下腹部を襲う収縮するような痛みは戦いの中で受ける傷よりも痛いと感じる。

〜〜〜〜〜

「生理は女にとって大事ものなのよ?」
「セ…イリ……?」
「ふふ、身体が大人の女になった証拠みたいなものよ。おめでとうアルド。ううん、この場合は#イルマ#ちゃんと呼ぶべきかしらね」
「ッ……、できれば、アルドで……」
「あら、そう?」
「しかし、これは喜ぶべきことなのか……」
「当然、喜ぶべきことよ」

〜〜〜〜〜

いつかのナース婦長とのやり取りを思い出しながら身体を洗い終えたアルドは、シャワーを止めると急いで身体を拭き、新たな衣服へと着替えた。
部屋に戻って今度はソファに染み着いたソレを見つめ――雑巾にするか――と、綺麗なままのタオルを濡らして汚れを拭い取る。汚してしまった衣服とタオルを手洗いして済ますと適当にその辺に吊るして干した。

グウゥ〜……――。

昼時に差し掛かる時間の為、空腹でお腹が少し鳴った。

―― できればあまり動きたくはないが……、仕方が無いか。

小さく溜息を吐いたアルドは部屋を後にして食堂へと向かうのだった。

記憶*弟

〆栞
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